第3話 ネオ・テシオ
天塩川。
延長256㎞。北海道では2番目に長い河川。
北海道遺産にしてされている有数の大河であり、本来はカヌーで有名だ。
天塩川の由来は、北海道の探検家として有名な蝦夷地御用雇、松浦武四郎が天塩川流域を探検した「天塩日誌」にある。
「本名テシウシなるを何時よりかテシホと語る也。テシは梁の事ウシは有との意なり。此川底は平磐の地多く、其岩筋通りて梁柵を結し如く、故に号しと」
このアラスカの奥地に伝わる伝説の剣のありかみたいな言葉だが、実際のところ、テシウとは、アイヌ語でいうところのテシ、つまり梁を指す言葉だ。
天塩川では張り出した巨大な岩が大量にあることからその名がつけられたという。当時、川の中に多量にあった巨大な岩は、運河として利用するために取り除かれているが、確かに、天塩川の中は平らな岩盤地帯が多く、その中を岩筋が柵のようになっている。らしい。
なお、この探検の最中に松浦武四郎は天塩川流域の音威子府村で、当時のアイヌ族の長から北海道という名前を聞いたと書かれていた。
ということは、この北海道の名前は、天塩川流域から生まれたことになる。
だが、そんな実感はまるでない。
そもそも、こんな人間聞いたこともない。
松浦武四郎?浦島太郎なら知ってる。それに多分きっと似たようなものだろう。
なぜこうまで冷たい反応しかできないのかというと、このことをグーグル検索で知ったからだ。僕の検索クリエと大量のユーザーデーターから導き出された検索上位から3つ目の結果。どうせまたアップデートがあれば順位が変動するような言葉に、ロマンを感じるほうがどうかしてる。
そんな風情とは縁遠い僕でも、確かにというか、天塩川流域には北海道の原始的な風景が残り続けている気もしないでもない。
日本最北端の一級河川。
北海道でも屈指の川幅を誇り、魚種は豊富。
だが、魚影は濃いともいえないだろう。この広大な川のどのポイントを攻めるのか悩んでいるアングラーが多い。
で、大抵の人間は天塩川支流にやってくる。
それが不思議と魚も同じで、この大河では大半が支流に魚が集まってくる。
きっと、餌をとるのもあの大河では辛いのだろう。平日の仕事に疲れて向かう、路地の裏の喫茶店みたいな感覚できているかもしれない。いや、それは魚にとってのこと。釣り人のほうは、まるで社会の厳さに押し出され働くことになったパチンコ屋の店員みたいな目で。
そんな敬遠されがちが本流といえば、釣りよりもカヌーの人間のほうが多いかもしれない。
そういえば、先日も川でカヌーをしているやつらを見た。
キラキラした笑顔で高級カヌーをガイド付きで川をくだりながらアイフォンで自撮りをしている男女。その川岸で、今日も釣れないと安竿をふっている僕。想像してくれ。その姿を、彼らは風景の一部のように見ているかもしれない。だけど僕のほうはというと、偏向グラスごしでもまぶしくて見ていられず、顔をそむけ、やっぱり支流のほうがよかったと車に戻りたくなる。これが、美しい自然の川べりに映える格差というやつだ。
それを我慢して、釣りをするのはなぜか?
考える間もなく、僕は先日の出来事を思い返してため息がもれる。だめだ。思い出すのはやめろ。
「ちょっと、お昼ご飯何にするの!?」
妻の呼び声に驚いてノートパソコンから顔をあげると、すでに昼の12時近くになっている。
「ちょっとまって、もうすぐ終わるから」
慌てて画面を開き、作業の程度を確認するが、案の定まったく進んでいない。知り合いの事務所から頼まれ、すでに納期が迫った工程を見るが、あと少し。なのに、どうにも続ける気にはならず、やっぱり画面を閉じた。
あの日、天塩川の支流にあたる川の中に引きりこまれた時のことを今でも思い返す。
階段を下りているこの瞬間もそうだ。一段おりていくたびに、あの水の底へと進んでいく気がするが、それにも対応策はある。
つまり、なんとか夢だと思いこむことにした。
たちの悪い悪夢。まるで酔っ払った夜に見るような例のクソみたいな夢。
だからあの場所に釣りにもいっていない。
幸いというか、今年の道北は雪解けが遅く、雨と溶けた雪がまじった濁流の河川に行く理由もいまのところない。
それでも、やはり気になってこうして天塩川について調べてしまうのは止められない。あの川底の第二の天塩川の風景と、そこで聞いた言葉。しゃべるニジマス。こうして目を閉じれば、まだあの螺旋の光がゆっくりと瞼の裏をコーヒーのミルクみたいに回ってる。
だが、きっと現実じゃない。
食卓についた僕はしっかりと目を開き、食卓と、妻が作ってくれた昼食に手を伸ばす。
そうだとも、きっと、僕は異世界ものの主人公になった気になっていたのだ。
異世界モノのストーリーはよく知っている。例えばカクヨムとかで。とりあえず実名を出すけど気にしないでほしい、訴えられたら裁判で話をつけるつもりだ。
言論の自由についてここに話すつもりはないけど、このサイトはシノザキに教えてもらった。あいつは何でも知っている。けど、まさか小説を読むような奴だとは思っていなかった。
ともかく、あんなものが現実になったとして。いや、現実じゃない。夢だとしても、あれはありえない。
このサイトに僕の記録を残すことにした時、ほかの物語も読んでみることにした。すると、ほかの主人公はニートでブサイクだったのが異世界で大金持ちのモテまくり。もしくは王族の末裔がお決まりらしい。
ついでにかわいいヒロインと頼れる仲間。それからロマンあふれる剣と魔法の世界がまっている。そういうものだろ?
この手の話の場合、はじまりは決まってマジでヤバイみたいな書き方で、不幸な人生を送っていたとかいいつも大したことはなくて、結局ああやばいここ異世界じゃんどうしよーとか言っているが、誰が読んだってまぁ最後はハッピーエンドが待つ流れだ。みんなも知ってて読んでるだろ?
つまり、困ったふりさえしていればいい。
そのはずじゃないか。
どんな異世界にいこうが、たいていは乗りきれる。それどころか、何の努力も葛藤もなくチート無双で万々歳。戦国自衛隊から脈絡と続く”価値基準の高い空間でなんの苦労もなく無双”てのがこの手のストーリーだっていうのに。なのに、ふざけたことに僕のはどうだ?ガチでやばいだろ?なんでだ?なんで僕だけがあんな気色の悪い世界なんだ。
考えすぎたせいで、握ったフォークに力が入りる。右の眉毛がけいれんしている気がするけれど、自分をだますことができない。
もし、あの砂防堤で引きずり込まれた世界が本物だったとしたら。
そんなことは考えたくもないけれど、もしそうなら、先は決まっている。異世界は異世界でも、あのクトゥルフ神話のように。
ちなみに、僕はラブクラフト全集ですべての話を読んでいるので予想は楽勝。知らない人に教えておくけど、ここから先、まっているのは地獄だけだ。例えば古の恐ろしいタコに操られた魚人だらけの天塩川で僕自身が彼らになる。それか宇宙からピロピロと笛を吹くだけが取り柄とかいう、ふざけたヨーグルトみたいな触手だらけの神がやってきて町を破壊。で、何をされるかといえば、そいつをみるだけで死ぬ。見るだけだ。マジでそういうことになる。
こうなれば、いくら異世界ものとはいえオリジナリティとかどうとか言っている場合じゃない。
いや、はっきりいおう。
そんなものは二の次でいい。
何が独創性だ。僕の人生というストーリにはそんなものいらない。小説の中ならいいが、リアルに考えてみてくれ。そんなもの必要か?このさい個性なんて死ぬべきで、僕だってほかと同じように、異世界で美しい世界と見知らぬ貿易で経済を動かしたりパッとしたことをしたいんだ。それでハッピーだろ?もしもこの夢に読者がいたとしたら、僕も、みんなハッピーなはずじゃないか。いやだ、魚人だらけの異世界なんて絶対にいやだ。
瞬きもせずにパスタをすすったあと、妻が最近はまっているクックパッドで最新というサンマのパクチーサラダにフォークを伸ばそうとする。が、驚くほど苦くつい口走ってしまった。
「あのさ・・・これって本当に流行ってるの?」
僕がためらったサンマのサラダを美味そう食べつつ、妻は不思議そうな顔をする。
「そうよ、みんな作ってるしツクレポだってすごい多いのよ?」
「ああ、そうなんだ」
「なに?文句あるの?」
「いや、ないようん、ないない」
といいながら、新鮮なレタスの間にうもれたサンマの頭部と目が合い、先日であった二息歩行のニジマスを思い出し眩暈がした。
だが、妻の鋭い視線を感じ、僕はしぶしぶサンマのサラダを食べることにする。すまないと思いながらも、サンマの頭と目をあわせないよう、額の部分をフォークで押し、春の天塩川のごとく濁る内臓とオリーブオイルのドレッシングの底へと沈める。
やはり、個性なんてクソだ。
14:20分 天塩川の呼び声
クックパッドで2000レポを超えたというサンマサラダを食べ終えたあと、思った通りというか、ともかくトイレから出られなくなり、そのレポの数字をミリリットルに変えただけの排泄に必死だった。
ひどい下痢だ。
腹痛と、洗濯機の排水ホースから出っぱなしの水みたいな便意に悩まされる。これが水道料金だったら幾らになるのか考えつつ、僕は震える手でスマホを握り、クックパッドを開いて調べる。確かに、本当に2000を超えている。それどころか書籍にまで掲載されているという。
キャッチフレーズは「美味しくて最高のインスタ映え!」だそうだが、笑うよりも先に僕の腹部に亀裂が入ったような痛みが襲い、それどころじゃなかった。
ソーシャルネットワーキング全盛期。民家もまばら、新鮮な空気があるこの美しき道北のド田舎であろうとも、クックパッドでおいしい料理のレシピを知れるのは良い。けれど、こんな料理がネットで流行っているなんて、ネットはいつから生ごみの入れ物になったんだと思ったが、それは昔からのような気もする。
ページの下側ではインスタ映えが凄いというフォロアー達の声が並んでいる。だから、今僕がこの場で排泄作業をインスタに上げてやりたい気持ちになる。だが、そんな皮肉もここまでが限界だ。僕はすぐさまひびわれたiPhoneを取り出し、震える手で便器に落とさぬようSIRIを起動した。
「げ…下痢…止め方…サンマ……」
「スイマセン、ヨクキコエマセンデシタ」
「だから・・・下痢!止め方!サンマ!」
アイフォンに向かって叫びながら思うのは、いつから僕はこんなに情けなくなったのか、という疑問。さすがにAIには応えられないだろうし、聞くのはやめておく。
そんなことを考えているのは、僕が弱気だから?
いや違う、ただ腹が痛いからだ。いつだって人は苦痛と恐怖の前では従順に、常に事実を知るようにできてるんだ。
「オサガシノケンサクケッカはコチラデスカ?」
ああ、ついにでてきた。
いまの時代、ネットを見ればこの奇怪な下痢の正体だって簡単に見つかるのだ。みてろ?これで僕も無事個室から脱出だ。
で、表示されたwebの検索結果は次の通りである。
ここから15キロ離れた場所にある地元唯一のツルハドラッグのグーグルマップ
それと、インスタ映え抜群というクックパッドのサンマ・サラダのレシピ。
最後に表示されたのは「下痢にサンマが効くかも?」という記事のタイトル。いつからAIはこんな皮肉を覚えたんだ。
「・・・・いや、わかったよ・・・」
この個室の中で、アシスタントAIにすら頼れない。なら、諦めるしかない。苦痛と自らの呻き声と一緒にミキサーに突っ込まれたように、便器の間で体をよじらせる。見事脱出失敗。こんなはずじゃなかった。
そう、僕はこんなはずじゃなかったのだ。
というのは、何もサンマ・サラダを食べて悶えている僕の姿を指して言っているわけではない。
こんなトイレの中で自分語りをする羽目にもなるとは思っていなかったが、しょうがない、この苦痛から逃れるためにも、別のことを考えなくちゃならない。ほら、個性がなんだよ。普通のほうが良いだろ?
僕がいるこの個室の板張りの壁を支柱にした築60年の建物。耐震工事検査をしたら廃屋にされそうなボロ屋に住みはじめたのは、今から3年以上前のことだ。
僕のうめき声すら閉じ込めているか怪しいこの家の値段は、なんとわずか50万円。驚きだろう?このあたりの土地には、こんな空き家がゴロゴロしているんだ。
だが、別に安いからという理由でこの土地にきたわけではない。
ほかの移民者のように自然に憧れていたりとか、農作業に従事したくてとか、そういう意識の高さなどまるでないし、僕はもともとインドア派。もちろん、トイレ以外の場所でだ。
それにもともと、僕は北海道の出身ではない。
生まれたのは長野県。それから一時的に北海道にいたのだが、それから東京で就職することになった。
だが、そこで仕事のつまらなさに嫌気が差し、噂に聞いていた札幌の会社へと天職。
そこで今の妻の知り会うことになったのだ。
当時、僕が住んでいた札幌のマンションは今よりもずっとましだった。
というよりも、今の家に比べれば最高だ。
中古マンションだが一部屋1000万円はする、駅上の超好立地部屋。
マンションには金持ちの高齢者しか住んでいなかったし、騒音問題なんてゼロ。しかもペット可で猫も二匹いる。
地下鉄にエレベーターで乗れたので車だって必要なかったけれど、昇進を期にに新車も購入した。
はじめのころ、札幌でうまくやれるか不安だったけれど、子供のころに少しだけ住んでいた北海道そのものには不安なんてなかった。
仕事も慣れるうちに順調に。
期待した通りの会社だったこともあって、僕自身はとても満足していた。
本当に、何一つ不満なんてなかった。
ひたすらに普通の生活だったはずだ。
なのに、それが今やこのざまだ。
トイレに籠りながら、ウォシュレットが壊れて僕が修理したボロボロの水栓トイレに座り、すすけた壁の板を睨んでいる。
しかもこのあと、僕には仕事が待っているっていうのに。
それからしばらくトイレにこもっていたが、ようやく下痢がすこしましになった頃、すでに1時間が経過していた。
妻は実家へ行くといって、昼食後から家にはいない。誰もいない室内で僕だけのうめき声だけが流れていたと思うと、今度は目から何か出そうだ。
トイレのドアを開けると、心配そうなうちの猫が待っていたが、僕のやつれた顔を見たとたん、待ちくたびれたと言わんばかりにあくびをして、僕の足にすりよってきた。
「ああ、わかった、な?」
このボロ屋に移ってもまるで気にしない二匹の猫はどうやら遊んで欲しいようで、家に誰もいないので僕を待っていたらしい。だが、強制腸内洗浄をすませたばかりの僕に体内に、猫と遊ぶ余裕は残されていない。猫から逃げ、這いながら狭い階段を上り、手すりをつかみ昇。このオンボロ中古一軒家の前の住人だった老人がが介護ようにつけていた手すりだが、これほどありがたく思ったことはなかった。
2階に上がり、いつもの座椅子に座り、ようやく一息つく。
あとはボーナス無し、月収わずか20万円の仕事をはじめるだけ。息が整ったらとりかかるつもりだ。
ちなみにやることは単純で飽き飽きする。
クライアントからの要望で(僕はこの言い方が気に入らないので客とだけ呼んでる)仕様書どおりにサイトを作るだけ。特別なスキルなんかいらない。最低限のコーディングさえできればいいし、僕なんて子供の頃から作ってる映画ブログと、絶対に誰にも見せられないアニメ同人小説サイトを趣味で作ってきただけでやってる。いや、マジで。
それくらい簡単だっていうのに、僕は、いつまでたっても僕は仕事は始められなかった。
理由はいろいろとあるが、もともとこの仕事が好きじゃないということも原因だ。僕はもっと普通の仕事がしたかった。サラリーマンでもいいし、農家だっていい。実際その手の話はいろいろあったが、残念ながら今はこれしかない。
30分が経った。
と思って時計を見た時には、すでに1時間が経っいて、それでもパソコンを開く気になれなくて、開きっぱなしのpcの画面はフリーズモードに突入し、さっきから死んだような目で椅子に座る僕の顔だけが映っている。
やめてくれ、そんな顔をみせないでくれ。
この時、腐りきった自分の顔を見たくなければ、ただ指を伸ばしてマウスをクリックするだけだった。そして仕事にとりかかればいい。フォントを調整して、チェックをしてファイルをアップロード。これだけのこと、30分もあればできる。
だが、どうやってもその気になれなかった。
息はとっくに整っているし、サンマサラダの余韻ともおさらばしてる。
だがマウスを握る気にはなれなかった。
それから1時間が経った頃。
気が付けば、僕は天塩川に注ぎ込むあの支流に立っていた。
不思議なことに手には釣り竿を持っている。肩からはショルダーバック。歩くたびにクマよけの鈴の音が響き、春の雪解け水にあふれた川の轟音に紛れそうになっていて、効果のほどは定かではない。
空は曇ってる。
それに僕の心も。というか、脳みそからは名前も知らない黄土色の憂鬱な分泌物が排泄されまくっている気がする。
仕事はもちろん手をつけていない。
というより、このままじゃ何もできない。そう思った。
金は欲しい。もちろんだ。今のままの生活じゃいずれ終わりがすぐに近くにやってくる。
なのに集中できなかった。
理由は明白だ。頭の中では、しゃべるニジマスと、あの時にみた異世界の天塩川の光景で氾濫していた。この天塩川みたいに。
川沿いの砂利を歩いていくと、あの砂防堤が目の前に現れる。
この天塩川の支流をせき止める形て作られた頭首工には、今も大量の水が流れこんでいた。
雪しろと土砂の濁りがまじる川を見つめ、もう一度脳裏に焼き付いた光景と照らし合わせてみる。だが、やはり無理だ。重なるどころか、何一つ組み合わさることすらできない。
となれば、僕はやはり夢を見ていたのだろうか?
いや、夢をみていたんだと自分で決めたことを思い出し、僕は砂防堤をすりぬけ、さらに上流を探した。
この上にはヤマメやニジマス、居つきのイワナなどがいるのだが、ヤマメはシーズンオフ。今頃誰が今年最初に釣り人にミスバイトさせるか相談しているはずだ。で、勝ったやつには落ち込みの最高のポイントが待ってるとか。
そんな冗談を考えつつ、砂防堤から50mほど上流に移動すると、ちょうど流速が早まりはじめる位置が来る。この付近が上流部最初のポイントになる。
足をとめ、僕はロッドの先につけていたスピアヘッド・リュウキ50sのノットをチェックした。今日の気分はピンクヤマメ。光量が低い雪しろの中でも目立つカラーだ。
まずは4000円の7fの安竿を思いきり振りぬいた。
対岸まで届きそうになり、慌てて3000円のアブガルシアのスプールに指をかける
間一髪、枯れた葦の手前に落ち、1000円のリュウキはロストを免れる。濁流の中を流すため、フックにガン玉を付けてあることを忘れていたのだ。総額たったの8000円。これだけ安いタックルを使う貧乏アングラーにとって、ルアーロストは突然死のリスクすらある。
というか、忘れすぎだ。
確かに、釣りをするのは、僕にとって何かを忘れるためのものだ。
今回の場合はどうだろうか?仕事?下痢?それとも別の何かか…貧乏な今の生活とか、ともかく、忘れたいものが多すぎる人生だから、思い当たるものが多すぎる。
トゥイッチを軽くいれつつ流れの中をドリフトさせる。
ボトムに届いてる感触はない。ターンさせて帰ってくるルアーは押しの強い流れに負け、フックのウェイトをはじきとばす勢いで暴れている。
このミノーじゃ完全に押し負けている。見た目よりも流速が速いみたいだ。
回収後、次にメタルバイブをセットする。貧乏人の味方、ゲキブル7gのラインアイにスナップを通すころ、僕の脳裏には不安や苛立ちは消えつつあった。
日常の辛さも、苦い記憶も、たいていこの頃にはなくなる。
ゲキブルのピンクシルバーに変えてキャスト後、ラインを送るとボトム付近にルアーが届いている感触があった。これもシングルフックにウェイトを付けて7gを8gに増やしている。こちらのほうがフックも暴れないのだ。
釣り上がって7投目。
ようやく一匹目が釣れた。20cmにも満たないニジマスだ。
綺麗な魚だと素直に思えたことから、僕はもう大丈夫らしい。
さらに連投。はやめに一匹釣れた日はそのあとも続く。
つぎのヒットは、この濁流のど真ん中。なんの変哲もない筋を通した瞬間だった。
サイズは大きくないが、フッキングしたとたん、驚いたそいつは濁流に乗り、一気に下流に走っていく。12LBのラインを切られる心配はなかったが、僕は急いで下りながらリールを巻いた。
こんな濁りの中で出てくる一匹はとても貴重だ。
絶対に逃したくない。
僕は川くだり走る。魚も、絶対につられたくないのだろう。さっきよりも勢いをまして、流れの中を突き進んでいく。
心地よかった。
夢中になっている間、僕は色々なことを忘れられた。
金も、仕事も、今日の昼のサンマサラダも、そしてあの悪夢すらも、もうどこかに消し飛んでいる。
抵抗はそう強くはないし、強引にランディングできないわけでもなかった。
けれど、僕は無意識に魚にあわせて走っていた。
ずっとこの時間が続けばいいと思た。
魚もとまらないが、僕だって止まらない。川の爆音がうそのように遠くなって、何かの鳴き声が聞こえた。足元の枝をジャンプでよけて、着地と同時に地面を蹴る。アドレナリンに突き動かされた体が求める通り、なすがままに、僕は天塩川を走った。
だが、長くは続かない。
こういう時の僕はだいたい酔ってるだけだ。ここまで軽快に走れたのは数秒だけで、あとはもうぐだぐだ。もともと体力に自信がないし、さっきも言った通り、僕はインドア派。結果ついに息が切れはじめ、さえずっていた鳥の声や濁流よりも、自分の喘ぎ声のほうが耳に届くようになったころ、僕はいよいよ魚をランディングする体制をとりはじめた。足をゆるめつつ、リールを強く巻いてみるが、魚が止まる様子はない。むしろ重くなっている。
ありえない。
フッキングしてから走る前まで、魚のサイズは40㎝ほどだと思っていた。本当だ。ライトテーパーのロッドは穂先しか曲がらなかったし、重みなどたいしてなかった。
なのに、今はまるで違う。
ドラグが止まらない。
流れにのっていても、魚の重みはそう変わらない。なのに、今やロッドはブレもなく弓なりになったまま。ドラグも悲鳴をあげたまま。質量×速度=パワーというなら、走っている間に別の魚にすり替わったとしか考えられない。それとも物理の法則を曲げれるのか?わけのわからない不安が頭をよぎる。が、そんなわけがない。
そのままラインを出し切られる前になんとかしなければならず、僕はとにかく再び走りはじめた。
魚はすでにあの忌々しい砂防堤付近まで下っている。このあたりで流れは緩くなっているはずなのに、ラインのテンションは一切変わらない。流れに乗っているわけじゃないのか?
わけがわからないが、とにかくここで止まるはずだと、僕はリールを再び巻き始める。やってやる、なにが釣れたのかわからないけれど、とにかくここで勝負するしかない。
ラインの先にいるのがどんな魚か想像もつかない。
もしかしたらイトウや、このあたりにたまに出るという雷魚かもしれない。
だが、どんな魚だろうが、ここから先は行き止まり。だから、魚は必ずUターンするはず。
川の渕まであと5メートル。
その瞬間にテンションがゆるむかもと思い、僕はドラグをしめ、足だけで距離をたもる。
それが失敗だった。
魚はその先で川が途絶えていることにまるで気が付いていないように突き進む。止まらない。僕は走りながらリールをまく手を止める。まずい。やめろ、そんなわけがない。
だが、僕の遅すぎた予感は的中した。
ラインの先が堤防の渕についたと思った瞬間、いきなり水面が割れる。轟音と水しぶきの中、水面に飛び出してきたのは、巨大な銀色の体。あの夢で見た喋るニジマス。
空中に5メートルはあろう巨体が浮かんだ瞬間、すべての時間が止まった。
魚は飛び上がりながら、はっきりと僕のことを見ていた。口元にはゲキブルがあるが、こいつはフックなんて咥えていない。やつが咥えているのはルアー本体なのだ。
───だったら離せよクソったれ
やめとけばいいのに、心のなかで叫んぶと、案の定、再び時間が動きだす。
まるで飛び出したミサイルのように、巨体は勢いをつけたまま宙を泳ぐと、そのまま落下。防波堤の下へと消える。ロッドを離そうとするが、やはりまた手が離れない。叫びながら足を地面に突き刺そうともがくが、抵抗むなしく視界が浮き上がり、地面が離れていった。
最低だ。
またかよ、またなのか?
防波堤のコンクリートを超えるまでは叫んでいたが、二度と踏み込まないはずの白波が顔面へとせまっていく風景を見る間に、意識は闇の中へと消えた。
普通でありたいだけの異世界
目を覚ますと、また暗闇の中だった。
どうせあれだと思い目をあけると、やっぱりというか、あの冷たい壁が見えた。
そして、あれがいる。
「いらっしゃい、今回はどうだった?」
まてまて、と体を起こすと、これもやっぱり、目の前にいたのは最低の光景だった。
全長2メートルと、光る魚体、ぬめるからだ、どこを見ているのかわからない両目。
僕の手よりもでかい胸ビレが動き、パタパタとこちらに向けてふっている。挨拶のつもりかよ。
「どうって…くそ…どうかって?」
僕は体を起こす、周囲を見回すがやはり同じだ。僕がこの間やってきた部屋だ。体を見回すがケガはないが、またロッドもバッグもない。
「今回はあなたを偶然みつけた仲間がキャッチしてきたのよ、それにしても変わってるわよね、この時期誰もこないっていうのにね。で、まぁこうなんていうか、なりゆきで、ね」
なりゆき?
いいかげんにしてくれ。なりゆき?なりゆきで僕を捕まえてまたここに連れてきたっていうのか?だんだん頭にきた。もちろん、頭を打ったわけでもない。目の前の魚人も怖いし、この部屋の空気も冷たくてカビ臭くて、なにもかもが不気味だが、それでも、僕の怒りはついに噴出した。
「なに?ふざけるよ!なんだってんだ!僕をみつけたから攫うだって?なんだおまえは!インド洋の海賊よりもたちがわるいぞ!魚だろ!というかなんでだ!なんでお前はそんな!そんな気持ち悪いんだ!」
僕が突然怒り出したことに、魚人は驚いたようだ。口をパクパクさせ、胸ビレをバタつかせる。
「どうしたのそんなに怒って?え?どこか痛いの?」
「いいや痛くない!どこもな!」
「そうよね、私たちはランディングにはとても気を使ってるの、あなたたちもそうでしょ?もちろん全員ってわけじゃないわよ、中には手を水にもぬらさないで触る人とか酷い人もいるけど」
「酷い?いいやはっきり言っとくぞ!酷いのはこれだ!ええっと、なんだっけ、お前の名前はなんだ!」
「エリー」
「エリー!そうかエリー・・・・エリー??」
まさかこの魚人にネットフィリックスの恋愛ドラマの主人公みたいな名前がついていたことに驚いたが、ここで引いてはだめだ。この怒りだけが、今僕をまともに保っているんだ。
「いや、どうでもいい!とにかくエリー!おまえらは何考えてるんだ!僕がいたから気軽に拉致る?それはいいだろう。いやよくない!いや、それはいい!最悪いいとしてだ!なんでこんな気持ちの悪い世界で、なんでそんな気持ち悪い顔の魚と俺はしゃべらなきゃいけない!異世界だろ!えええ!?ここは異世界なんだろ!?」
「違うわ、まぁ確かに異世界といえば異世界だけれど、前にもいったとおりここも天塩川の一部で」
「うるさい!それよりニジマスってのはな!もっとこう美しいんだよ!なんでだ!さっき釣った20㎝のニジマスなら僕は大好きだ!確かに外来魚で嫌われてはいるけど!なかにはデカイほうが好きってやつもいる!だが!2mで!おまけに喋るメスのニジマスに拉致られるのが好きなアングラーなんかいない!それに!異世界にやってくるのもな!」
「だから異世界じゃないっていってるじゃない」
「いいや異世界だ!完全に!異世界だ!なのにいるのはお前と、お前の仲間と、お前の敵と、ええと、全部だ!ぜーーーーーぶリアルすぎる魚人ばっかりだ!なんでだ!もっと普通にやれないのか!!普通ってわかるか!?異世界ものっていったら美少女と剣と魔法だ!エラとペレットと油ビレじゃないんだよ!」
「えーっと言ってることわかるんだけど…」
「いやわからないよな!俺はもっとわからない!なんだってんだ!普通がいいんだよ僕は!いやこの世界だけじゃない!何もかも!僕の人生も!全部普通がいいんだよ!普通だ!普通にしてくれたのむから!!」
「それなら、まずはあなたが普通にしてみたら?」
「は?」
いきなり魚人にまともなことお言われて、ついに僕は冷静さを取り戻すはめになった。がむしゃらに叫んでいる間だけのまともさはもう消えた。世界は、とっくにこの魚達に支配されている。
「まずは冷静に話しましょ、なにも理由もなくあなたを連れてきたわけじゃないの」
魚人が横をむき、そのままでかい顔を寄せてくる。前回もそうだが、なんでこいつはこの角度で僕を見に来るんだ。そもそも、僕は砂防堤を避けていたじゃないか。というか、まじで怖い。
「そうね、そうなる可能性も考えてたのよ」
巨大ニジマス。ことエリーは僕に顔の右側を近づけながら、でかい目をぐるぐると回す。冗談を言うつもりなのかしらないが、まじで怖い。
「あなたには仕事があるの、ここでの仕事が」
「はぁ?仕事?」
まてまてまて、仕事なんて僕は受けたつもりはない。
だいたい僕は仕事を忘れに釣りにやってきたのだ。それなのに仕事だって?
「言ったでしょ、あなたにはこの世界を救ってもらうの」
救うだって?ああ、確かに言ってた。前回は。
「だから何を救うんだ!それに・・・それに・・・」
「今はウェブ制作の仕事をしているんでしょ?別に仕事っていってもそっちじゃないの、私たちのウェブサイトを作ってほしいわけじゃない」
そりゃそうだろ。僕だってこんな突拍子もない魚たちをのせたUMAサイトなんか作ったら一貫の終わりだ。
「それにあなたが依頼されてるエロサイトの制作なんて別に興味ないわ、そもそもそ私魚だから、人間には興奮しないし」
「は?なんでそれを知ってるんだ!」
ふざけるな。確かに、僕は金が良いからという理由で怪しい仕事をいくつかやっている。けど内容を勝手にバラすな。あえて黙ってたんだぞ。
「インターネットならこの世界にもあるのよ、というか私たちが引いたの。だからあなたが普段何をしていて、どんなサイトをやっていて、どんなブログをやっているのかもね」
ということは、僕の釣りブログも知っているのか。それと、エロ動画のまとめサイトと、痛々しい過去のポエム日記ブログとかも。
「色々と知ってるわ。あなたの過去とかもね。で、それはどうでもいいの。あなたにはこの世界で仕事をしてもらいたいし、世界を救ってほしいの」
「だから、なんで僕が必要なんだよ」
もうだめだ。うんざりしてくるし、さっきから不安で胸がいっぱいで破吐きそうになってくる。これなら、昼間にトイレで籠っていた頃のほうが断然マシに思える。
エリーは僕の左側にまわる。観察しているのか?いや、そんなことどうでもいい。すぐにここから出れるなら。
「で、あなたの前の仕事も当然しってるのよ?」
「は?」
さっきからはぁ?しか言ってなくて申し訳ないけど、この時は本当にそれしか出なかった。
「探偵」
「は?」
また声が漏れた。
その間抜けな様子に、エリーは満足そうに笑う。狙い通りというわけだ。
「だから、探偵だった頃のことを思い出してもらうわ」
その言葉で、僕は背筋に寒気が走るのを感じた。
普通がよかった。
そう願っている僕の、思い出したくもない人生が一瞬だけ蘇る。
普通とは縁遠い、醜いあの光景。
その一例を記すなら、この時浮かんだのは、白い雪の中、川沿いに横たわった女の青い足と、血とか。
「・・・最低だ、マジで」
「そうはならないわよ、きっとね」
エリーはまた笑ったが、顔は一つも変わってない。魚だからだ。
これがせめて美少女になってくれれば、僕は今どんな気分だったろうか考えるが、この時ばかりは、きっとおんなじだ。
探偵。
この言葉も、僕にとってはとっくに忘れようと思っていた世界。
この世界と同じ夢だと思い込んでいた場所。
なのに、こいつはそれを知っている。ということは、やっぱりここも現実ということなんだと思うと、ほんとうに、マジでやってらない。
眩暈がした。
エリーの笑い声と魚臭い暗闇で、僕はまた暗闇の中で意識を失いそうになる。ぬめる暗い影ばかりが、再び僕を包んで引きずり込もうとしているのがわかる。
もういやだ。
誰もが知っている通り、人間、これだけ思うようになったらもう終わりだ。
この時も、ぶつぶつとその言葉をうわごとのように呟いていたと思う。視界が暗くなりはじめ、滲んては消えそうになり、この異世界から頭の中に逃げ出そうとする。そして、僕は自分でも、目の前の魚人でもなく、生まれてはじめて、釣りを恨んだ。
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