第三話 「俺、狂乱す」

 俺には目下、可及的速やかに、切実に、必要としているものが三つある。

 ひとつは全身を映せる巨大な鏡――つまり姿見だ。

 自分がどんな姿をしているのか、いまだに分からないのは不安でしようがない。

 カメっぽい特徴は満載だが、それで確定したと判断するのは早計だ。

 ゲームで言えば現状は自分のステータスがまったく不明な主観視点のFPSファースト・パーソン・シユーターみたいなもんで……いや、それどころか基本的な操作法すら分からないレベルかも。


・左スティック…前進後退/方向転換(スティック押し込みで二足と四足のモード切替)

・右スティック…首を動かす(押し込みで首を甲羅に引っ込める)

・Rボタン………噛みつき攻撃

・Rトリガー……ブレスを吐く

・Lボタン………脇鰓から吸気

・Lトリガー……ゲル状燃料をセット(LT押しながらRTでナパーム・ブレス)

・Aボタン………尻尾を振る

・Bボタン………咆吼をあげる

・十字キー右……大仏おばちゃんと話す


 この俺の操作方法をゲームのコントローラーに当てはめるとこんな感じかな。

 無駄に操作が複雑なうえに入力から実際に動き出すまでけっこうな遅延ディレイがあるから、ライトゲーマーからは操作性だけでクソゲー認定されそう。つーか大仏おばちゃんは攻略のヒントを教えてくれるキャラなのか。お供の妖精的なポジションの。

 しかしこれがゲームだとすると説明書マニユアルも見ないで、しかも他人のセーブデータで途中から始めちゃったようなもんだからストーリーとか目的とかサッパリ分からんな。スタートボタンでメニューを開いたり、セレクトボタンでオプション設定を弄ったりしたいのに肝心のボタンが見当たらねーときてる。

 せめてXボタンで頭上のヘリ視点に変更できればいいのに。そしたらTPSサード・パーソン・シユーターになってかなり操作しやすくなるんだが。

 二つ目は通信能力だな。

 ラジオ放送は危険だから諦めるとしてもやっぱりスマホ機能は欲しい。

 インターネットに接続できれば世界中から情報を得られるじゃないか。

 掲示板が見られるなら『俺、怪獣だけど何か質問ある?』ってタイトルでスレッドを立てたいところだ。

 ただし質問されたところで何も答えられないので、むしろ俺が身の振り方を相談するスレになりそうだな。ネット民なら俺の主観だけでは知りようもない情報を集めているはずだし、的確なアドバイスが期待できそうだ。

 もっとも、それに倍するデマ情報の書き込みを真に受けてやっぱり右往左往する羽目になるかも……いや、なるね!

 やっぱりブラウザ機能はいらないかも。地図アプリだけでいいや。

 そして三つ目、これが一番の課題なんだが……プライバシーだな。

 いつまでも一糸まとわぬ姿のまま衆目に晒され続けるのは困る。

 甲羅を服だと考えれば背後はどうにか隠せているとも言えるが、問題はそういうことじゃない。

 人目を避けて落ち着ける安全な場所がないというのはけっこうなストレスなのだ。

 さっき巨大なカニをしこたま食ったからこそ出てきた懸念なんだが……まあ、その……具体的に言えばってことだ。

 正直、膨満感がハンパねえ。

 甲羅の中がパンパンに詰まってやがる。

 外部から衝撃を与えられたら破裂しそう。

 腹が重くて四つん這いの姿勢でもちょっと苦しいくらいだ。

 下手すると体重が五割増しくらいになってんじゃねえか?

 いくら美味いからって食い過ぎだ。

 腹の中がゴロゴロ鳴っているのは消化不良の兆候なのか何なのか。

 めでたく消化できたとしても、遠からずとんでもない量のアレを産み落とすことになりそうなんだが……このままだとどう考えても野グソ――あ、野グソって言っちゃった!

 まあいいや。

 今さら格好つけても仕方ないし、開き直って有り体に申し上げると、だ。

 このままだと公衆の面前で大量の便をことになる。

 汚い話で申し訳ない。

 こっちとしても別に下ネタで受けを狙っているわけではなくて、人間としての尊厳に関わる大問題だから言っているのだ。

 ……え?

 たかがウンチ……だと!?

 たかがウンチで大袈裟だと?

 それがトン単位だったとしてもウンチで済ませられると思うか?

 人間が下敷きになれば余裕で死ねる量だぞ!?

 生存者がいるかもしれないエリアで気軽に野グソと洒落込むわけにはいかんだろ?

 ゲリ便だったら即死には至らないにせよ、食らったが最後トラウマは必至だ。

 ……分かるな?

 それにだ。

 紙がない。

 尻を拭くための紙が。

 ……ん?

 そういや製紙っていう会社があった……よな。

 するとこの近くに製紙工場があったりするのか?

 しかし――たとえ製紙工場があったとして、たとえ怪獣用トイレットペーパーがあったとしても、たぶん意味がない。

 むしろかえって絶望が深まるだけだろう。

 紙があったところで……俺の手は尻まで届かないんだからな!

 甲羅を背負う者に架せられた十字架というやつだ。

 用を足した後どうすればいい? ビルに尻を擦りつけて拭くか?

 その行為の一部始終を観察されるんだぞ!?

 下手すりゃビデオに撮られて世界中に配信されるんだぞ!?

 できるわけがない。

 怪獣に成り果てた今も俺は恥の概念は捨てていないのだ。

 公開排泄プレイが避けられないというのなら、いっそ開き直ってカバみたいに尻尾を使って大便を周囲にブリ撒いてくれようか。

 カバ……?

 そうか、川に浸かったまま放出すれば――まあバレはするだろうが下流に流れていくし、尻を拭く手間もない。

 天然の水洗トイレだ。

 下流のどこかで詰まったらそれはそれで最悪だが。

 それを考えると東京湾に出て海底まで潜って用を足すのが最善だろう。

 そうか、大仏おばちゃんから授けられたプランにはこういう意図も含まれていたのか。

 何という深謀遠慮!

 単なる思いつきにしては完璧すぎる。

 これで万事解決、一安心だ。プランに変更はない。

 ……なに?

 ウンチよりも先に気にしなきゃならんことがあるだろうって?

 まあ、確かに。

 王子駅前で大惨事が起きた件は記憶に新しいかと思う。

 新しいというか、ついさっきの出来事だが……

 おぼろげな記憶にして片付けようってわけじゃない。

 俺にも半分くらいは責任があったようにも思えるが、今さら後悔したところでどうなるもんでもないし。

 それに……だ。

 無責任なようだがあえて断言しよう。

 大丈夫なのだと。

 何故なら、この物語の結末はと決まっているからである。

 そもそも『ある朝目が覚めたら身長五十メートル超の巨大怪獣になっていた男の話』などという全編が悪ふざけで出来上がっているようなリアリティの欠片もない与太話に、すべての謎の解明だの、伏線の回収だのを期待されても困る。

 そんな都合のいい話があってたまるか。

 むしろすべて投げっぱなしの夢オチであってほしい。

 目が覚めたらアパートの自分の部屋で寝ていて、東京は怪獣が暴れたりしておらず、いつも通りの平穏な一日が始まる――それこそが俺の希望だ。

 逆に最悪のオチとは、これが現実で、俺自身はどうにか人間に戻れたものの、怪獣時代にやった数々の破壊行為の責任を問われて途方もない額の損害賠償を命じられる結末だ。

 人畜無害な巨大生物であろうとしているのは、その最悪のオチを回避するためだ。

 しかし今思えば、王子の件はその方針が裏目に出たのかもしれない。

 カニを食って寝ている俺を安全だと判断して、泡塚に捕らえられた市民の救助が決行された可能性もある。

 ……考えすぎだろうか?

 ナパーム地雷の暴発は俺自身にとっても予想外のアクシデントだったとはいえ、爆発物を扱う怪獣として多少は警戒してもらった方がいいのかもしれない。

 悩ましいところだ。

 しかし仮にこの方針が功を奏したとしても、俺はあくまで『人類に友好的な怪獣』という扱いでしかなく、元が人間だった(少なくとも当人はそのつもり)とは理解されないだろう。

 安全性だけでなく、人間性もアピールするべきだろうか。

 言葉がしゃべれないからコミュニケーション不能だという考えがそもそも浅薄なのかもしれない。

 たとえば文字を書くというのはどうだろう?

 筆談だ。

 日本語でメッセージを表記して見せれば俺が人間だと分かるのでは?

 試しに、手元のアスファルト――四つん這いの姿勢だから手元でいいのだ――の表面を爪で引っ掻いて平仮名の「あ」を書いてみる。

 ……こりゃダメだな。

 予想以上にダメだ。

 まず顔と手先の距離が近すぎて、覗き込もうとするとかえって何を書いているのかよく分からない。

 指先を視界に捉えつつ顔を離すのは意外と面倒だった。

 腕が短いというか首が長すぎるというか、体型が人間よりもカメに近いせいだ。

 そしてアスファルトの路面が柔らかすぎて思ったより広い範囲が一緒にめくれ上がってしまう。まともに書けているのかどうかさえ定かでないときた。

 紙とペンの偉大さを思い知ったぜ。

 怪獣用の文具ってどこで売ってる?

 やっぱり怪獣ハンズだろうか。

 世怪獣堂とか。

 俺が文字を書こうとしていると気付けば自衛隊が用意してくれたりしないかね?

 あまり期待できそうにないが……待てよ?

 この場合、俺が文字を書けることより、読めることの方が重要じゃないか?

 例えば自衛隊のヘリが『この道五キロ先に避難所あり』と垂れ幕を出してくれれば、俺もなるほどそうかと進路を変えることができるわけだ。

 それに直筆で書かなくても、五十音の書かれたパネルさえ用意してくれればコックリさん方式で文章を組み立てることもできるだろう。

 ふむ、怪獣の身体でもできることはいろいろありそうだぞ。

 しかし……どうだろう?

 日本語で意思疎通ができるとして、人間側は俺という存在をどう判断するだろうか?

 自分は元人間だと主張しても、自分の名前すら覚えていないのだから信じてもらえそうにない。そうとは知らされずに勝手に知能テストを受けさせられた挙げ句、学者に「五歳児程度の知能です」とか断定されちゃったりして。

 結果、どう足掻いてもせいぜい『人語を解する人間に友好的な怪獣』止まりじゃなかろうか。元人間として基本的人権を主張するとしても、どうやって怪獣になったかが分からない以上、政府や自衛隊だって俺を人間に戻すことはできなさそうだ。

 ………………

 …………

 ……そこで、だ。

 ここで新しい仮説を発表しようと思う。

 少し前に思いついてはいたんだが、どうして今まで発表しなかったかというと……理由はすぐに分かる。

 とはいえ、もったい付けるほどの説じゃない。

 単純な話だ。

 そもそも『人間が怪獣になるはずがない』という一般常識に従うと、だ。

 この現状は、俺という人間が怪獣に変身したのではなく、が怪獣の身体に乗り移っている状態だとは考えられないか?

 つまり……俺という人間はすでに死んでいて、彷徨える霊魂となってこの怪獣に憑依しているのではないかという説だ。

 これなら俺が怪獣の身体に馴染んでいないことも、過去の――が思い出せないことも、納得がいくというものだ。

 自分が死んだことに気付いてない幽霊ってよくいるって言うしな。

 俺はいかにして幽霊となり、怪獣に取り憑くことになったのか?

 抱き合って石段を転がり落ちたら精神が入れ替わったとは考えにくい。

 憑依の理由はもちろん――俺がこの怪獣に踏み潰されるか食べられるかして死んだからに違いない。

 抱き合って転がった結果ぺしゃんこになったのかもしれないが。

 ……今、甲羅の表面に平面化してシールよろしく貼り付いている元の俺の図と一緒に『ど根性ニンゲン』というフレーズが出てきたんだが、何だこれ?

 まあいい。

 問題は、これが正解だとすると、将来に夢も希望も持てなくなってしまうことだ。

 五体満足な人間として生き返れる可能性なんて限りなくゼロに近い。

 それに、他の怪獣が俺と同じ境遇である可能性もほぼ消える。

 道理で話が通じないわけだ。

 はは。

 ふう。

 ………………

 …………

 ……

 ほら、暗くなった。

 だから考えるのは嫌だったんだ。この説。

 本体が死んでいるとなると、後は成仏するしかないじゃないか。

 ああ、それで大仏おばちゃんがいるのか。

 なるほど納得――できるかァ!

 待て、絶望するのはまだ早い。

 逆転の発想だ。

 不運な巡り合わせで死後幽霊となって怪獣に憑依したのではなく、自分の意志でこうなっているとしたら……?

 それだと人類を怪獣の脅威から守るために、あえて我が身を犠牲にして怪獣と合体したみたいじゃないか。

 おっ? 確かそんなヒーローがいたような気がするぞ。

 敵の力を利用して敵に対抗するとか、ヒーロー物にありがちな構図だよな。

 今は記憶を失っているが、怪獣になったのは実は計画的にそうしたのであって……そういうことなら本体は今もどこかで安全に保管されているのかもしれない。

 自衛隊が俺を攻撃しないのは……人間怪獣化計画を知っているからか?

 俺はもともと人類側の戦力としてカウントされている!?

 さっきまでウンチの心配をしてたやつが、急転直下で人類の切り札に!?

 いきなり話のスケールがデカくなったぞ。怪獣だけに。

 こっちの説が本当なら嬉し……くねえェェェッ!

 怪獣に人間の心を加えたからって他の怪獣より強くなるわけじゃねーから!

 しかもなんで機動力で劣るカメ型怪獣と合体させた!? 最低でも空飛べる怪獣じゃないと話になんねーんだよ!

 この計画考えたやつバカだろ! バーカ、バーカ!

 ………………

 …………

 ……

 自分の妄想に激怒して取り乱すとか、やっぱりストレスのせいかな。

 だいたい憑依説自体が眉唾なんだよ。

 人間の心が宿っているのは幽霊だからで説明できても、結局『怪獣』という一番トンデモな超自然現象までは説明できないからな。

 怪獣はどこから来たんだろうか。

 原因は謎の宇宙線とか放射能か?

 あるいは侵略宇宙人の尖兵とか?

 しかし幽霊に宇宙人が加わると途端に興ざめするなー。

『UFOの正体は妖怪だった!』ってのと同じくらい何も説明してないし。

 ワケの分からないモノがさらに別のワケの分からないモノにシフトしただけだし。

 あと怪獣人間化計画を――って、逆か。

 ……ん? 逆!?

 逆転の発想をさらに逆転させるというのは、どうだ?

 怪獣に『自分は昨日まで人間だった』という偽の記憶を植え付けることで、人間の味方をさせるという計画だったら?

 俺が元人間だと思い込まされているだけの怪獣だとしたら――?

 いかん。

 ますます恐い考えになってしまった。

 ありそうだから困る。

 だが、それにしたところで自衛隊からのアプローチが薄すぎるのは合点がいかない。

 計画を知っているなら、ダメ元でも俺の目の前に垂れ幕くらい吊して見せるべきだろ。

 怪獣用トイレを設置してくれさえすれば、ちゃんとそこで用を足すし。

 もしや王子駅の惨事の件で計画が打ち切られた?

 ……ありもしない計画に打ち切りも頓挫もないもんだが。

 やっぱりネガティブな想像を転がすのはよそう。精神衛生上よろしくない。

 昔の偉人も『考えるな。感じろ』と言っていたような気がするし、下手な考えを巡らせるよりも、自分の感覚を信じるべきだろう。

 昨日までは人間だった――この根拠のない確信が揺らぎはじめたらヤバい。

 夢オチという最後の切り札もあることだし、いつかは人間に戻れるという希望は捨てずに前向きに生きるべきなのだ。

 すべての謎が解かれるにしても、まずは生き残ってからの話だ。

 そう、怪獣対策については考えを改めなければならない。

 多少なりとも違和感を感じたら――怪獣の気配を感じたら、そのエリアは避けて迂回するくらいの慎重さが求められる。

 少なくとも目に見えている異変を無視してはいけない。

 油断大敵。

 好事魔多し。

 石橋を叩いて渡れ。

 怪獣が本気で叩くと壊れるからあくまで比喩だが。

 行く手から水の匂いがする。

 荒川は目前だ。

 今度荒川に入ったら脇目もふらずに東京湾を目指そう。

 そもそも寄り道さえしなければとっくに東京湾に出ている頃なのだ。

 こうなったのもあの飛竜のせいだ。

 あいつも今頃は傷付いた翼を休めているだろう。

 しばらくは飛び回れないくらいのダメージを負っていればいいが。

 根に持って追いかけてきたら厄介だが、水辺ならこっちが有利だ。

 水中に潜ってしまえば暴風ごとき屁でもない。

 カニが泡で自分に有利な地形を作っていたのと同じように、ホームグラウンドというべき環境に身を置くべきなのだ。

 俺にとっては荒川がそれに違いない。

 荒川に抱かれてこそ真の安心がある。

 怪獣になってしまった俺にも帰れる場所はあるのだ。

 こんな嬉しいことはない。

 ………………

 …………

 ……

 さて。

 そろそろお分かりいただけている頃だと思うが――

 この物語は、俺が持ち前のポジティブシンキングで空元気を出している時に限って想定外の苦難が襲ってくる仕組みになっている。

 油断していたわけではない。

 隙があったわけでもない。

 ただ思慮が足りなかった。

 浅くて薄かったのだ。

 俺は他の怪獣との接触を全力で避けると心に決めていた。

 しかしそれはあくまで俺の都合でしかない。

 俺を目がけて近寄ってくるやつにとっては、実に、まったく、どうでもいいことなのだ。

 近寄ってくる相手……?

 そう、俺はすっかり勘違いしていたのだ。

 怪獣といえば自分の縄張りに腰を落ち着けているやつばかりで、俺がうっかりその縄張りに足を踏み入れない限り接触を避けるのは容易だろうと。

 怪獣は野生動物とは違う。

 本能だけで動いているとは言い難い。

 飛竜の声を聞いて俺が興味を惹かれたのと同様に、俺の慟哭を耳にして近寄ってくるやつがいたとしても何の不思議もない。

 その程度のことにさえ考えが及ばないほど、俺の頭は冴えていなかった。

 だから、カニの縄張りを出てすぐに他の怪獣と遭遇する可能性など、はなから頭になかったのだ。

 そのせいで、俺はあの恐ろしい……言葉にするのも忌まわしい……最大最凶の敵と相まみえることになった――


      ★


 俺は王子駅を越えた先で再び地上に出てきた首都高の高架に乗って先へと進んだ。

 幅百メートルほどの川が「し」の字を描くように蛇行して高架下を流れている。

 荒川……じゃないな。

 荒川ならもっと河原が広い。

 するとこれは隅田川だな。

 確かここから少し上流で荒川から分岐していたはずだ。

 荒川は隅田川を渡ったその先にある。

 東京湾まで流れているという点ではどちらも同じだが荒川一択だ。川幅が違う。

 隅田川を跨ぐ手前で首都高の高架橋は幅がほぼ半分になった。

 普通なら上りと下りの線が左右に並ぶところが、ここだけ上下に二段重ねの構造になっているからだ。

 五十メートル級の巨体には少々狭い。

 感覚的には丸太の一本橋を渡る気分だ。

 水面がやけに遠く感じる。

 高い……とはいえ、転落したところでたいしたダメージはないだろう。

 岸に上がって街中を縦断するのは気が引けるというだけだ。

 俺が首都高を通るのは市街地への被害を最小限に留めようという配慮からだ。

 なので落ちないようにバランスを取りながら進んだ。

 カメの身体で猫の真似をするのは客観的に滑稽に見えるかもしれないな――と、そんなどうでもいいことを考えているまさにその時だった。

『ぞざざざざざざざっ』

 そんな感じの、変な音が聞こえた。

 この先――荒川を渡った先の足立区方面から、高架橋の下の段をが逆走してきたらしい。

 何か……って、何が!?

 確認しようと下を覗き込むと――

 それは現れた。

 それは……

 それは!

 それわわわわわわわわわわわわわわわ


 ひぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁおおおおおおおおおおひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいうひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいィィ!

 ぬ

 ぬ

 ぬ

ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬヌルヌルうううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううっ!


 ヌル


                   ヌメ




             ひぎい



 あ     あ           あ                あしあしあしあしあしあしあしあし




 あしが

アシガ


     あしがががががががががががががががががががががががが



 ぎゅにゅる



 いかんれす


             これ            は




 はひぃ





 ししししししししししししししししししししししししししししししししししししししししししししししししししししししししししししししししシシししししししししししししししししししししししししししししししししししししししシ死にます





 もうらめ




       らぁめええええええええええええええええええええええええええええ



              ああ 死ぬわ



          もう死ぬ


                          いや死ぬね


 殺せ



           ひとおもおもおもおもおもおもモモモモ



                いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい



 いっそ殺してくりゃ





 むひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!


                          くきい




 はひ


                うげぽ






                     おげええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!




 ………………




       …………




                  ……





     ききききききききき


     ききききききききききききききききききき気持ち悪い気持ち悪い気持ちきもきもきもきもきもきもきもきもきもきもきもきもきもきもきもきもきもきももききもきもきもきもきももきギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギ




 ぐるああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああおおおおおおあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛アアアアアアァァァァァあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ



             あ゛


『水中に逃れろ……奴もそこまでは追ってこれまい』



                  そそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそぞぞぞぞぞぞぞそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそそソソソそうか!







 ………………

 …………

 ……

 うう……

 フヒヒ

 うふひぃ

 ふう……

 プピピパピプッピッポ……

 キキキキ

 ぐぎがぎぐぎぎぎ

 はひぃ……

 …………お?

 水中でも息が苦しくないぞ。

 やはり脇にあるスリット……というかエアインテーク(?)には鰓の機能があるのか。

 そういやカメって水中で冬眠するって言うし、皮膚呼吸で水から酸素を取り出したりできるんだろう。

 とはいえ魚みたいフルパワーで動けるって感じじゃないな。

 じっと動かないでいれば苦しくないって程度の酸素取り入れ能力らしい。

 しかしそれでも有り難い。

 水中に長時間潜って逃れるという戦略が有効だからだ。

 しかし土左衛門のフリをして流れに身を任せて下るには、隅田川の流れは少々穏やかすぎるようだ。

 川底で仰向けの状態になっているものの、流される気配がない。

 何かが水面を打つ気配――

 目を開けて確認しないと不安だが怖くて無理だ。

 クキキキキキ

 ……まままままままずは落ち着け落ち落ちオチオチチチ

 むぐぐぐぐぐ

 いかん。

 息苦しくなってきた。

 それも動悸が収まらないからだ。

 冷静さを失うな。

 パニックになってはいけない。

 こういう時は素数を数えると落ち着くと聞いた覚えがある。

 誰から聞いたかは忘れたが。

 ところで素数って何だっけ?

 それ自身以外の数で割ることの出来ない整数……で、いいのかな?

 1。

 2。

 3。

 5。

 7。

 11。

 13。

 17。

 19。

 ……23。

 27――じゃなくて。

 29。

 31。

 37。

 41。

 ………………

 …………

 ……

 うむ。

 本当に落ち着くもんだな。意外にも。

 1は素数じゃなかったような気もするが、どうせ誰に咎められるわけでもなし。

 さてと。

 状況説明が必要かな?

 俺としては省略したい。

 心の平衡を保ちたいからな。

 しかしまあ……自分自身の現状を把握する上でも役に立つし、やっておくべきか。

 ……え? さっきのアレは何なのかって?

 とくに意味なんてないですよ?

 一人称の語り部が正気を失ったらってだけのことですが?

 重要なのはその原因だ。

 先に言い訳をさせてもらうと、さしたる理由もなく正気を失ったわけじゃない。

 俺の理性が怪獣化のせいで脆くなっているわけでもない。

 俺でなくても理性がブッ飛んで当然の事態に遭遇したからだ。

 むしろ怪獣だったおかげでまだ耐えられたと言ってもいい。

 人間だったら間違いなく狂い死にしてたね。

 見てから五秒で発狂余裕でした。

 ………………

 …………

 ……

 やっぱり言わないとダメか?

 どうしても聞きたい?

 聞く覚悟はできてるのか?

 グロ耐性に自信はあるか?

 SAN値チェックは大丈夫か?

 ……SAN値って何だっけ?

 まあいい。どうせジョークの類だ。

 宇宙的恐怖とは関係ない。

 純地球産の恐怖だ。

 だからって安心するな。

 俺が遭遇したのは新たな巨大生物――すなわち怪獣だ。

 特別手強い超能力があったわけじゃない。

 ただその見た目が……最悪に不気味というだけだ。

 人間誰しも苦手な生き物くらいいるだろ?

 小さくて実害がないと頭では理解できても生理的に受け付けず、触るどころか見ただけで悲鳴を上げてしまうほど嫌いな生き物が。

 それが巨大化して、問答無用で襲ってきたとしたら?

 身体に巻き付いたとしたら?

 ヌルヌルテカテカしていたとしたら?

 ……ふひい。

 思い出そうとしただけでも総毛立つ――いや、全身の鱗という鱗が逆立つ。

 もう完全にトラウマである。

 しかも出来たてホヤホヤのやつだ。

 本来なら全身の穴という穴から汁という汁を垂れ流しながら七転八倒するレベルだ。

 ウンチの心配をしていた頃が懐かしい。

 しかし……意外というべきか、あれほどの恐怖を味わいながらも、しこたま食ったカニを吐き戻すこともなく、失禁脱糞することもなかった。

 メンタルは人間でもフィジカルは怪獣の強度ってことか。

 頼もしいぜ。

 カメでよかった……とは言い難いけどな。

 三つの要望のうちのひとつは『飛行能力』に変更だ。

 苦手な相手に出会っても空に逃げられるって素敵やん?

 飛竜がうらやましい。

 ヤツなら相性的にそれほど苦戦しないんじゃなかろうか。

 鳥って細長い生き物に強いイメージしかないし。

 俺を追ってきた飛竜が代わりに退治してくれないかな~……って虫がよすぎるか。

 虫……虫か……『アレ』も虫に含まれるんだろうか。


 あばばばばば


 やっぱり『アレ』のことは考えるのも嫌だ。

 とはいえ『アレ』と呼び続けるのもアレだし、不親切だ。

 なので『M』と呼ぶことにしよう。

 MMMMMMMMMMMMMMMMMMMMM……と並べれば――


 ムギギギギギギギギ


 字面だけでもトラウマスイッチが入りゅうううう。

 クッ……だったら『DSK48』とかどうだろう?

 DSK=蛇足な。

 数字も本当なら100だが、四十八人のアイドルがムカデ競争をしているイメージだから×2で足の数はおおよそ――

 あ、って言っちゃったよ!


 がぎぐげぎゅぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ


 の名前を出さないように避けていたのにィィィ……

 くうう……妄想力だ……人間の妄想力で現実を書き換えろ!

 自分を欺け!

 世界を騙せ!

 あの最悪の怪物は水着のアイドル四十八人が合体したものだ!

 あの最悪の怪物は水着のアイドル四十八人が合体したものだ!

 断言するぞ。


 あの最悪の怪物は!

 水着のアイドル四十八人が!

 合体したものなんだよ!


 ななな何だって――っ!?

 身体の表面がヌルヌルしているのは?

 もちろんローションのせいだ!

 ローションで全身テカってる水着美少女四十八人!

 うひょう!

 そう考えるとエロくね?

 うん、エロいな!

 超エロい!

 ……よーし、いい感じだ。

 興奮してきたぞ。

 性的な意味で!

 ……むぐぐ。

 息が苦しい。

 興奮しすぎたか?

 酸素が足りない。

 いかん……このままでは……酸欠で……逝ってしまう――

 マジで土左衛門に……

『ぼくドザえもん~』

 フヒヒ。

 ……おい待て。

 これは本格的に脳がやられはじめているのか!?

 もう猶予はない。

 メインタンクブロー!

 緊急浮上だ!

 圧縮空気で気嚢に取り入れた水を押し出し、浮力を得て一気に起き上がる。

 水面から上半身を出して、目を開く。

 目の前に『アレ』がいた。

 隅田川を跨ぐ高架橋に長い身体を絡ませている。

 俺の脳が沸騰した。

『ポメエエエエエエエエエエエエエ!』

 これは恐怖の叫びではない。

 闘志の表明だ。

 やってやんぜ!

 いくぜ――必殺の〈ナパーム・ブレス〉!

 口から吐き出したゲル状燃料は、綺麗な真ん丸の火球となって一直線に飛んだ。

 今までで一番上手く吐けたんじゃないか?

 火球は高架橋を直撃し、真っ赤な炎を迸らせて爆裂する。

 大気をビリビリと震わせる轟音と共に、橋は中央部分を粉砕されて折れ曲がった。

 スゲェェェェ!

 何という会心の一撃!

 これがベストの配合で放たれたブレスの威力か!?

 しかし……『アレ』は?

 粉微塵に千切れ飛んだか?

 広い視野を使って周囲の動くものを探す。

 陽光を反射してキラリと何かが光った。

 それは――空中を泳ぐように身をくねらせる細長いシルエットだった。

 中華風ドラゴンかと思ったら全然違った。

 同じなのは、まるで雲に乗っているかのような軽やかさだ。

 空気抵抗が大きいのか、DSK48はずいぶんゆっくりとした落下速度で降りてきた。

 そして市街に降りると建物の間を縫うようにして近寄ってくる。

 まさか……ノーダメージ……だと?

 首都高がボッキリ逝く威力なのに!?

 しかもこっちを恐れている様子が毛ほどもねえときた。

 こいつには警戒心とか恐怖心とかはないのか?

 そもそもカニと同じか、それ以上に何考えてるか分からん生き物だし。

 機械的に反応しているだけで、ものを考える知能なんてないのか?

 だから虫は嫌いなんだよ!

 三百メートルほど手前でDSK48は右に進路を変えた。

 できれば左に行ってほしいんだが……荒川への進路を妨害するつもりか?

 そのまま素通りして退散するなら俺だって無理してまで追わないが――などという甘々の希望的観測はやはり裏切られる定めのようだ。

 ローションを浴びたようにヌルヌルとテカっている背中に、ネオンのような光が瞬く。

 脚とは別に背中に並んでいる触角のようなトゲの先端が光っているらしい。

 何だろうと確認するよりも先に、噴水のように光の列が放出された。

 それ自体が発光しているのか、鱗粉のように陽光を反射しているだけなのかは分からないが、とにかく『やたら綺麗な虹を放射している』としか表現できない。

 えらくファンタジックというかメルヘンな感じ。

 おぞましい外見のくせに生意気だぞ!

 放物線を描いて伸びた虹の架け橋が、河岸に立つ五階建ての団地に降り注ぐ。

 その直後――

 発泡スチロールにシンナーを吹き付けたように、団地ひと棟が瞬く間に溶け崩れた。

 なっ……なぬぅ!?

 こいつは……ささっさっさっさっ、酸だ――ッ!

 団地を溶かした猛毒の虹がこっちに伸びてくる。

 俺は慌てて隅田川に潜った。

 虹を受けた水面が沸騰したように泡立つ。

 何だか分からんが強烈な化学反応が起きてるう~~っ!?

 潜っただけじゃヤバい。

 俺は川底を蹴って下流に向かった。

 逃げるためじゃない。反撃に転じるためだ。

 あんな悪夢から這い出てきたような化け物を野放しにできるか。

 北区を焦土に変えてでも仕留める――

 元がアイドルだろうと知ったこっちゃねえ。

 二百メートルほど下ったところで急浮上し、振り向きざまに〈ナパーム・ブレス〉を吐いた。火球が空中で虹とぶつかり、爆裂する。

 ……え?

 突き破らなかった……だと!?

 あの虹は何でできてるんだ?

 てっきり強酸性の液体だと思ってたが……質量のある光線なのか!?

 それともナパーム・ブレスと相性がよすぎて過激に反応するのか?

 可燃性でブレスが突き破るより先に誘爆するとか?

 だがそんなこといちいち気にしてる場合じゃねえ!

 数撃ちゃ当たるとばかりにナパーム・ブレスを三発連続で吐く。

 狙うは進行方向の地面だ。

 着弾したブレスが火柱を上げる。

 紅蓮の爆炎がDSK48を正面と左右から包み込む――やった!

 ヒャッハー! 粉々に砕け散……らない!?

 爆風を受けて木の葉のように高く飛ばされたDSK48は、しかし、その火柱を乗り越えて何事もなかったように進撃を続ける。

 ウソ……だろ!?

 バカなの!?

 もしかして熱さも痛みも感じないのか!?

 それに何で耐えられる?

 バリヤーか? バリヤーなのか!?

 超硬くて超軽くて超KYだこいつ――っ!

 うおおおおっ! こっち来んじゃねえええええっ!!

『ケポン!』

 直撃を食らわせようと吐いたナパーム・ブレスは、グミのような半固形燃料のまま目の前の水面に落ちて飛沫を上げた。

 ……あれ?

 圧縮空気が……在庫切れだと!?

 考えてみれば当然だった。

 そもそも戦闘態勢を整える暇もなかったのだ。

 補給していないうえ、さっきから下半身は隅田川に浸かったまま――つまり脇腹の吸気口は水中にあった。

 しかもさっきまで鰓呼吸に使っていて水が入っているときた。

 道理で息苦しいわけだ。

 はは、参ったね。

 半狂乱の状態からいきなり冷静になれるわけがない。

 眼前で巨大な水柱が上がった。

 川底で半固形燃料が爆発したのだ。

 俺はコンクリートで固められた川岸に背中から叩き付けられた。

 クッ……水中爆発ってやつは意外と効くんだな……

 すぐに体勢を立て直し、脇鰓内を排水して空気を取り込んで……と頭では考えているがこの巨体はそうは素早く動けない。

 ――と。

 DSK48は途惑ったように河岸で動きを止めた。

 水中爆発で盛大に撒き散らされた川の水を浴びたためか――?

 水を嫌うように河岸に沿って左に曲がる。

 その胴体からは湯気だか霧だかがと上がっている。


『――水中に逃れろ……奴もそこまでは追ってこれまい』


 半狂乱の最中に聞いた救いの声を思い出した。

 あれは誰の助言だったのか?

 大仏おばちゃんにしてはちょっとイケメンすぎる台詞だ。

 水中に追ってこないのは……もしや水が弱点だからか!?

 律儀に高架橋を渡ってきたのは俺と同じ理由じゃなさそうだ。

 だったら陸に上がるのは取りやめだ。

 川に浸かったままでガンガン戦う!

 再び毒の虹を放射される前に仕掛けるぞ。

 策は……当然、水攻めだ。

 具体的にどうやるかって?

 吸気口から空気の代わりに水を取り込み、気嚢をポンプに使って放水するんだよ!

 肺が水で満たされることになるので、常識で考えれば溺れる。

 だが今の俺は怪獣なのだ。

 この世の理から外れた存在――非常識の塊である。

 今相手にしているDSK48なんか非常識度合いではさらに上回っている。

 非常識な敵に常識的な手段が通用するはずがあるまい!

 水から酸素を取り出すくらい、やってやれないことはない!

 根拠はないがな!

 よし……ベント開け! 注水開始!

 脇鰓から大量の水が体内に入ってくる。

 冷たい液体が気嚢を、さらに肺を満たしていく。

 むふう……気持ちのいいもんじゃないな、これは。

 そういや川魚とか一緒に入ってくるんじゃ……いや、どうせ吐き出すんだし考えないでおこう。

 水が満タンになったところでいったん口を閉じ、気嚢の筋肉で水圧を高める。

 DSK48がいるのは蛇行する隅田川と荒川に挟まれた三角形のエリアだった。

 上流と下流に出口はあるが、行動範囲は限定されている。

 川を渡れないので一度は離れてもぐるりと一周してすぐに戻ってくる。

 敵を正面に捉えたところで、俺は大口を開けて放水した。

 狙った通りに――いや、狙った以上に高圧放水は上手くいった。

 四百から五百メートルくらいは飛んでるんじゃないか?

 汚ねえ毒の虹とは違う、本物の綺麗な虹のアーチが空に描かれる。

 大量の水を浴びせられたDSK48は嫌がって進路を変えた。

 いいぞ!

 ちょっと苦しいがまだいける。

 一周して戻ってきたところへ放水すると、やはりDSK48は濡れるのを嫌って避けた。

 ………………

 …………

 ……

 放水作戦を四回繰り返したところで、俺はさっきから敵の様子に何の変化もないことにようやく気付いた。

 これは……と言えるのか?

 大量の水を浴びせられて嫌がるのは、陸上で生活するほとんどの生き物にとって普通の反応じゃないのか?

 水をかぶって平気な顔をしているのはカエルとかカバとか、水辺で生活する生き物だ。

 もしかして水が弱点かと思ったが……この反応はちょっと苦手という程度だぞ?

 つまり……普通に嫌なだけ!?

 クソッ、水攻めは効果なしか!

 窒息させるには水中へ引きずり込むしか――

 どうやって?

 手で掴んで?

 それとも口で噛みついて!?

 無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理!

 絶対無理!

 その作戦だけは断固拒否する。

 見るのも触れるのも嫌なのに、噛みつくとか気持ち悪すぎるから!

 わざと巻き付かれて川にドボン?

 巻き付かれる段階で発狂するっつーの!

 つーかそれ一回やって失敗してるんじゃねえの!?

 くきぃぃぃぃっ!

 いかん、ストレスがマッハだ。

 だいたい何が『非常識な策』だよ!?

 水攻めなんてGも殺せないじゃねえかよ!

 これはおそらく俺自身の実体験の記憶だろうが――あいつらはそもそも水に沈まないし、水をかぶっただけでは溺れない。

 腹の側面にある気門……だったかな?

 要は呼吸用の穴が並んでいるんだが、その周りは脂でコーティングされた毛で覆われていて水の侵入を防いでいるという。

 DSK48も身体の表面が脂でヌルってるからGと同じタイプだろう。

 ……てことは、水中に引きずり込むという作戦はそもそも無理っぽくないか?

 ただの息止め対決になりかねないし、そうなったら俺に有利な点があるとも思えない。

 胴体が長いから身体の何割かが水面上に出ていれば窒息しない……とかだったらむしろ圧倒的に不利じゃないか。

 DSK48が側面をこちらに向け、毒の虹を放射した。

 虹が真上から降ってくる――!

 直撃!?

 大量の水を溜め込んでいるせいか、反応が絶望的に遅れた。

 右に身をかわしたが、左肩から肘にかけて虹を食らってしまう。

 痛い!

 いや……痒い!?

 初めての感覚。

 何だこれ?

 とにかくいったん川に潜って虹を避け、少し下流に移動して浮上する。

 恐る恐る左腕を見ると、肩から肘にかけて――つまり虹を食らった箇所が虹色に光っている。

 鱗粉……じゃない!

 それは、無数の、だった。

 人間の感覚でいえば松の葉の細さの――怪獣のスケールに直したとしても太さは二ミリあるかないかだろう。

 銀色の――いや、テグスを思わせる透明の針だ。

 それが陽光を反射して虹色に光って見えていたのか!

 透明の毒針がシュワシュワと泡立って溶けていく。

 針が溶けて……ん?

 ちっ……違ぁぁぁぁう!

 溶けているのは俺の皮膚の……鱗だ!

 慌てて水に浸かり、右手で可能なかぎり針を抜く。

 人間並に器用な五本指でよかった!

 硬い鱗があってよかった!

 かすった程度だから鱗一枚で済んだが、頭からどっさり浴びたらたぶんヤバい。

 射程距離はそれほどでもないから自衛隊のヘリや戦闘機なら危険はないだろうが、地上部隊はそれこそ影も形もなくなるレベルだ。

 恐ろしい代物だぜ。

 だが、どうする……!?

 大量の水を浴びせ続ければ確かに虹は撃てないかもしれないが、それだけでは倒すには至らない。

 正面からナパーム・ブレスを吐いても虹とぶつかれば防がれる。

 そもそもDSK48に対しては直撃以外は効果が見込めそうにない。

 ベスト配合の(と思っている)ブレスは見た目こそ派手に爆発するが、広範囲を焼いているだけで面積あたりの破壊力は低いんじゃなかろうか?

 むしろゲル状の塊のままで吐いて、相手の皮膚にベッタリ貼り付けた方が一点集中の火力としては上かもしれない。

 粘着性の時限爆弾のような使い方だ。

 しかしそれには正確なコントロールが必要だ。

 散弾のように吐くというやり方もあるが、狙うなら一撃必殺だ。

 弾丸としては小さいからできるだけ至近距離から、さらに言えば虹の攻撃とかち合わないように吐かねばならない。

 そんな方法があるのか?

 ………………

 …………

 ……

 ある、かもしれない。

 怪獣脳の閃きというやつだろうか。

 俺の身体の内部構造は一般的なカメのそれとは大きく異なっている。

 その特性を最大限に利用すれば――あるいは。

 どうも俺は一か八かの賭けとなると燃える性分らしい。

 人間だった頃からギャンブル好きだったのだろうか。

 だとしても勝てていそうにないが……まあ人間時代のことは考えないでおこう。

 再びの虹攻撃を水中に潜ってやりすごした俺は、四つん這いで素早く陸に上がった。

 大量の空気を吸い込み、気嚢で圧縮して体内の圧力を高める。

 DSK48が蛇行しながら近付いてくる。

 俺は立ち上がって迎え撃つ姿勢を見せた。

 おぞましくも汚ねえ地獄列車の背に虹色の光が瞬く。

 DSK48は百メートルほど手前で右方向にカーブを切りながら毒の虹を放射する。

 その瞬間――俺は尻尾と右足で地面を蹴った。

 同時に、右の脇鰓から大量の水を噴射する。

 それは、肺と気嚢に蓄えられた圧縮空気により押し出されたものだ。

 ペットボトル・ロケットの原理でわずかながらも推進力を得た俺の身体は左方向にした。

 毒の虹が目と鼻の先を通過する。

 天地逆になった視界に、無防備なDSK48の胴体が大きく映った。

 食らわすはナパーム・ブレス――ならぬ半熟ナパーム!!

『ガポン!』

 コルクを抜くような軽快な音とともに吐き出されたゲル状のナパームが、DSK48の背中にスライムよろしくビターッと張り付く。

 俺の身体は空中で華麗に一回転し、両脚で――とはいかずに両手足で着地した。

 首を伸ばして背後を見るのと、真っ赤な火柱が上がるのが同時だった。

『ギィギィギュゥゥゥゥ!』

 錆びた鉄柱がプレス機で圧壊されたような悲鳴が辺りに響く。

 DSK48は長い胴体のちょうど中間で爆裂し、真っ二つに千切れ飛んだ。

 イエイ!

 完・全・勝・利!

 グループも今日で解散だ……な……?


 なあああああああああああああっ!?


 ウソだろ……ええ!?


           ぶぶぶぶぶふぷぷぷぶぶぶぶぶんぶんぶんぶぶぶ分裂した!?


 あわわわわわがががががががががが


       だと!?


 聞いてねえぞ! ムカデにそんな機能があるか! あってたまるか


              うわ


 ちょ


                           待て


 待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て――!!




 こっち来んなああああああああああああっ!



 きいいいいいいいいいっ!


   あ゛    あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛        虹が! 虹が!


 も

                       もうアッタマきた


 このクソビッチどもがああああ!

 一匹残らず焼き尽くす!


 この!

 この!

 この!

 逃げんなオラ!

 そこ!

 もういっちょ!

 このこのこのこのこのこのこのこのおおォォォ!


 ぬうがああああああああああっ!


『カスッ』

 ……え!?

 いきなりナパームが出なくなった。

 まさか……体内の『ナパーム袋』が空に!?

 無限に生産されるとも思ってなかったが――使い切った? この肝心な時に!?

 ナパーム・ブレスの大盤振る舞いで辺り一面が火の海と化している中、を開始したDSK48は平気で歩き回っている。

 俺が戦うとたいてい地獄絵図になるが、この光景は極めつけだ。

 こいつら……まさか本当に四十八匹が合体していたとは――正確な数は数えてないけどな! 数えたくもないし!

 完全にバラけたわけではなく、中には三匹とか四匹がくっついたままのもいる。

 ユニットってやつか?

 細かいことはどうでもいいが……

 四方八方から個々のメンバーが放つ虹を浴びせられた俺はいまや全身針の山だ。

 火事の黒煙で陽光は遮られたが、代わりに炎の赤を反射してさぞかし綺麗だろうよ。

 全身の鱗も甲羅も表面はグズグズに溶けている。

 顔の左側の皮膚が溶けて瞼にかかり、左目が少し見えにくい。

 激痛はないが全身が猛烈に痒い。

 掻きむしりたいが、掻いたら鱗ごと表皮が剥げそうだ。

 ああ……

 もうやだ。

 帰りたい。

 ほんの数百メートル先は母なる荒川だというのに。

 こんなところで――

 ん? そうか。この針は……おそらく消化器官の代わりだ。

 DSK48の体内には食物を分解する胃袋に相当する器官がないため、毒針で獲物をドロドロに溶かしてから食べるんだろう。

 ――って、知らねーわ! 怪獣の生態なんか。

 生きるか死ぬかの瀬戸際だっつーのに呑気に分析しとる場合か!?

 しかしこのままだと寄って集って食われるのがオチだ。

 さて、ここで問題です。

 この大ピンチをいかにして切り抜けるか?

 次の三つの候補から選んでくれ。


 ①俺は突如として新たな能力に目覚めて逆転勝利だイエイ!

 ②他の怪獣(もしくは自衛隊)が現れて助けてくれる。

 ③どうにもならない。現実は非情である。


 間違えた。

 ③は正しくは『どうせ夢オチなので別にどうもしない』だ。

 俺としては②にマルを付けたいところだが、まず期待できない。

 あの飛竜だって毒の虹には手を焼くだろうし、自衛隊の火力では到底無理だ。

 期待するなら人類の英知だな。

 このムカデの魔物の弱点を突くような画期的な新兵器を発明してくれれば……でもそんな物が開発されていたとしても間に合いそうにない。

 やはり①しかないか――

 俺は怪獣としての俺自身の能力をすっかり把握しているわけじゃない。

 半分も理解していないといっていい。

 脇鰓から取り入れた水を逆噴射して推進力にするなんて応用は人間の知恵の範疇だ。

 それとは別に隠された未知の能力があっても不思議じゃない。

 マニュアルもなしにいきなり巨大ロボに乗せられたアニメの主人公みたいなもんだ。

 ロボットなら操縦桿やらスイッチやらがたくさん付いているから適当に操作すれば何か出そうなもんだが、怪獣にはそんなもんはない。

 肩からビームサーベルが生えたりしないし、指先からミサイルが出たりもしない。

 目から殺人光線は?

 出せる怪獣がいても不思議じゃないが、生憎と俺には装備されていないらしい。

 甲羅のエッジがチェーンソーみたいに高速回転……するわけがないか。

 サイボーグ怪獣じゃあるまいし。

 何か――他に武器はないのか!?

 ナパームの他に何か吐けるものがないか試してみるか。

 未知の可能性に賭けて大口を開ける。

 息を吐くと、口から透明の球体が飛び出し、炎の生み出す気流に乗ってフワリと宙を舞った。

 このシャボン玉は……?

 ああ、唾液でできたいわゆる『唾風船』ってやつか。

 人間にもできるようなことをやってどうする――と思ったが、考えてみれば怪獣サイズである。人間が入れる大きさの唾風船だった。

 もしかして俺の唾は特別なのか……?

 そう思って舌に唾液を乗せて息を吹いてみると、恐ろしいことになった。

 口からとんでもない勢いで大量のシャボン玉が噴き出してきたのだ。

 な……何ですかこれは!?

 いやいやいやいやいや!

 訳が分からんぞ!?

 こんなの絶対おかしいよ!

 俺の身体はどうなってしまったんだ!?

 毒針の虹と同じくらいメルヘンチックじゃねえかよ!

 舌の先に違和感があった。

 舌の先端に知らない穴が開いていて、中から何かヌルヌルしたものが――唾液とは少し違う感じの謎の液体が分泌されているようだ。

 舌先から垂らして掌で受けてみる。

 色は少し青みを帯びている。

 感触は……液体洗剤っぽい?

 指でかき混ぜると、液体はあっという間に泡立ってフワフワのシェービング・クリーム状に変わった。

 つい最近、これとまったく同じものを見た気がする。

 不意に、足に鋭い痛みが走った。

 見ると、俺の足にDSK48のメンバーが抱きついて、溶けた皮膚を囓っている。

 一匹だけじゃない。

 十重二十重に取り巻いていた連中が殺到してきている。

 とうとうになったというわけか!?


 うおぎゃああああああああっ!


 食われてたまるかぁ!

 俺は舌を筒状に丸めて圧縮空気のブレスを吐いた。

 舌先から分泌された液体が泡のスプレーとなって噴射される。

 泡を浴びせかけられたDSK48のメンバーはすぐに俺の足から離れ、裏返って苦しげに足をバタバタさせたかと思うと――ほどなくして完全に動きを止めた。

 ……おや?

 死んだ……のか?

 確認のために他の奴にも泡を吐きかけてみる。

 効果は覿面だった。

 泡まみれになった途端に苦しみだして、すぐに動かなくなる。

 効いている!?

 こいつは効いてるぞ!

 ただの泡のくせに必殺の威力じゃねえか!

 どうして泡を食らっただけで死ぬんだ!?

 理屈は……そんなものこの際どうでもいい!

 俺は反撃を開始した。

 脇鰓から空気を吸い込み、舌先から分泌される液体洗剤に圧縮空気を加えて広範囲に泡を噴射する。

 名付けて――〈シャボン・ジェッター〉!


 そして数分後。


 元DSK48のメンバーは一匹残らず死に絶えていた。

 死因はおそらく窒息死だ。

 ついでにナパーム乱射による火災もすっかり鎮火している。

 何とまあ呆気ない。

 これが俺を発狂寸前まで追い込んだ最凶最悪の魔物の最期とは。

 しかし……あんまり勝った気がしないな。

 こっちも毒の虹をしこたま食らったからな……

 顔の皮膚が溶けて前がほとんど見えないが、たぶんこっちが荒川だろうと見当をつけて重い足を運ぶ。

 広い河川敷に足を踏み入れたところで、撒き散らした泡で滑ったのか、足の筋肉まで溶けて萎えたのか――俺は膝から崩れ落ち、前のめりに倒れた。

 霞む視界に、穏やかな水面が映る。

 ああ……やっぱり荒川はいい……

 心のオアシス、魂の拠り所だ。

 ………………

 …………

 ……


          ☆


「…………はっ!?」

 俺はガバリと起き上がった。

 土の地面に俯せで寝ていたので頬に泥や小石がくっついている。

 顔や身体に付いた泥を払い落としながら、ふと自分の手に目をやる。

 ゴツい鱗に覆われた分厚い手――じゃない!

 毛もなく皮も薄い、不安になるくらい細い人間の手だ。

 両脚も人間そのものだし、甲羅も背負っていない。

 辺りを見回す。

 俺がいるのは荒川の河川敷だった。

 もう日が西に沈みかけている。

 夕暮れ時だ。

 堤防を上がると、大空襲の跡かと見紛うばかりの惨状が視界に飛び込んできた。

 川辺の市街地は見る影もなく破壊し尽くされている。

 爆撃としか思えないようなクレーターもある。

 俺の吐いた〈ナパーム・ブレス〉が作った大穴だ。

 再び荒川の方に目を向けると、そこには不自然な形の凹みができていた。

 縦六十メートル、横四十メートル近い楕円形に、太い手足が生えたような形――

 まるで巨大な怪獣が倒れた跡のようだ。

 俺が寝ていたのは、その凹みのちょうど真ん中辺りだった。

 ようやく変身が解けたのだと実感できた。

 虹の攻撃でがすっかり溶けてしまい、人間の部分だけが残ったということか。

 それにしてはちゃんと服も着ていて靴も履いている。

 何かしら超自然的な力というか、魔法的なパワーで変身していたと解釈するべきか。

 変身アイテムらしきものを身に着けていないかと思って身体を探ったが、そんな都合のいいものがあるわけもなく、身分証明書が入っているであろう財布も出てこない。

 やれやれ……人間に戻れたはいいが記憶喪失のままなんだぞ?

 俺の身元は誰が保証してくれるんだ。

 辺りは焼け野原。

 交通機関はまともに動いていない。

 小銭の持ち合わせすらないので自販機でコーラも買えない。

 都市機能の大半を失った東京でひとりぼっちか……怪獣のままでいるのと、どちらがより不安だろうか。

 心許ない気分をさらにかき乱すように、頭上にローター音が迫った。

 目映いサーチライトの光が真上から俺に降り注ぐ。

 見上げるが逆光になって何も見えない。

 光の中から何本ものロープが垂れ下がったかと思うと、迷彩服に重装備の男たちがそれを伝って地上に降り立った。

 米軍だったら嫌だなあと思ったが、部隊の面々は馴染みのある顔つきで、迷彩服には日の丸のワッペンが付いていた。

 自衛隊だ!

 助けが来た!

 俺は大喜びで小躍りしながら両手を振ったが、隊員たちは素早い動きで扇状に広がり、小銃を構えた。

 ……あれ?

 どうも様子がおかしい。

 どうして銃口がこちらに向けられているのだろうか。

 警戒されている……どころか敵意すら感じる。

 輸送ヘリは三機あって、降りてきた隊員は総勢二十名以上いた。

 その内俺に銃を向けているのは七名で、残りは瓦礫の市街に散開した。

 しばらくして、通信士が部隊長らしき男にインカムを渡す。

「……そうか、分かった」

 どうにか声が聞き取れたのはヘリが遠ざかったおかげだ。

 隊長に命じられて通信士が直立不動で報告する。

「――七番、死亡確認!」

 それまで微動だにしなかった隊員たちの間に動揺が走った。

 まるで電流を流されたような、はっきりそれと分かるリアクション。

「続いて二十二番、十五番、四十六番……死亡確認」

「……うっ、うおおおおおっ!」

 隊員のひとりが突如激昂し、小銃を発砲した。

 俺の足元の土が破裂したように弾ける。

「あっ、あっ、あっ……あばばばば、危ない!」

 俺は驚いて飛び跳ねたが、我ながら情けなくなるほど反応が遅い。

 発砲した隊員は即座に取り押さえられたが、他の隊員たちは怒るでもなく慌てるでもなく、一言も発さない。

 問題の隊員が大人しくなるとポンポンと肩を叩いて持ち場に戻った。

 命令もなく勝手に発砲したのに……お咎めなし?

 今のはダメでしょ?

 だって、下手したら当たってたよ?

 無辜の市民であるところのこの俺に。

 ねえ隊長さんって……隊長もまったく気にする様子がねえ!

 いや……ほら、鉄拳制裁とまではいかなくても、せめて厳重注意くらいしてよ。

 しかし隊長が気になるのは通信士の報告の方らしい。

「報告は簡潔にしろ。状況はどうか!?」

「はっ、その……」

 通信士は苦しげに頬を歪め、絞り出すように報告した。

「メンバーに、生存者は……なく……」

「――そうか」

 隊長は重々しく頷く。

 周囲から変な音が聞こえてきた。

 虫の声かと思ったが……ちょっと違う。

 具体的にいえば、それは――歯軋りと、すすり泣きだった。

 俺は居並ぶ隊員の皆さんの顔を見回した。

 全員が全員、男泣きに泣いていらっしゃる。

 俺に向けられた小銃の銃口がプルプルと震えている。

 ええと……いったいどうなってるんだ?

 何なのこの人たち?

 どうやら知り合いが亡くなったらしいが……隊員全員が泣いているのは不自然だ。

 こりゃもうはっきりと説明してもらわないことには埒が明かないぞ。

「あの~すいませ~ん……」

 俺は意気込みとは裏腹におずおずと呼びかけた。

「生存者の救助に来られたんですよね~? 俺も保護してもらいたいんですが……」

 隊員たちが血相を変えた。

 怒りで悲しみを上書きしたような、鬼気迫る表情だ。

 血涙が流せるものなら流している――そんなご面相である。

 いったい何が気に障ったのか。

 ……俺、何かマズいこと言いましたっけ?

 まるで訳が分からない。

 満を持して、といったタイミングで隊長が拡声器で呼びかけてきた。

『確かに――我々は生存者の救助を主な任務としている』

 おお、やっぱり!?

 俺は安堵しかけたが、隊長の次の言葉でその希望は打ち砕かれた。

『だが、残念ながら……君はその救助すべき対象には含まれていない』

「ウソ――――ッ!」

 こんな時に冗談キツいよ、と愛想笑いを浮かべたが、隊長はニコリともしない。

『何故なら……我々が救助するのは〈人間〉だけだからな』

「いやいやいやいや、人間ですって! ほら! 目はふたつだし腕と足は二本ずつあるし……ね?」

『君の正体が怪獣であることは確認している』

 隊長の言葉は非情で、隊員たちの顔つきは無情だった。

『今回の同時多発怪獣テロの実行犯はすべて、何らかの方法で怪獣化した人間であるとの報告が複数あがっている。で発見されたのは君が最初のケースになる』

「俺が怪獣だって証拠は?」

『君の行動のすべてはビデオで撮影されている。とぼけても無駄だ』

 くっ……やはりあのヘリか!

「待ってくれ。俺は目が覚めたらいきなり怪獣になっていただけだ! 誰かの仕業でそうなったんだとしても……俺はいわば被害者だぞ!? 死者を出さないように気を遣って歩いてたし、建物だって壊さないように最大限の努力をしてきた。テロリスト扱いされるのは――」

『周囲の状況を見てみろ』

「…………」

 さすがにグゥの音も出なかった。

 あらためて指摘されるまでもない。

 辺りは焼け野原だった。

 半狂乱になってナパームを吐きまくった結果だ。

「あ……相手がムカデだったからだ! 俺は虫が嫌いだ! 見るのも触るのも嫌だ! 小さいのがウジャウジャいるのを見ると寒気がするし、足がいっぱい生えてるデカい虫なんて一匹だけでも失禁ものだ! さっきの超巨大ムカデなんて毒の虹を出すんだぞ!? 後先考えてる余裕なんてなかった!」

『だから殺したと?』

「どう見ても害虫だったろ!? むしろやっつけたことで感謝されたっていいくらいさ」

 タタタタタタタタン!

 軽快な銃声が鳴り響き、足元の地面に斜めに銃痕が穿たれた。

「うひゃほうい!」

 俺は熱い鉄板の上に立たされたように飛び跳ねた。

 発砲したのはさっきの隊員――ではなく、それを取り押さえた方のひとりだった。

 まさかこいつら全員……俺のことを恨んでる?

「待て待て待て! 怪獣のせいで身内に犠牲者が出たんだとしたら、それは確かにご愁傷様だし、心からお悔やみ申し上げるのもやぶさかじゃないが……たいして暴れてもいない俺をすべての怪獣代表みたいな扱いにして恨みをぶつけられても――」

 言いながらもう分かった。

 顔を見れば分かる。

 こいつら俺の言い訳なんざ聞いちゃいねえ!

 俺の気分を理解しているらしいのは隊長だけだった。

『君の言い分は分かる。だが、その指摘は的外れだ。我々が君を恨むのは、君を怪獣代表として怒りをぶつけているのではない』

「だから? どういうことか分かるように言ってもらおうじゃねえか」

『君が殺害したムカデ型巨大生物は――我らがアイドル〈DSK48〉のメンバーが変身したものだったからだ』

 …………え!?

 がアイドル――だと?

「じゃあ、さっきの七番とか二十何番とかは――まさか!?」

『〈DSK48〉メンバーの背番号に決まっている』

 決まってるとか知らねえし!

 メンバーが背番号制のアイドルグループとか知らねえし!

 そもそも俺が勝手につけた怪獣の名前だし!

 いや……待てよ。

 本当に俺の創作か?

 なにしろ俺は人間時代の記憶をなくしている。

 実際に〈DSK48〉というアイドルグループが存在し、俺が無意識にその名前を使ったのだとしたら?

 さらにムカデ怪獣が本当にその〈DSK48〉のメンバーが合体変身したものだったとしたら……?

 ……うん、やっぱりないわー。

 いったいどんな確率だよ!

 計算したら天文学的どころじゃねえ数字が弾き出されるわ!

 でもなあ……

 人間が巨大怪獣になるような世界だし、そんな偶然だってないとは言いきれない。

 加えて駆けつけた自衛隊員が全員そのアイドルの熱狂的ファンという確率は――?

 ……やっぱねーよな! 常識で考えて!

 理不尽な現実に対して断固抗議しようとしたその時、完全武装した七人に対して丸腰の俺という圧倒的に不利な状況に新たな勢力が加わった。

 捜索に出ていた他の隊員たちが戻ってきたのだ。

 連中は迷彩柄のシートが掛けられた担架を三つ、運んで来ていた。

 ひとつの担架につき担い手が四人掛かりという丁重さだ。

 担架が地面に下ろされ、七人の隊員たちは我先にと駆け寄った。

 シートの一部が外されると、隊員たちは膝から崩れ落ちて号泣し始める。

「うおおおおおっ! あーちゃん!? あーちゃぁぁぁぁぁん!!」

「マキのんが……俺のマキのんが……」

「元帥閣下ぁぁぁぁぁっ!」

 あーちゃんとマキのんはいいとして、誰だよ元帥って!?

 ファンからそんな愛称……というか尊称で呼ばれるアイドルがいるのか?

 もしかすると日本で知らない人がいないレベルのスーパーアイドルだったのかもしれないが……あいにくと記憶がないので全然ピンとこないんだ。

 こんなことを考えるのは我ながら非人情だとは思うが――逃げるなら今しかねえ!

 俺は背を向けて脱兎のごとく駆け出した。

 河川敷を走り抜け、荒川に飛び込むのだ。

 うっひょ~久しぶりだな、この全力ダッシュの感覚!

 腰が捻れる! 

 人体の可動範囲って素晴らしい。

 ――ギャン!

 左の耳元を引っぱたかれたような衝撃に、俺は不様にズッコケた。

 耳がモゲたかと思って手を触れる。

 よかった……まだ付いてる。

 鼓膜がキーンってなってるけど。

 耳鳴りの原因はおそらく銃弾が至近距離を掠め飛んだからだ。

 数十もの分厚いソールが地面を蹴る音が右耳に届いてくる。

 恐る恐る振り返ると、隊員たちがV字隊形で押し寄せてくるところだった。

 全員、鬼の形相だ。

 泣いていないのは隊長だけだが、それが余計に怖い。

「君には彼女たちの死を悼む気持ちがないのか」

 なくはないけど……俺が死んでも悼む気ゼロの人に言われてもなあ。

「悼むもへったくれもあるか。俺たちはの殺し合いをしたんだからな。本来怪獣と戦うのは自衛隊の仕事だろ? それを勝負が終わってからノコノコ来やがって……アイドルが怪物になり果ててしまったら自分で引導を渡してやるのが本当のファンってもんじゃないのか?」

「人間に戻す方法がなければ我々もそうした。だが君のその姿はどうだ? 人間に戻っている! 人間に戻る方法を知りながら彼女らをしたのだ!」

 隊長の言い分はまったくその通りで、どう考えてもこっちの分が悪すぎた。

 人間に戻ったせいで申し開き不能な立場に追いやられるとは……

「だから知らなかったんだって! 怪獣になった原因も知らなけりゃ、今こうして人間に戻った理由だって知らねーんだよ!」

「では……いつまた怪獣に戻るかも分からんということだな?」

 ……ヤバい。

 わざわざ掘らなくていい墓穴を掘ったか!?

 隊長は何か吹っ切れたような、人間味の欠片も感じられない不吉な薄笑いを浮かべた。

「我々の任務は怪獣の撃滅もしくは捕獲だ……」

「じゃあさっさと捕獲してくれよ! いつまで遠巻きにしてるつもりだ!? 見ての通りこっちは丸腰なんだぞ?」

「再び巨大化する可能性のある怪獣人間を捕獲するのは危険だ。何よりこの怪獣は愚かにも我々に敵意を示して従おうとしない――」

「敵意を持ってんのはそっちだろ!?」

 隊長は俺の言葉なんか聞いちゃいなかった。

 ただ自分に対して都合のいい言い訳を並べているだけだ。

「この怪獣を殲滅し、その血をもって我らが〈DSK48〉への手向けとする! 総員、構え――筒!」

 二十数丁の小銃がこの俺ひとりに向けられた。

 誰からともなく、俺の知らない歌を歌い出す隊員たち。

 JASRACが怖いので詳しくは書けないが、歌詞からすると『いつか虹の橋を渡って』みたいなタイトルであろう、いかにもなアイドルソングだ。

 原曲のキーが高すぎるんだろう。

 Bメロの入りでもう声が裏返り、しかも号泣しながらなのでグダグダだ。

 見方によっては感動的な場面かもしれないが、俺からすれば悪夢そのものだ。

 怪獣を倒してみたらその正体はアイドルで、そのアイドルの熱狂的なファンであるところの自衛隊員に逆恨みされ、野郎共が女々しく歌う汚ねえ裏声のJ-POPで送られながら、今まさに蜂の巣にされようとしている――

 実にシュールな絵面だ。

 現実味ねーわー。

 グレゴール・ザムザが最後にどうなったかは知らないが、よもやこんなトホホな死に様を晒すことになるとはカフカでも思いつくまい。

 いよいよ曲がサビにさしかかり、隊長が号令をかけようとしたその時――

 俺が背にした荒川が突如として氾濫したのか、川の水が津波のように押し寄せて膝下まで浸した。

 背後で巨大な水飛沫が上がり、バケツをひっくり返したような――いや、銭湯をひっくり返したような大量の水が降り注ぐ。

 その水に続いて、真上から、巨大な白っぽい壁のような物体が降ってくる。

 その壁は俺と自衛隊員たちのちょうど中間に落ちてきて、文字通りの障壁となった。

 あまりのことに俺は腰を抜かして尻餅をつき、その姿勢のまま壁を見上げる。

 壁の下半分は白というよりクリームっぽい乳白色で表面は滑らか、上半分は暗い青紫で岩のようにゴツゴツしている。

 壁の向こう側から怒号とともに激しい銃撃の音が聞こえてきた。

 しかし分厚い岩盤のごとき壁に遮られて銃弾は通らない。

 左方向から巨大な鋏付きの節足が降りてきて、岩壁の左端をガッシと掴んだ。

 岩壁全体が力を蓄えるようにプルプルと震えはじめる。

「こいつは……まさか!?」

 俺はようやく気付いた。

 この謎の物体は壁じゃない――超巨大なシオマネキの鋏だ!

 蓄えられた途方もないパワーが開放され、必殺のカニパンチが炸裂した。

 パンチというより裏拳か。

 とにかく、電車の車輛を二輌重ねて積み上げたほどの巨大な構造物が、瞬きする間に五十メートル以上も動いたのだ。

 孤を描いて走ったパンチの軌道上にあった物はことごとく破壊された。

 堤防の一部が抉り取られる威力だ。

 隊員たちの姿は――影も形も見えなくなってしまった。

『――人間の事情を斟酌するのは我々の役目ではない』

 その声に振り向くと、荒川に奇岩のようにそびえる異形のシルエットがあった。

 奇岩の上の方から伸びた、細長い裸電球のような一対の目。

 ムラサキオニガザミ――俺が倒して食ったカニの怪獣がどうして?

『本来の姿を取り戻せ。お前に必要なのはヒトの記憶にあらず。アラガミの記憶だ……』

 引き始めた水の下の、地面についたままの右手に、固い物の感触が生じた。

 掴み上げてみると、それは、亀の甲羅にそっくりな形の、丸い石だった。

 それを無意識に頭上にかざす。

 手の中の亀石は目映い光を放って、俺の視界を純白に染め上げた――


           ☆


 ………………

 …………

 ……

 俺はゆっくりと瞼を開いた。

 ……つもりだったが、溶けた皮膚が庇のように目の上に被さって視界を妨げている。

 気を失った時と同じ、俯せの体勢のままだ。

 どうにか……怪獣に戻れたのか!?

 しかし毒の虹で受けたダメージはそのままらしい。

 人間の時は無傷だったのに……これじゃとても助かったとは言えないな。

 制限された視界の中、カニの姿を捜したが見当たらない。

 意識がはっきりしてくるとともに、全身の皮膚という皮膚がかさぶたになったような、堪え難いむずがゆさが襲ってきた。

 でもこれ、体表の鱗が溶けちゃってるし、ひどい火傷と同じでかさぶただけ取ろうとしても皮膚ごと剥がれて死ぬんじゃないか?

 でも剥がしたい。

 とくに顔が気持ち悪い。

 客観的に見て不細工という意味ではなく。

 カメにハンサムも何もないだろうが……

 意識すればするほど痒さは倍増し、すぐに我慢の限界がきた。

 ……ええい、もういい! 剥がす!

 自棄になって顔に手をかけると、ほとんど抵抗もなくと皮が剥けた。

 うわああああっ!

 ずっ……頭蓋骨、出ちゃった!?

 焦って顔に触れてみると、ちゃんとカメの皮膚がある。

 ……どういうことだ?

 毒の虹を食らって溶けた皮膚が再生している!?

 全身を揺すると、背中の方でバリバリと何かが破れる音がして、身体が楽になった。

 そのまま身を起こすと、まるで寝袋から抜け出すようにして、古い皮膚全部が一気に剥けた。

 うっひょう!

 何これ?

 スッゲー気持ちいい!

俗世の垢を綺麗に洗い流したように清々しい気分だぜ!

 いったん離れてから残された皮を見ると、まるでセミの抜け殻のように、元のカメの形がはっきり分かるほど原形を留めている。

 そうか……爬虫類って脱皮するんだ!

 虹でやられた皮膚を捨てて新たな姿に生まれ変わったのだ。

 やったね!

 カメでよかった!

 怪獣らしい超常的な生命力で生き永らえたとしても、全身ケロイドだらけの醜い姿じゃ気が滅入るな~って思ってたんだ。

 俺は今、確実にイケメンだな!

 全身ツヤッツヤの卵肌だし!

 甲羅も何だか柔らかいし……って、セミなんかも脱皮した後しばらくの間は柔らかいから、変な形で固まらないようにじっとして動かないんだっけ?

 そういや脱皮直後のカニはソフトシェルクラブとか呼ばれてたような――

 カニ……?

 そうだ、さっきのカニ野郎は!?

 俺はあらためて周囲を見回し――すぐに記憶との食い違いを感じた。

 カニパンチで抉られた堤防の破壊跡が……ない。

 そもそも時間帯が合わない。

 俺の記憶が確かなら、すでに日没の時刻である。

 だが実際には夕刻と呼ぶにはまだ早いおやつ時だ。

 ……おかしいな。

 俺は来た道を引き返し、DSK48の死骸を確認した。

 節ごとに分裂したムカデ怪獣は、泡まみれで窒息死したそのままの姿を晒している。

 泡が乾いてセメントみたいに固まっているところから見て、それなりに時間は経過しているらしい。

 んん~?

 これはつまり……どういうことだ?

 しばらく頭を捻って、俺はようやくひとつの結論に達した。

 あれは、現実に起きたことではなかったのだ。

 夢――だったのか!

 人間に戻って以降のくだり全部!

 道理で理不尽と不条理がタッグを組んだような悪夢だったはずだよ!

 俺は安堵しすぎてその場にへたり込みそうになった。

 DSK48なんて国民的アイドルグループは実在しないし、当然ながら自衛隊に熱狂的ファンなんていないんだ!

 すべては俺の脳が見せた幻だったわけだ。

 怪獣脳の……?

 いや、あれこそは人間の妄想が生み出したものだ。

 俺を責める自衛隊員は罪悪感が元になっているに違いない。

 当然、俺を助けてくれたカニも……

 待てよ?

 妄想では説明できないことがある。

 勝利の決め手となった新技〈シャボン・ジェッター〉――つまり『泡を吐く能力』だ。

 どうしてカニ怪獣の固有の能力をこの俺が使えるようになったのか?

 まさか……カニの呪い!?

 殺しただけでなく食ったから呪われてしまったのか?

『……おいおい、呪いなんて今時クールじゃないな』

 誰だ? スカした物言いのイケメン気取りは?

 声のした方に振り向くと、河川敷の堤防に一匹のシオマネキが腰掛けている。

『簡単な話さ。お前は俺の持っていた〈シャボン袋〉を丸呑みして体内に取り込んだ……それで泡が吐けるようになったというわけさ』

 なん……だと!?

 言われてみれば、あんたを食う時に、得体の知れないハラワタをよく噛まずに呑み込んだ記憶が確かにある。

 あれが〈シャボン袋〉だとすると、もしかして……俺は単に栄養補給のために食ったんじゃない!?

『ビンゴだ。食うことで相手の力を取り込み、我がものとする……フフ、実に怪獣らしい生態じゃないか』

 カニのくせに台詞がいちいち渋い。

 しかし相手の固有能力を取り込む……だって?

 スマホよろしくアプリをインストールして新たな機能が使えるようになる、みたいなもんか?

 いや、この場合ソフトウェアじゃなくてハードウェアを移植してるんだから、拡張性に優れたパソコンだな。

 チューナーボードを入れたら地デジが予約録画できるようになった、みたいな。

『俺を食ったことでお前は新しい能力を獲得し、少しだけ強くなっている。〈シャボン〉の能力は俺の置き土産だ……上手く使うんだな』

 上手く使うも何も、泡の能力がなければDSK48には勝てなかった。

 そういや何であいつら、泡だけで死んだんだ?

『〈シャボン袋〉から分泌される液体には界面活性剤の性質がある。やつらの体側に並ぶ気門――空気を取り入れる穴の周囲には脂を帯びた毛が密集していて、水をはじくことで呼吸を確保しているわけだが、界面活性剤によって撥水性が失われるとこの気門は簡単に詰まってしまう……』

 それで窒息したのか!

 ピンポイントで弱点を突いた致命的な攻撃だったわけだ。

 ありがとうカニ!

 食ったのがカニでよかった!

 何より美味かったし。

 俺の中でカニの株が爆上げだ。

 おお……なんてこった。

 DSK48との死闘の終盤に三択問題を出したが、①の『新たな能力に目覚める』と②の『他の怪獣(or自衛隊)が助けに来る』のふたつを同時にカニが……が満たしていたとは!

 一心同体となったからにはもはや『カニ』なんて気安く呼び捨てにできるものか。

 尊敬の念をこめて『カニ先輩』と呼ばせていただきたい。

 俺はたったひとりで立ち向かっていたつもりだったが、すでにカニ先輩という頼もしい味方がついていたのだ。

 何がDSK48だ。

 俺じゃなくてカニ先輩が先に遭遇していたら、お前なんか毒の虹をチョロっと出す暇もなく速攻で始末されていたところだぞ……雑魚め!

 うーん、しかし『カニ先輩』だと少し他人行儀かな。

 もっとこう親しい感じで『カニ兄さん』……『カ兄さん』なんてどうだ?

 そこまでいくと軽すぎるか。

 言わば舎弟になったようなもんだし、オーソドックスに『兄貴』と呼びたいな。

 カニの兄貴……いやさ『カニ貴』!

 これからはカニ貴と呼ばせていただきます!

『フン……勝手にしろ』

 ムラサキオニガザミの兄貴――カニ貴は照れくさそうに右手の大鋏で顔を隠した。

 いかん。

 カッコよすぎる。

 見た目はカニのままなのにとんでもないイケメンに見えてきたぞ。

 さすがカニ貴だ。

 ………………

 …………

 ……

 さて。

 そろそろお察しのことと思うが、このカニ貴は俺の妄想の産物である。

 大仏おばちゃんの同類だ。

 まあ新キャラだと思ってもらって構わない。

 やったね俺!

 仲間が増えたよ!

 せっかく人間に戻れたのにああまで自衛隊に冷たくされたら、その補填として俺の味方になってくれる新キャラが登場するのもまあ当然だわな。

 DSK48との戦いでSAN値がゼロになりかけたんだから、これくらい大目に見てもらわないとやってられん。

 ん?……ああ、『SAN値』の意味を思い出した。

 確かホラーゲームの設定パラメーターで、人間としての正気の度合いだ。

 この値がゼロになると正気を失って発狂する。

 そうなればもちろんバッドエンドでゲームオーバーだ。

 怪獣と化した俺にとって、生き残るための戦略と同じくらい、という課題は重大事なのだ。

 あらためて、DSK48の死骸に目を向ける。

 視界に入れるだけで寒気がするから見たくはないのだが、あえて見る。

 恐怖と嫌悪を感じているのは俺の人間としての心だ。

 もしもこの怪獣も元アイドル……ではないにせよ、かつては人間だったのだとすれば、ムカデになってどんな気分だったろうか。

 俺なら自分がムカデに変身したと知った瞬間に発狂する自信がある。

 DSK48にも人間としての自我は残っていなかっただろう……そう思いたい。

 ムカデになった元アイドルを愛し続けた自衛隊員の気持ちは理解できないが……

 そういやあれも夢だっけ?

 あの隊員たちも俺の脳が勝手に生み出したフィクションであり、実在の自衛隊の皆さんとは一切関係ないのだ。

 それは頭では理解できる。

 しかし、俺の中での自衛隊に対する信頼にわずかながら亀裂が生じたのも事実だった。

 おかしな話だが、実際そうなんだから仕方ない。

 自衛隊のヘリは今も上空から俺を監視している。

 何かが原因で急に人間に戻れたとしても、プライバシーが存在しない現状、として扱われる俺の立場はひどく危ういものになるだろう。

 人類の敵と思われたくない――というだけの動機で行動するのも考えものだ。

 とはいえ具体的なアイデアはまだないが。

 ……さて、と。

 荒川に入る前に、やっておくことがある。

 俺は両手を使って地面に穴を掘り始めた。

 怪獣のスケールになると地面はスポンジみたいに柔らかいから掘るのは簡単だ。

 自分の頭がすっぽり入るくらいの大きさに掘ると、近くにあったDSK48メンバーの骸を穴に納めて埋め戻す。

 俺が作ろうとしているのは怪獣の墓だ。

 手で触るのは嫌だが、これは俺の仕事だった。

 こういう時の定番はその辺で拾ってきた枯れ木の枝を組み合わせた十字架だが、適当な棒もなければそれを結ぶ紐もないので、土を盛るだけで済ませる。

 怪獣対策を研究している人間からすれば掘り返す手間が増えるだけで甚だ迷惑な行為かもしれない。

 後で食べるために地中に保存しようとしているだけだと思われるかもしれない。

 誰に誤解されようと知ったことか。

 俺以外の誰が怪獣を弔うというのか。

 そうだろ?

 俺は怪獣で――人間なのだから。

 カニ貴なら分かってくれるよね?

『ああ、俺がしっかり見ててやるよ。作る墓はあともあるが……頑張れよ』

 …………え?

 何それ、超面倒くせえ!

 早くも後悔しはじめたが、見られている手前、途中で投げ出すわけにもいかない。

 俺は怪獣で、人間で――ちょっぴり見栄っ張りなところもあるのだ。













[俺的怪獣図鑑その③]

※このデータはすべて俺の主観であり多分に推測と想像を含む。


■ファイル№1[泡吹きガメ]更新!

[名称]なし(俺)

[分類]カメ型怪獣

[身長]およそ五十~五十五メートル?

[体重]甲羅はあれど中量級

[地形適応]陸・水/水中で鰓呼吸可能

[移動力]陸C(四足歩行時)D(直立二足歩行時)/水C

[機動力]C/脇腹の吸気/吸水口から逆噴射してジャンプが可能

[攻撃力]B

 必殺技①ナパーム・ブレス……口からゲル状の爆薬を吐く

    ②シャボン・ジェッター……舌先から泡を噴射

[防御力]B/ダメージを受けても脱皮で再生できる



■ファイル№4[地獄のスーパーアイドルユニット]

[名称]DSK48

[分類]ムカデ型怪獣

[身長]全長三百~四百メートル?

[体重]中身はスカスカなので異様に軽い

[地形適応]陸○/水×

[移動力]C

[機動力]D

[攻撃力]B/背中から毒針を虹のように発射する

[防御力]A/耐熱性・耐衝撃性に優れるが界面活性剤が弱点

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