第二話 「俺、喰らう」

「吾輩は怪獣である。名前はまだない」

 ………………

 …………

 ……

 ダメだ!

 日本近代文学史上かなり主要な位置を占める作家の有名な作品の書き出しをもじってみたんだが、元のタイトルどころか作者名すら思い出せないときた。

 確かお札の肖像画にもなったくらいだし、超有名なはずなのだ。

『吾輩は○○である』の○○に入るのがどんな生き物だったのか……猫以外の何かだってことは分かるんだが。

『変身』の作者は思い出せたのに……あれ? 何てったっけ!?

 確か可もなく不可もなくって感じの名前だったと……ああ、カフカだ、カフカ!

 あぶねー。憶えてた知識さえ風船みたいに飛んでくところだったぜ。

 ところで……


「フヒャヒャヒャヒャヒャ! お前も怪獣にしてやろうか~!?」


 いきなり脳内に湧いてきたこのフレーズは何なんだ?

 作家とは無関係な誰かの台詞みたいだが……サッパリ思い出せねー。

『吾輩』つながりの連想で芋づる式に記憶の扉が開いたのか?

 その芋づるも途中でプッツリ切れてて肝心の芋が付いてこないようだが。

 ことほど左様に一介の怪獣と成り果ててしまった俺の記憶は頼りないこと霞の如し。

 とりわけ人物の固有名詞がほとんど思い出せないのは怪獣脳の仕様なのだろうか。いまだに自分の名前さえ分からないのも同じ理由なのかもしれない。

 名前はまだないと言ったばかりだが、俺自身の与り知らないところですでに命名イベントが起きている公算は大きい。

 目撃した子供が鳴き声から安直に名付けるパターンか、村の伝説に名前が語り継がれているパターンか……村? どこの?

 あと、台風みたいに気象庁が名付けるという説はどこで聞いたっけか?

 鳴き声パターンだとすると『ポメラ』とか『ポメゴン』あるいは『ポメラノドン』なんて恐竜っぽい名前で呼ばれてる気がする。

『ポメラ』だと何だか犬っぽいし……

『ポメゴン』は関西人がニヤけそうな響きだし、

『ポメラノドン』は長いうえにどうも空飛ぶ大怪獣っぽくて違和感が……

 どうせ公式の呼称は『未確認巨大生物2号』で通称が『鈍亀』なんだろうけどな!

 この2号ってのは飛竜が1号と仮定しての話ね。しかし自衛隊の俺に対するマークの薄さを考えると、飛竜の他にも複数の怪獣が存在していて、グースカ寝ていただけの俺に回すような戦力がなかったのかも。

『巨大生物13号』とかだとちょっとカッコイイかもしれない。

 だがそうなると俺の他にあと十二匹も怪獣がいることになるのか……そんな状況だとすれば日本が大ピンチだぞ? それは困るから7号くらいで我慢しておいてやるか。

 ともあれ何匹いようと出会いたくないのは同じだ。

 飛竜の件ですっかり懲りてしまった俺は、他の怪獣の存在を感知しても関知しないという方針を立てている。

 これはもう方針というより揺るぎない決意だ。

 怪しげな咆吼を耳にしても決して近寄るまい。

 俺は平和主義者なのだ。 

 仮に他の怪獣が俺と同じ境遇――つまり人間から変化した存在だとしても、あえて放っておくことにする。

 どうせ理由なんか知らないだろうし、知っていたところで話は通じないのだ。

 安全第一。

 安全最高。

 安全こそ我が命。

 安全のためなら死ねる。

 それくらい安全が大好きだ。

 連発しすぎると安全がゲシュタルト崩壊を起こしかねないのでこれくらいにする。

 これぞ安全の心得。

 これからはマスター・オブ・セーフティとして生きていく所存だ。

 そう覚悟を固めたとはいえ、そのためにはやはり正確な情報が要るな。

 スマホ機能があればなあ。

 他の怪獣の居場所がマップ上に表示される便利なアプリが欲しいよな。ついでに自衛隊の配置と避難所も出ればなおよし。

 だが待てよ。スマホ機能があってもこの状況だと都内の携帯通信網は不通になっているんじゃなかろうか。

 やはりこういった非常事態に頼りになるのはラジオだよな。

 怪獣なんだからラジオの受信機能くらいどうにかならないか?

 いや……それどころか逆に発信できてもいいくらいだぞ?

 怪獣の巨体なら脳のサイズだって大きい。だったら思考する時に神経細胞を流れる電気信号のパワーも強いはずだ(謎の理論)。

 それを電波として飛ばして放送するというのは?

 こいつはなかなかのアイデアじゃないか?

 思考を送受信できれば怪獣同士のコミュニケーションだって可能になるかも?

 さらに市販のラジオで受信できれば怪獣放送局の開局だな。

 いやー夢が広がりまくるね。

 どんなプログラムを放送しようかな。


『ハイ、そういうわけで始まりましたけどね。いや~世の中大変だぜ、おい? 俺なんかさ、朝起きたらいきなり怪獣になっちゃってんだもの。しかもカメだよカメ! 冗談じゃないよ。甲羅が重くってさあ。胴体が硬いから腹筋もできないし、二本足で歩くのもピボット運動ってバスケじゃあないんだから。でさ、せっかく怪獣になったことだし、いっちょ吼えてみるかと思ったら鳴き声が「ポメェ~」だって(笑)。やんなっちゃうよ。それよかあいつだよあいつ、池袋のドラゴン! あの野郎、飛べるのをいいことに人を高いところから何度も落っことしやがって。甲羅が割れて中身が出ちゃうかと思ったじゃねえかよ。カメじゃなかったら死んでるとこだぜ? バカヤロ~』


 お、いい感じじゃないか。


『というわけで〈こんな怪獣は嫌だ〉コーナー!

 まずはこちら――「とにかく弱い」。

 普通の怪獣なら自衛隊を相手に大暴れするんだけど、こいつは犬に吠えられると「キャー怖い」ってビビっちゃうくらい弱虫でね、変な法被を着て祭の準備してる村の自警団みたいな連中に見っかっちゃって「うわっ怪獣だ!やっつけろ!」って竿竹でボコボコにされてあっさり死んじゃうの。でも後になって森の中の住処を調べてみると、どうやら人間と仲良くしたかったらしいってことが分かってさ、「見た目はアレだけど悪いやつじゃなかったんだな」ってみんなしんみりしちゃって。しょうがないから墓の代わりに石碑とかつくっちゃったりしてね。それ以来、村の守り神になったとかならないとか』


 怪獣というより心優しい妖怪の類だろ、それは。


『次、「全身がウンコでできている」。

 これは嫌ですね~(笑)。肥溜めから生まれた怪獣でさ、体中ウンコまみれってうか、糞尿そのものでできてんの。人間の便を食べてどんどん強くなるから、「できるだけトイレを我慢するように」って政府が対策を打ち出して。全員爪先立ちになって必死で排便を我慢するんだけど、結局みんな漏らしちゃってさあ大変(笑)。自衛隊もあまりに臭すぎるから鼻がヒン曲がっちゃって戦うどころじゃないんだけど、一部の隊員だけは何故か全然苦にしてない。理由を訊いたら「自分はスカトロマニアなので平気です」つって怪獣の垂れ流す糞尿の中を大喜びで泳いだりしてね(笑)。これはいけるぞってことになって、最後は全国から食糞マニアを募って決死隊を結成すんの』


 存在から対策から何もかもが嫌すぎる。ラジオでも抗議きちゃうだろ。


『というわけで次――「どこからどう見てもパンダだ」。

 これも困りもんだよな~。笹と間違えて東京タワーを囓っちゃうようなデカさなんだけど、見た目がパンダだからワシントン条約で保護されてて自衛隊も攻撃できないの。そのうち中国が「あんだけデカいパンダを送ったんだからそれ相応の見返りを寄越せ」って要求してきてさ(笑)。「わざわざ上野動物園に足を運ばなくても見られる」ってことで全国的に人気が出ちゃって、政府もしょうがなしに名前を公募したりしてね』


 どうせなら俺も愛くるしい外見の怪獣に生まれ変わりたかった。


『最後はこれ、「見た目が放送禁止だ」。

 海から上がってきた時は全身毛むくじゃらで正体不明なんだけど、前髪の間から覗く顔の形が完全におネエちゃんのコー○ンなの。しかもババアのグロ○ンじゃなくて、あんまり遊んでないなって感じの綺麗なピンク色でさ。全身の毛も乾くと縮れ毛で、これがどう見てもインモーなんだよ。そのうち「これは猥褻物だ」ってことになって新聞もテレビも規制がかかっちゃって。それで怒ったのが全国の童貞たち(笑)。怪獣にモザイクっておかしいじゃねえかって抗議してもマスコミは聞く耳持たねえし、こうなったら直に拝むしかねえってんで現地に集合したんだけど、怪獣に近寄りすぎて全員ペロッと食べられちゃって(笑)。それで怪獣に付いた名前が〈童貞食い〉。そのうちさっきのパンダがやってきてさ、怪獣同士でやっちゃったりしてね。その後の政府の発表で「巨大パンダの名前が決まりました。名前は〈パンパン〉です。腰の振りに勢いがあったので」だってバカヤロー(笑)』


 ………………

 …………

 ……

 続けようと思えば続けられるんだけど、この辺でいったんやめていい?

 怪獣ラジオをやってみて分かったことがあるんだけど……たぶん俺、人間時代は深夜ラジオのヘビーリスナーだわ。

 もちろんAMの。

 しかもこの下ネタ全開っぷりからして、残念ながら女子中学生じゃなかったことは確実だな。

 つーか、よく考えてみたらこんなもん放送できんぞ?

 怪獣災害で都内がこんな有り様なのに〈こんな怪獣は嫌だ〉ネタで笑えるわけがない!

 いかん。これはいかんぞ。

 今の試験放送、聴かれてなかったろうな!?

 避難中の人がラジオのチューニングを弄っててたまたま受信したとしたら? 

 電波の発信源がこの俺だと特定されたら?――って、考えすぎか。

 思考のラジオ放送なんてそもそも根拠のない想像なわけだし。

 しかし……仮に、怪獣の思考をラジオのように受信できる人間がいたとしたら?

 テレパシーを使える美少女がいて、自衛隊に協力しているとしよう。

 ついさっきまで「怪獣の中にも人間の心が残っている者がいるんです!」と訴えていた心優しい超能力少女が急に血相を変えて「あのカメそっくりの怪獣に総攻撃をお願いします! あいつだけは生かしておいちゃいけない」とか言い始めたとしたら、そりゃもう今の放送が原因だよなー。

 そうか、そのテレパシストが下ネタに免疫のない若い女の子だからいかんのだな。四十以上のオッサンだったらバカウケかも……って、それもダメか。ネタがあまりにも不謹慎すぎるからな。それにいくら趣味が合ってもオッサンとテレパシーで意思疎通とか嬉しくなさすぎる。

 あと関係ないけど、ラジオがあの調子だといずれ「バウバウ」って鳴く相棒と手下の怪獣軍団を従えそうだな。なんとなく。

 ついでにタイトルが『吾輩は怪獣である』から『その男、怪獣につき』に変わったりして……ん~? 意味するところはだいたい同じはずだが、前者がほのぼの日常系なのに対して、後者は乾いたバイオレンスの香りがするのは何なんだろうな。

 相変わらず元ネタの方はさっぱり思い出せないんだが……

 とにかく今はお詫びと訂正が先だ。


『えー……先ほど放送の番組内で不適切な内容があったことをお詫び申し上げます。なお番組はあくまでフィクションであり、実在の事件や人物、怪獣等とは関係ありません。番組は娯楽を目的としたものであり、怪獣災害に遭われた方々を揶揄する意図はございません。政府及び自衛隊に対して実力行使による報復措置を求めたりするのは大変なご迷惑になりますのでやめましょう』


 これでよし。

 よしとしてもらわないと困る。

 本当にテレパシストがいるとすると地の文のところまで全部読まれてるんだろうが……

 いや、待てよ。

 俺がいくら自分が元人間の怪獣だと言っても、心の声を聞いている方は信じるだろうか?

 よしんば怪獣の心の声が聞こえていると理解してくれたとして、俺が以前は人間だったということは、個人の記憶がない以上、どう説明しても証明しようがないんじゃないのか?

 人間性とは何かという哲学的な問題にうっかり踏み込むのは本意じゃない。

 正直俺の手に余る。

 怪獣の手で扱うにはあまりに繊細すぎるってもんだ。

 それとは関係ないことかもしれないが、ここでひとつ、衝撃的な報告がある。

 明らかになったばかりの新事実だ。

 これまで俺は二本の足で交互に大地を踏みしめて直立歩行していた。

 しかし今はで歩いている。

 恐ろしいことに、こちらの方が断然歩きやすいからだ。

 しかも明らかに速い!

 二足から四足になったことで、まるで二速から四速になったような気分。

 しかも前進後退方向転換自由自在である。

 極めて自然体。

 関節の構造からしてこれこそが本来の歩行姿勢らしい。

 元人間としてはもちろん抵抗はある。

 直立二足歩行は人間を人間たらしめている大事な要素だからだ。

 四つ足で這いつくばっているとまるでケダモノに堕したようで情けない気分になる。

 実際怪獣だからケダモノなのだが……でも楽チンなものはしょうがない。

 移動力及び機動力の評価を改めてもいいくらいの変化だ。

 移動速度が上がればそれだけ目的地である荒川に早く到着できるし、両手足で体重が分散するためアスファルトの路面を踏み抜く心配もせずにすむ。

 いたずらに街を破壊するリスクを減らせるわけだ。

 およそ利点だらけと言っていい。

 だが自分の人間性をアピールするためにもという場面では直立した方がいいだろう。

 咆吼を上げたり、ナパーム・ブレスを吐いたり――要は格好つけたい時だな。

 やっぱり直立している方がはいいはずだし。

 そういうわけで、俺はダックスフントになった気分で明治通りを北上している。

 中山道に戻るという選択もあったが、北区を縦断して荒川に入るルートの方が近いような気がした。

 何より池袋から南下して山手線の内側に入るのはリスクが高すぎる。

 新宿や渋谷で他の怪獣と鉢合わせて戦いにでもなったら大変だ。

 首都高を進むと飯田橋方面に向かうことになるが、そっちは余計にマズい。

 なにせ必然的に皇居に近寄ることになる。

 こっちにそのつもりはなくても向こうは全力で防衛するはずだ。

 戦車が大群でズラ~リと並んでいそうだし、近寄らないのが吉だ。

 とりあえず筋は通ってるだろ?

 俺だっていろいろ考えた末にこのルートを選んだのだ。

 とはいえ実際には新宿・渋谷はもぬけのカラで、むしろ都心に向かった方が安全だったという皮肉なオチも……まあ否定はできない。

 それでも、やはり荒川を下って東京湾に出るというプランは俺にとって唯一信じられる安全策であり――いわば頼みの綱だ。

 明治通りは確か北区の王子に続いているはずだ。

 俺の記憶では北区といっても赤羽周辺以外はよく分からない。

 赤羽駅はJRの各線が集まっていて多層構造になっている。

 つまり今や障害物としてお馴染みの高架線がある。

 その点、赤羽の手前の王子駅なら電車はまだ地面を走っていたはずなので、高架線を跨ぐかくぐるかで悩まずに済む。

 よーしよし、いいぞ。

 完璧なプランじゃないか。

 俺の脳内では王子を通り抜けて荒川にダイブする図までが容易に想像できた。

 できた……のだが。

 俺の計算にはとてつもなく大きな穴があった。

 怪獣もいる、という発想がなかったのだ――


      ★


 真っ青で高い空に、生クリームみたいな真っ白な入道雲。

 いやー夏っぽいね!

 怪獣の身体は暑いも寒いもないけどな!

 つーかよく考えてみたら俺、服着てないよな……?

 つまり……全裸!?

 まさかフルチン!?

 ブラブラさせたまま闊歩していたのか?

 いや、でも……スースーする感じはないし、爬虫類なら体内に収納されているのでは?

 確認せねば。

 だが、誰に見られているかも分からないのに自分の股間を確認するなどという軽率な行為は控えるべきだ。

 俺を監視する自衛隊のヘリは今や二機に増えているのだ。

 油断して醜態をさらすわけにはいかない。

 どうにかして合法的に自分の股間を確認する方法はないのか――

 閃いたぞ。

 俺は後ろ足で立ち上がった。

 アイデアというのは簡単なことだ。通りに面した壁がガラス張りになってるビルを鏡にして自分の姿を映すのだ。

 飛竜の羽ばたきが巻き起こした衝撃波のせいで明治通り沿いのビルの窓ガラスは軒並み割れているが、比較的軽微な被害で済んでいるビルを選んでその前に立つ。

 ……うーむ。

 ハーフミラーの窓ガラスじゃないから暗くてイマイチ分かりづらい……

 見る角度が悪いのか頭を上下左右に動かしているうち、俺は奇妙な違和感に気付いた。

 何か……何かが変だ。

 何が?

 視点を変えると分かりやすいかと思って、四つん這いと二足の直立を切り替える。

 分かった。

 違和感の元はガラスに映っている自分の影ではなく、その向こうにあった。

 入道雲だ。

 真っ白の、溶けかけたソフトクリームみたいな積乱雲。

 本来は空の彼方にあるはずだが……ずいぶん近くに見えるな。

 おそらくほんの一キロメートルほど先だ。

 すごく……近いです。

 ずっと四足歩行で視点が低かったから気付かなかったのか?

 ミーアキャットを見習ってこれからは頻繁に直立して周囲を警戒することにしよう。

 俺は怪しげな巨大ソフトクリームを慎重に観察した。

 怪しげ……と言ったが、本当のところは何なのかよく分からない。

 目を惹く奇妙なデザインの建造物というのも都内に限ればそう珍しくはない。

 しかし方向からして王子駅のすぐ近くだ。

 そんなところに巨大ソフトクリーム風の建物が建ったらニュースになったはずだし、俺だって知っているはず……

 いや、どうだろう?

 俺は人間だった頃の個人的な記憶を丸々失っている。

 記憶はなくしているが知識は残っているという、えらく曖昧な状態だ。

 最近できたばかりの建物で、俺もニュースには触れたがそのことをきれいさっぱり忘れているという可能性も否定できない。

 忘れているということさえ忘れているのかもしれない。

 ソフトクリーム風のそれは純白というより半透明っぽくもある。

 空気圧で膨らんでいる風船というか、テントみたいなものなのだろうか?

 ソフトクリーム屋の看板だったりして。

 だとすれば警戒するだけバカらしい。

 アドバルーンみたいなもんじゃないか。

 俺は荒川に向かう最短ルートを通ることに決めている。

 この予定を曲げるわけにはいかない。

 真面目すぎる?

 融通が利かない?

 何とでも言いたまえ。

 その場のノリと思いつきだけで右往左往するとロクな目に遭わないという教訓はすでに身に染みている。

 あくまで前進あるのみ。

 座右の銘は初志貫徹。

 臨機応変?

 何それ美味しいのってなもんだ。

 俺は再び四足歩行で明治通りを脇目もふらず勇往邁進した。

 途中でまたもや首都高中央環状線の高架橋が合流してきたので上に乗っかる。

 高架橋は王子に近付くにつれて下っていき、前方に緑豊かなこんもりした丘が見えてきたあたりで明治通りの下に潜っていた。

 あの緑の丘は……あれが噂の飛鳥山公園か?

 中央環状線は公園とJR京浜東北線の下をくぐる構造になっているようだ。

 飛鳥山か……東京で一番低い山という噂は本当らしいな。

 せいぜい小学校高学年女子のおっぱいくらいのささやかな膨らみだ。

 ……あくまで比喩ですよ?

 そのささやかな盛り上がりの上にソフトクリームがムニュムニュッとトッピングされている――ように見えた。

 角度の問題でそう見えるだけで、実際には公園の向こう側にある。

 立ち上がって公園の向こう側を目視で確認。

 ……うーむ。

 弱ったな。

 参ったぞ。

 あの巨大ソフトクリームは、どうやらソフトクリーム屋の看板ではなかったらしい。

 飛鳥山公園の向こう側――王子駅前周辺が真っ白になっていたからだ。

 誰かがうっかりメレンゲをボウルごと引っくり返したような具合だ。

 そう、クリームじゃなくてメレンゲだ。

 近付いたことで非常に細かい泡のような質感だと分かる。

 泡の塔は俺の身長よりも高かった。

 目測で八十メートルくらいだろうか。

 ただのメレンゲがそのサイズで形状を維持できるとも思えないので、発泡スチロールのように固まっているのかもしれない。

 どっちにしたところで……これは、いったい何だ?

 怪しい。

 怪しすぎる。

 怪しさ大爆発だ。

 こんな怪しい物はついぞ見たことがないってくらい怪しい。

 どうにも好奇心を刺激される。

 それと同時に、すでにヤバい感じがビンビンきている。

 危機に直面した際の俺の心理描写のバリエーションが「ヤバい」と「マズい」の二種類になってしまうことを前もって謝っておきたい。

 生きるか死ぬかという時に、気の利いた表現を考えるような余裕はないのだ。

 そう……俺はすでに相手のテリトリーに足を踏み入れていた。

 根拠はないが確信がある。

 怪獣の本能ってやつか。

 それにしては飛竜の時の経験が活かされていない。

 少しでも異常を感じたら警戒して避けるべきだったのだ。

 人間の尺度で甘い判断を下してしまった。

 喉元過ぎれば熱さ忘れる。

 いかにも人間らしい慢心。

 君子らしく危機を回避するでもなく、紳士らしく勇気を持って挑んだわけでもない。

 一度決めたルートを変更するのが面倒だっただけのこと。

 怠慢にもほどがある。

 人間的、あまりにも人間的。

 だが後悔も反省も、今はいい。

 すべて後回しにして、ここは速やかに撤退すべきだ。

 回れ右をして全速で首都高を引き返す――比喩ではなく尻尾を巻いて逃げるべきなのだが、そうは問屋が卸してくれなかった。

 足元の地面から、突如として雲のようにフワフワした白い泡が噴き出したのだ。

 泡は瞬く間に広がり、俺の膝のあたりまでの深さになった。

 地下に潜っている首都高を通じて送り込まれているらしい――つまりJRの向こう側からだ。

 足元から奇妙な振動が伝わってくる。

 何かが地中を進んでくる。

 こっちへ真っ直ぐ近付いてきやがる!

 何だか分からんがとにかく避けようとして――足元がと滑った。

 うおおおっ!?

 反射的に尻尾で身体を支えて転倒を免れる。

 あってよかったぜ尻尾!

 しかしこの泡は滑るのか。

 両脚と尻尾の三点で支えているから立っていられるが、素早い移動は望むべくもない。

 ならばと四つん這いになろうとしたその時、泡を突き破って何かが飛び出してきた。

 巨大な鎌――!?

 鳥の嘴――!?

 あるいは鋏――!?

 草刈り鎌の湾曲した刃を思わせるは、俺の眼前で大きく口を開くように二股に分かれ、俺の首を挟み込もうとした。

 バチィン!

 強力なバネ仕掛けの虎挟みが閉じるような音が鳴り響いた。

 俺の鼻先数センチのところで。

 当たらなかった――? いや、そうじゃない。

 攻撃は、直前まで俺の首が存在していた位置を正確に狙っていた。

 カメらしく首を甲羅の内側に引っ込めたため、致命的な攻撃をギリで躱すことができたというわけだ。

 数センチというのはあくまで人間としての感覚であり、怪獣サイズに換算すると二メートルほどだろう。まさに紙一重。ほとんど奇跡といっていい。


「カメでよかった!」


 このフレーズはこれから何度も使うことになりそうだ。

 そんな予感がする。

 思えば飛竜戦の時に使ってもよかったのだ。

 なにしろ硬い甲羅がなければ死んでいた。

 カメこそ安全の化身!

 イージスの甲羅と呼んでもらって結構だ。

 身を守る盾があればこそ、反撃の機会もあるというもの。

 必殺の首狩り攻撃を空振りした敵は、すぐにまた泡の海に潜った。

 俺は四つん這いになり、甲羅から頭を半分くらい出して周囲を窺う。

 今のは何だったのか?

 頭だとすれば鳥、鳥だとすればオオハシの仲間みたいな巨大な嘴だ。

 しかし、俺の直感は鳥説を否定している。

 あれは『腕』だ。

 振り回す角度とか、速さとか、諸々の条件からの推察である。

 腕が鋏になっているとすれば――おそらくは甲殻類だろう。

 泡の海の一部がモコモコと膨らむ。

 その下を謎の巨大生物が移動しているのだ。

 奴はこのヌルヌル滑る泡の海の中でも自由に動けるらしい。

 姿こそ見えないが位置は一目瞭然だ。

 全体的な泡の増量はひとまずおさまっていた。

 これ以上増えると泡で溺れてしまいそうなので助かる。

 敵は弧を描く動きで俺の真後ろに回り込んだ。

 ……くっ、速い。

 しかし四つ足になったことで俺の機動力も上がっている。

 舐めんじゃねーぞ!

 素早く振り向くくらいなんてこと……と思ったが、そうはいかなかった。

 この泡――四つ足でも滑る!

 しかもただ滑るだけじゃなく、やけに粘度が上がっていて手足にまとわりつきやがる。

 結果、二度目の攻撃を真横から食らう羽目になった。

 泡の中から飛び出した巨大な鋏が、俺の胴体をガッチリ挟み込んだ。

 濃い青紫と乳白色のツートンカラーの鋏――明らかにカニのそれだ。

 剪定鋏みたいな形なので、シルエットだけなら鳥の嘴に見えなくもない。

 泡の中から細長い電球みたいな目が突き出している。

 ザリガニとかヤシガニという可能性もまだあるが、とにかくカニ系だ。

 カメVSカニか。

 後はイカの怪獣が出れば三役が揃うな……とか言ってる場合じゃねえ!

 デケえよ鋏!

 そしてパワーがハンパねえ!

 俺の身体が持ち上げられた。

 片腕でだ。

 甲羅がギリギリと軋む。

 腹が圧迫される。

 不吉な予感がする。

 最強の盾だと自慢したばかりだが……もしかしてヤバいのか!?

 バチン!

 再び鋏が閉じられた。

 甲羅が切断された――のではなかった。

 濡れた手で握った石鹸のように、あるいは箸で一粒だけ摘もうとした納豆のように、俺の身体はすっ飛んだ。

 泡が潤滑油代わりになってツルンッと滑ったのだ。

 俺の身体は飛鳥山公園でいったんバウンドし、JRを飛び越えて、その向こうの巨大ソフトクリームにぶつかった……らしい。

 天地が入れ替わって何が何だか分からん状態になったが、結果から想像するとそんなところだろう。

 クソッ、とんでもないカニだ。

 ただの勘だが、あの巨大鋏の硬さは俺の甲羅に匹敵するぞ。

 いや……あのまま泡で滑らなければ傷付いていたのは甲羅の方かもしれない。

 それくらいヤバい。

 飛竜の攻撃なんて全然可愛いと思えるくらいだ。

 逃げなければ。

 黙って見逃してくれればの話だが。

 まー無理な相談か。

 いやいや、そう決めつけるのは早すぎる。

 それでも一応交渉するだけはしてみないとな。

 起き上がろうとした俺は――早くも交渉を断念した。

 例の泡のソフトクリームを間近で見たからだ。

 蟻塚になぞらえて泡塚とでも呼べばいいのか――とにかくその固まった泡の塔には、赤く光る虫のようなものが閉じ込められていた。

 俺の視覚にそう映るものが何なのかは、あらためて説明するまでもないだろう。

 それは数え切れないほどの――無数の人間だった。

 何千という数だ。

 半透明の泡塚の中には自動車や電車の車両のシルエットもあった。

 おそらくここを通ろうとした電車を泡で捕らえて集めたのだ。

 何のために――?

 そいつは考えたくない。

 考えるまでもない。

 あくまで人類とは敵対しないというのが俺の方針だ。

 しかし、ならば、そうであるからこそ。

 こうやって人間に危害を加えている怪獣を――放ってはおけない。

 再びあの胸焼けの感覚が甦ってきた。

 俺の身体が戦闘態勢に入った証拠だ。

 俺は口と鼻を閉じ、脇腹の鰓から大量の空気を体内に取り込んだ。

 気嚢で圧縮し、蓄える。

 その圧力を利用して、体内のナパーム袋から胸焼けの元であるゲル状燃料を喉の奥まで送り出し、ちょうど噴火寸前の火山のような状態にキープする。

 自分の体内がどんな構造になっているのかは正確には分からないが、戦うための準備ならこれでいいはずだ。

 目の前の泡の海が大きく盛り上がった。

 右腕の巨大な鋏を突き出しながら、泡にまみれたカニの本体が姿を現す。

 本体の形はよく分からんが、右腕だけが大きいということはシオマネキの化け物か。

 ゴパア!

 俺は大口を開けて、圧縮空気と混合したゲル状燃料を吐き出す。

 食らいやがれ――必殺の〈ナパーム・ブレス〉!

 しかし、これは、一方的な奇襲にはならなかった。

 俺が前回の反省をいかして散弾ではなくひと塊のブレスを吐いたと同時に、カニ怪獣の方も泡を吐いていた。

 口にあたる箇所から放射された細かい泡のスプレーが、俺の〈ナパーム・ブレス〉と正面からぶつかった。

 マグマの塊のようなゲル状燃料は、泡に穴を穿ってカニの足元に着弾する。

 ………………

 …………

 ……あら?

 いつまで待っても爆発しない……ぞ?

 不発!?

 なんで!?

 考えられるとすればこの泡だ。

 泡で包まれたせいで空気と遮断され、燃焼反応が起きないのか!?

 圧縮空気と混合しているはずだから当然酸素は混ざっているはずだが……

 もしかして酸素は肺で取り込まれてしまって、ブレスに混ぜた時には二酸化炭素の比率が多くなっているのか?

 それで外気がないと起爆しないとか?

 てんぷら油の火災も消せる消火器みたいだな。

 にしてもいきなり必殺技封じとは……二戦目でやるには早すぎないか!?

 考えてみたら俺が勝手にと称しているだけで、実際にはまだ誰も倒したことはない技なんだけどな!

 しかし唯一の武器らしい武器が……これはいかんぞ。マズいにもほどがある!

 巨大鋏が斜めに振り下ろされた。

 左肩から腹にかけて斜めにガッチリ挟まれ、右に投げ飛ばされる。

 俺は泡まみれになりながら転がり、大きなビルに激突した。

 なんつーパワーだ!

 俺って重量級じゃなかったのか!?

 カニ野郎は巨大な右腕の鋏を盾のように構えながら横歩きする。

 泡塚を背にしたのは偶然ではないだろう。

 食べるつもりか?

 そうなのか!?

 泡塚に取り込まれた人間はまだ生きているのか?

 死んでいるなら赤く光って見えない気がするので、とりあえずは生きていると考えるべきだろう。

 さっきの鋏をまともに食らったのは、下手に取っ組み合いをするとすぐ傍にあった泡塚を破壊するのではないかと危惧したせいでもある。

 結果的に破壊されたとしても自分の責任にはしたくなかった。

 しかし泡塚を壊したくないという一点では俺とカニの思惑は一致している。

 互いに気にしながら戦うことになりそうだ。

 俺の切り札〈ナパーム・ブレス〉が泡で包まれると無力化されるとなれば……どうにかして直撃を食らわせるしかない。

 ひとまず泡塚から距離を置くべきだな。

 睨み合いながら離れようとした俺は、足元に違和感を覚えた。

 ぬかるみに足を取られたような重さ――これは何だ!?

 足元だけじゃない。全身の動きが妙に重い。

 泡が……接着剤のように粘りつく!?

 泡塚が固まっている段階で気付くべきだった。

 この泡は――もしや蜘蛛の糸と同じか、それ以上にヤバい性質なのでは!?

 俺はすでにカニ野郎に囚われている!

 カニはどうやら泡が固まり始めるのを待っていたらしく、悠々と近寄って来やがった。

 ダメ元でブレスを吐くか?

 いや、泡塚が近すぎる。

 ひとまず防御姿勢をとろうとすると、カニは奇妙な動きを見せた。

 右手の巨大鋏を水平に構え、その先端を小さい左手の鋏で掴んだのだ。

 何をしようとしているのか――?

 一度引っ込めかけた首を伸ばして確認しようとした矢先、大砲で撃たれたような衝撃が襲ってきた。

 胸元を巨大鋏で一撃され、俺の身体は背後のビルにめり込む。

 むぐぐ、胸が詰まって呼吸が……

 ………………

 …………

 ……いかん!

 意識が飛びかけたぞ。

 胸が超痛え。

 腹の甲羅が割れたんじゃないのか?

 割れるまではいかなくてもヒビくらい入っていそうだ。

 それより衝撃がエグい。

 今のはいったいどういう技だ?

 こんな強力なカニパンチがあるなんて聞いてないぞ!?

 そういえば、同じ甲殻類のシャコは強烈なパンチ力で貝の殻を叩き割って中身を食べるそうだが……

 するとこいつカニじゃなくてシャコだったのか!?

 いや待て、シャコにあんなデカい鋏はないはずだ。

 見た目から判断すると……左手の鋏で掴み止めたままで右手に力を溜め、放すことで強烈な裏拳を繰り出したんだろう。

 つまりデコピンと同じ要領か。

 しかしこいつは掛け値無しの脅威だ。

 俺の甲羅が少々硬いとはいえ、このカニパンチに何発も耐えられるとは思えない。

 なにせ一発もらっただけでこっちはKO寸前だ。

 もう食らうわけにはいかない。

 甲羅を叩き割られて中身を美味しく頂戴されるなんて――そんな末路は想像するだけで怖すぎるし嫌すぎる!

 俺は必死だった。

 必死になるのも必至だった。

 背中がめり込んだビルから逃れようと必死で両手をばたつかせ、崩れたビルの一部を掴んで投げつける。

 まるで癇癪を起こした子供だ。

 カニ野郎は器用にも右手の巨大鋏でその鉄筋コンクリートの塊をキャッチし、爪の間で易々と粉砕した。

 なかなかの動体視力と反射神経だ。

 それを見た瞬間、俺の脳裏に閃くものがあった。

 だから吐いた――〈ナパーム・ブレス〉を!

 ただし吐いたのはカニ野郎にじゃない。自分の足元のやや右に向かってだ。

 膝まで埋まる深さの泡の海にボコッと穴が開くが、ナパームは泡に包まれて不発だ。

 この結果はもちろん予想済み。

 カニ野郎には俺が何をしているのか理解できないだろう。

 再びカニパンチを食らわせようとにじり寄ってくる。

 残念だったな……最初のカニパンチでぶっ飛ばされたおかげで、俺の下半身はから抜けた状態になっている。

 つまり――まったく動けないわけじゃないんだよ!

 俺は両腕を突っ張ってビルから身体を抜くと、足を踏み換えて左に九十度回転した。

 尻尾を振り回して泡の海を抉るように吹っ飛ばす。

 ゴルフのバンカーショットさながらのひと振りだ。

 バンカーショットと言うならボールは?

 ボールなら――あるさ!

 カニ野郎は俺が尻尾で飛ばした泡の中にひときわ大きな球状の塊が混じっていることに気付いて、それを右手の鋏で掴み取った。

 ナイスキャッチしたつもりだろうが、俺が掴ませたものだとは思うまい!

 泡の玉は柔らかく、鋭利な鋏で挟まれるとたちまち両断された。

 そこから生まれ出たのは――紅蓮の炎だ。

 泡のコーティングが破れたことで液体燃料が周囲の酸素を取り込み、燃焼する!

 名付けて――〈泡包みナパーム・ブレス〉!

 ナパームの爆発は巨大鋏を粉砕した。

 見よ、この威力!

 反撃するなら今だ!

 カニ野郎が苦し紛れに泡を吐き出す。

 それも予想済みだ。

 俺は大口を開けてブレスを放った。

『ボエ~~ッ!』

 角笛のような音が鳴る。

 しかし吐き出されたのはナパーム抜きのだった。

 殺傷能力はほぼ皆無――しかし泡が相手なら威力は十分だ。

 スプレー式のエアダスターよろしく俺のブレスは泡の噴射を退け、カニ野郎の身体を覆っていた泡を残らず吹き飛ばした。

 背中が青黒く、腹の方がクリーム色をした本体が露わになる。

 気嚢に蓄えた圧縮空気はほとんど底を突いている。

 吸い直している時間は? そんなもんはねえ!

 俺はタックルしてカニ野郎を押し倒し、馬乗り状態で生のナパームを吐きかけた。

 ゼロ距離ナパーム・ブレスとかそんな格好いい技じゃない。

 客観的に見れば酔っ払いが人に抱きついてリバースしたような具合だ。

 実にみっともない。

 だが格好なんか構うものか。

 必至の必死は必殺でなければ困るのだ。

 ドロリとしたマグマのような生ナパームは数秒遅れで発火し、猛烈な火勢でカニ野郎を火だるまにした。

 やっぱりカニはカニだった。

 断末魔の悲鳴もなければ、苦悶の悪あがきもない。

 強敵だったくせに実にあっさりした――いっそ潔い最期だった。

 俺はナパームの炎に炙られながらも、カニの身体を引きずって泡塚から引き離した。

 やれやれ……どうやら泡塚に被害はないようだ。

 しかしどうするよ、これ?

 泡塚に囚われている市民たちが生きているとしても、俺の手では助けられない。

 サイズがあまりに違いすぎるからだ。

 ほんのちょっと力加減を間違えただけで潰してしまう。

 掌に乗せるだけにせよ、うっかり膝の高さから落とそうものなら墜落死。

 泡にまみれて呼吸できなくなったら窒息死だ。

 儚い命にもほどがある。

 ここは自衛隊のレスキュー待ちだな。

 つまり俺がこの場に留まっている限り救援は来ないということだ。

 カニを倒したのは俺なのに感謝のひとつもされず、今やさっさと立ち去る以外にできることがないってのは……まあ、無理もないか。

 俺もカニ野郎も、人類にとっては排除すべき脅威でしかないのだから。

 現実は厳しいなあ……

 いや、こんなふざけた状況を現実だなどとはあくまで認めない立場なのだが。

 アドレナリンの値が下がってきたのか胸がズキズキと痛む。

 肋骨が何本か折れてるような痛み……ん? カメに肋骨ってあったっけ?

 ともあれ俺が弱っているのを見抜かれるのはマズい。

 何食わぬ顔で、悠々と、クールに、颯爽とこの場を後にするのだ。

 向かう先は荒川。プランには何の変更もない。

 そのはずだ。

 そのはずだったが――

 俺の足は立ち去りかけたところで止まったままだ。

 泡がセメントのように固まって動けなくなったわけじゃない。

 俺の心を捉えたのは別のものだった。

 心というか、本能というか。

 俺の足を止めさせたもの……それは『匂い』だった。

 俺の鼻は、そして目は、あるものに釘付けになっている。

 視線の先にあるのは――カニ野郎の屍骸。

 屍骸?……屍骸じゃないな、これは。

 ナパームでこんがり焼かれ、殻が鮮やかな赤に変色した焼きガニだ。

 スゲー美味そう。

 いやいやいや!

 美味そうって……怪獣ですよ? 化けガニですよ!?

 しかしこの……香ばしい匂いが……否応なく食欲を刺激しやがる。

 じゅるり。

 俺の意志とは無関係に口内にヨダレが溢れ出す。

 足の一本くらいなら……試しに食ってみてもいいよね?

 待て待て待て待て。

 行きがかり上仕方なく戦うことになったとはいえ、相手は俺と同じ怪獣だぞ?

 もしかすると元は人間だった可能性だってある。

 カニに見えるからってカニ肉とは限らんのだぞ!?

 でも美味そうだよなあ。

 いい焼け具合だし。

 巨大鋏も砕けてるから中のカニ肉を掻き出すのは簡単だろうし。

 ただ殺しただけなら殺人ならぬ殺獣だが、食べるとなればこれはもう自然の摂理の内だと言っても過言ではない。

 だいたい負けていたら食べられていたのは俺の方なのだ。

 あと、俺が怪獣の骸を食べて誰か困るのか?

 テレビの特撮番組だと毎週のように怪獣が爆殺されるが、その死体の処理まできちんと描写されることはまずない。

 怪獣が市街地で倒された時なんて処理する前に腐っちゃってさぞ大変だろう。

 公衆衛生の問題を残さないという意味でも感謝されこそすれ、文句を言われる筋合いはない……

 もうすでにお気付きだろうが――俺の理性はもはや働いていない。

 俺の頭脳はいつの間にやら葛藤を放棄し、もっともらしい言い訳を捻り出すことだけに腐心していた。

 怪獣になっておそらく初めて襲われた空腹感は、それほどまでに圧倒的だったのだ。

 良いも悪いもない。そんな判断は下すまでもない。

 ただただ津波のごとき食欲に衝き動かされて、俺は焼きガニに躍りかかった。

 いっただっきまぁーす!

 足をもぎ取り、殻ごとかぶりつく。

 殻を噛み砕いて剥がし、中の身を啜る。

 半生の身はでジューシィで美味~い!

 巨大鋏の中身はよく焼けていて、これはこれでまた濃厚な味わいで絶品だ。

 足を食い終えても俺の食欲は収まらなかった。

 やるのか?

 ついにやっちまうのか!?

 ああ、やるね!

 俺はご開帳とばかりにカニの甲羅を引っ剥がした。

 人間だった頃はグロくて苦手だったようにも思うが、今の俺には御馳走の詰まった宝石箱にしか見えない。

 もはや手も使わない。

 人間性をかなぐり捨て、一匹の飢えた捕食者と化した俺は、カニの内臓に頭から突っ込んで牙を突き立てた。

 食って、喰って、喰らいつき、喰いちぎり、貪り喰った。

 うっひょおおおお!

 カニミソ超美味えええええええぇぇぇ~~~~っ!

 この何だか分からないハラワタだって丸呑みにしちゃうもんね!

 煮えたぎる体液も遠慮なく啜ってやるぜ!

 ああもう何もかもが美味い! 美味すぎる!

 このカニってやつぁ俺に喰われるために生まれてきたようなもんだぜェ~!

 ヒャッハ~~ッ! 最高だ~!

 めくるめく恍惚の中――いつしか俺の意識はカニミソ色の闇に呑み込まれていった。


          ☆


「――ご飯できたわよ~」

 母親の声で起こされた。

 びっくりして飛び起きるとベッドの上だ。

 周囲を見回す。

 学習机とベッドの置かれた六畳ほどのな子供部屋だ。

 誰の……って、俺の部屋以外の何だというのか。

 窓の外は明るい。

 掛け時計を見る。

 長短二本の針はてっぺんに近い、十一時五十五分を指している。

 すると昼か。

 ええと――ああ、そうか。

 夏休みの課題をしていたはずが、ついうたた寝をしてしまったらしい。

 スゲー変な夢を見ていたような気がするが、内容はさっぱり思い出せない。

 夢ってのはたいていそんなもんだが……

 ひどく気分が凹んでいるのはその夢のせいだろう。

 夢見が悪いとはこのことだ。

 部屋を出て、階段を下りて、ダイニングキッチンに入ると、テーブルには巨大なカニがと置かれていた。

 茹で上げられた真っ赤な毛ガニだ。

「昼飯って……これ?」

「そう」

 固焼きそばみたいなパンチパーマの『母』がしれっと答える。

「召し上がれ」

「いただきます」

 手を合わせて拝んでから、豪勢な昼食をいただく。

 毛ガニの足をもぎ、殻を割ってホカホカの身を口に運ぶ。

 うん、美味しい……けど、正直あんまり食欲がない。

 カニならすでに飽きるほど食ったような気がしているからだ。

 それに、もっと気懸かりなことが別にあった。

「ところで母さん……ひとつ質問してもいいかな?」

「なんだい改まって」

「俺を名前で呼んでほしいんだけど」

「変なこと言う子だねえ」

「いいから、フルネームで言ってくれないか」

「今言わないとダメなのかい?」

「今じゃないとダメだ」

「どうしてもかい?」

「ああ、どうしても」

「しょうがないねえ」

 わざとらしく『母』は肩をすくめた。

「――○○○○」

 どうやら『母』は何か言ったらしいが、不意に外から響いてきたヘリのローター音でかき消された。

「……さ、早いとこ食べな」

「今のはよく聞こえなかったぞ。もう一度頼む」

「もう一度かい?」

「もう一度だ」

「三回目は言わないからね……○○○○」

 またもやローター音がかぶってよく聞き取れなかった。

「もっかい! もう一回だけ!」

「うるさいよ。いいから黙ってお食べ」

 三回目は言わないと宣言した通りに『母』は取り合わない。

 なら質問を変えるしかない。

「じゃあ母さんのフルネームは?」

「母さんは母さんだよ」

「母さんも母さんである前に一人の人間だろ。いいから名前を教えろよ」

「明かさん」

「…………」

「母さんだけに」

 あまりにしょうもない駄洒落に、俺の忍耐ゲージがMAX値を超えた。

 俺はキレやすい子供らしい。

「俺の名前も言えない、自分の名前も明かさない、そんな母親がいるか!」

「根拠もなく断言するね。統計でも取ったのかい?」

「取らんでも分かるわ! だいたい俺はお前を母親だと思ったことはない!」

「疑い深い子だねぇ。そんな子に育てた覚えはないよ」

「育てられた覚えもないわ! 疑われたくなければ正体を見せろ!」

 俺は身を乗り出して『母』の被っている面を――厚紙に『母』と書かれているだけの仮面を剥ぎ取った。

 そして、たちどころに毒気を抜かれた。

「……あんたか」

「そう、私だ」

 仮面の『母』の正体は大仏おばちゃんだった。

 道理でパンチパーマだったはずだ。

 なるほど、これですべて納得……できるかあ!

「どうしてわざわざこんな茶番を?」

「あんたに事の真相を教えるためさ」

「知っているのか!? だったらすぐ教えろ! 今教えろ!」

「耳をお貸し」

 大仏おばちゃんは二言、三言、俺の耳元で囁いた。

 それだけで、俺はすべてを理解した。

 この世界の秘密を。

 因果律の仕組みを。

 宇宙の真理を。

「そうか…………そういうことだったのか! 俺が怪獣となった意味とは……世界の……この宇宙のカラクリは…………だとすると――」

 さっきよりもさらに激しく喧しいローター音が俺の思考を、天地宇宙万物の真理に触れんとした俺の至高の思考をかき乱した。

「かああああっ、うるせええええっ!」


          ☆


『――ポォメエエエエエエエ~ッ!』

 素っ頓狂な咆吼とともに俺は顔を上げた。

 瞼を開くと眩しい光が網膜を刺激した。

 頭上にホバリングしていた自衛隊のヘリが泡を食った様子で離れていく。

 お前か!

 すべての謎が解ける寸前だったのを邪魔したのは!

 瞬間的に湧き上がった怒りは、しかし、すぐに収まった。

 まったく理不尽で的外れな憤怒だと思い至ったからだ。

 夢のお告げで一足飛びに宇宙の真理に到達したような気分になる――なんてのはよくある錯誤だ。

 この世の創造主と肩を並べたような気分になったとしても、そんなものはまやかしにすぎない。

 そもそも大仏おばちゃんは俺の妄想の産物なのだから、俺の知らないことを知っているわけがないのだ。

 俺が忘れていることを思い出させてくれるのならまだ現実味があるが……

 そう、俺の理性は正常に働いている。

 頼もしいことに。

 嬉しいことに。

 ただ残念なことに、夢から醒めてもやはり悪夢の続きだった。

 俺はまだ怪獣のままだ。

 辺りはすっかり夜になっていた。

 さっきの目映い光は地上と空からのサーチライトのものだ。

 俺は空になったカニの甲羅を枕に眠り込んでいたらしい。

 王子駅周辺を覆っていた泡の海はすでに粗方溶けていた。

 首を持ち上げ、泡塚を探す。

 記憶にある巨大ソフトクリームは見当たらない。

 代わりに、溶けかけた雪ダルマのような白い小山を発見した。

 サーチライトの光を照射しているのは自衛隊の車両らしい。

 周囲にはけっこうな数の車両が集まっていて、何機ものヘリが飛び交っている。

 中には放水車のような車両もあった。

 もしかしてカニの泡って水をかければ簡単に溶けるような性質だったのか?

 目に見える範囲の情報で判断するに……カニを食って満腹になった俺が眠り込んでしまったのを好機と見て、レスキュー隊が泡塚に捕らえられた市民を救出にやってきたといったところか。

 俺が目覚めたせいだろう、周囲がにわかに慌ただしくなった。

 とりあえず攻撃を受けた形跡はない。

 俺のデリケートゾーンにえげつない威力の爆弾がセットされていないとも限らないが、レスキューと同時にそんな作戦を展開するとも考えにくい。

 自衛隊は俺を警戒して監視しているだけで、救助活動を優先しているのだろう。

 救助活動は完了している……とは思えない。

 固まった泡を溶かす方法がすぐに分かったとも思えないし、泡塚は巨大だ。

 しかもすぐ傍にこの俺が――大怪獣が寝ているのだ。

 人命救助優先とはいえ参加した隊員は皆、決死の覚悟だろう。

 その度胸と勇気には敬意を表するしかない。

 日本人も捨てたもんじゃないなと素直に感動すら覚える。

 しかし、だからこそ今の俺にできることは――することだった。

 周囲の騒ぎなどまるで意に介さぬ風に装い、大胆不敵にも寝たふりを決め込む。

 タヌキ寝入りだ。

 カメだけどな!

 満腹で動く気にならないのも事実だが、それは黙っておけばいい。

 もちろん救出作業が終わるまでだ。

 落ち着いて反省すべき事柄もなくは……むしろ大いにあることだし。

 カニ野郎が俺と同じく元人間だったという可能性は捨てきれないからだ。

 今となっては知る由もないが、それが事実なら殺人である。

 しかも俺はその死体を貪り食った。

 カニバリズムだ。

 カニだけに。

 美味かった。

 カニだけに。

 ここは丁寧に「美味しゅうございました」と謝辞を述べるべきだろうか。

 己が所業にもっと恐れ戦いていいはずだが――何故だろう、感謝こそあれ、おぞましい気分にもならなければ、嘆きも哀れみもない。

 戦闘し、勝利し、捕食した。

 すべては条理に適っている。

 という感触が、確かな納得感がある。

 駄洒落ではなく。

 あるいはそれは腹が膨れている今だけの感想かもしれない。

 俺がもともと道徳観念のない人間だからなのか、それとも怪獣の生理によるものなのか、それは分からない。

 できれば後者であってほしいが……

 しかし少なくとも、今日のところは、誰に対しても申し開きをする必要性を感じない。

 我が輩は怪獣である。名前はまだないが――

 しばらくの間なら『カニ喰いガメ』と呼ばれるのもやぶさかではない。

 御馳走様でした。

 そしてお休みなさい――とはいかなかった。

 俺はいきなり、ひどく荒っぽい方法で叩き起こされることになったからだ。

 至近距離で起きた大爆発の衝撃と炎熱によって。

 飛び起きた俺の目に映ったのは、火の海と化したJR王子駅周辺の惨状だった。

 つい数時間前にも見たような地獄絵図だ。

 レスキュー隊の車両は軒並み薙ぎ倒されている。

 なっ……何が起きた!?

 俺の身体にセットしようとしていた爆弾が誤爆でもしたのか?

 そんな作戦があったとしても、誤爆というのはこの場合当てはまらないのだろうが……

 暴発、か?

 しかしこの爆発は誤爆でも暴発でもなく、言うなれば誤爆であり暴発だった。

 俺はすっかり失念していたのだ。

 自分が放った〈ナパーム・ブレス〉があったことを。

 最初の一発は泡に絡め取られて不発だったことを。

 時間の経過か、あるいは放水によって泡のコーティングが破られたのだろう。

 不発弾の爆発。

 不幸な事故だ。

 不条理で、理不尽だ。

 これは俺の責任で――償いようもない。

 俺は漆黒の夜空を仰いで、吼えた。

 他の怪獣に聞かれたって構わない。

 ただ、吼えた。

 怪獣は鳴くことはできても――ことはできないのだ。










[俺的怪獣図鑑]その②

※このデータはすべて俺主観の情報であり多分に推測と想像を含む。


■ファイル№1【カニ喰いガメ】更新!

[名称]なし(俺)

[身長]およそ五十メートル

[体重]甲羅はあれど中量級

[分類]カメ型怪獣

[地形適応]陸・水

[移動力]陸C(四足歩行時)D(直立二足歩行時)/水C

[機動力]D

[攻撃力]B/ナパーム・ブレス…口からゲル状の爆薬を吐く。

[防御力]B/甲羅の装甲があるが過信は禁物。


■ファイル№3【カニ王子】

[名称]ムラサキオニガザミ

[身長]五十五メートルくらい

[体重]食べ甲斐のある重量級

[分類]シオマネキ型怪獣

[地形適応]陸/たぶん泳ぎも達者。

[移動力]C/基本横歩き。

[機動力]C

[攻撃力]A/秘拳カニ流れ(俺命名)。

[防御力]A/巨大鋏・甲羅の装甲・泡による捕縛。

[備考]ナパームで炙って食うと絶品。

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