鬼儺(おにやらい)

 笑い声が、木霊こだまする。縛り上げられた閑鳴しづなは、ぼうっと地面に座っていた。ひどいにおいに、吐き気がした。

「水だ」「水だ」「どんどん出てくるぞ」「さあ、もっと、もっとだ」「水を」「よこせ」「水を」「もっとだ」

 水は、後から後から溢れて、あっという間に、甕に一杯になって、溢れ出る。乾きに喘ぐ人々は、群がり狂喜し、次を、彼女に要求する。乞われるまま、彼女は意識を集中する。

 彼らは酷く、飢えていた。そこへ、突如、閑鳴が、現れた。彼らは、閑鳴を捕らえた。

 何のために捕らえられたのかは、すぐに知れた。連れてこられた薄暗い洞窟の中に、累々と積もる人骨と、まだ肉のついた骸に群がる人々で、閑鳴は己の運命を悟った。が、水を出現させられることを偶然知った彼らは、それを閑鳴に求めた。

銀令ぎんれい様――)


「ここで待っていよ。すぐ戻る」

 彼の人が、言ったから、ここに居る。死ぬ訳にはいかない。

 くらく冷たい“鬼殿”から連れ出してくれた、彼の人が――。

 早く来て。ここは、怖いから。早く。

 生まれて初めて知った、温もり。それが、今は、ない。

 饑餓にも、寒さにも似た渇望に、眩暈がした。


「――役立たずが。所詮呪いの忌み子は、忌み子。どこまでも変わらぬな」


 父という人が、己に投げつけた言葉。それが突如として浮かび、はたと我に返った閑鳴は、不穏な空気に気付く。

「近くの村にこの水を売りつけりゃあ、金になるぞ」「飢えに喘ぐこともない。こんな悍ましいことをしなくても」「他の村の連中にバレねぇように」「逃げられたらどうする?」「……逃げられねぇようにすればいい」

 軽く、言う声がしたかと思うと、閑鳴は押さえつけられた。

「!?」

 本能的な恐怖が脳を焼く。ほこりっぽい土の匂いに噎せながら、閑鳴は抵抗した。衝撃が走って、殴られたのだと遅れて気付く。

「脚と目を、潰しゃあ良い。どこにも逃げらんねえよ」

 狂気にぬれた目が、笑っていた。閑鳴は慄然りつぜんとした。

「!? ――あ、やっ!! やめてっ」

 また殴られた。口を切ったのか、鉄の味がした。だが、閑鳴はなおも暴れた。

「押さえてろ!!」

「ああああああああああああああああああああああああっっ」

 己の悲鳴と、かつて、閑鳴を「人殺しの鬼」と罵った、男の声とが、頭の中で重なった。

 ――なぜ。

 このような目に遭わなければならないの。

 人殺し。

 そう、私は、確かに、数多の人を殺めた。

 人は閑鳴を、「鬼殿に住まう鬼姫」と呼んだ。

 鬼と呼んでおそれられ。鬼と呼んでさげすまれ。鬼と呼んで人を殺めさせられた。

 それは、独り、閑鳴だけの罪なのか。

 闇に隠れ、「役に立て」と、ただ促されるままに。人を殺めた。

 閑鳴は、銀令に出会うまで、死の意味も、命が一度ひとたび消えたら再びは手に入らないことも、知らなかった。人を殺めることの罪深さも。誰も、教えなかった。ただ、その力で以て、殺すことだけを求められた。そこに、良心の呵責かしゃくなど、必要なかったのだ。

 その意味で言えば、閑鳴は真実、人ではなかった。

 しかし、何を以て、人を人とするのだろう。

 閑鳴には、隆々たる角も、人の骨を砕き、肉を裂く牙もない。頑丈な爪もなければ、口が裂けているわけでもない。

 姿形が、鬼と人と、変わらぬのならば、何を以て人と鬼とを分けるのか。

 己を満たすために、人を殺してその肉を喰らい、笑いながら、己の欲のために、閑鳴の目と脚とを奪った、この者達を「人」と呼び――生まれてからただ、人を殺すこと、それだけを教えられ、求められた閑鳴を「鬼」と呼ぶのは。真実だというのか。


 それからは、覚えていない。ただ、水の音が響いていた。

 閑鳴は、ぬかるんだ地面を這いつくばった。

 絶たれた脚で、立ち上がろうとして、失敗した。頬から崩れ落ち、砂利がめり込んで、血がでた。目から流れる血が、涙のように、頬を伝う。

「――嗚呼、」

 なぜ。なぜ、と。尽きせぬ問いが、脳裏に浮かんで消える。問わざるを得ないのは、怒りなのか。或いは、哀しみか。

 強すぎる怒りは、その奧底に、深い哀しみが横たわっている。


 ――太陽を、人は、決して直視してはならぬという。

 神の怒りに触れて、目を奪われてしまうから。

 それならば、目を失った私は、いったい、何を奪われるだろう。

 月は、死んではまた生き返るという。

 それなのに、なぜ、人は、死んだら生き返らないの。

 なぜ……私は、生きているだろう。

 彼らは、何処へ行ってしまったのか。

 水が全て、洗い流してしまったのだろうか……。

 死んだのは。

 彼らが人で、私が鬼だから? それとも?


 本当の鬼は……だぁれ? 

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