海風

 りん、と。


 風鈴が揺れた。

 ざあざあと寄せては返す波音の中、その音は一際高い。

 あの音も、そろそろ季節はずれだろう。

 火照った肌をなぜる風には、もう秋の匂いが混じっている。


 ほんの一週間前まで浜辺に賑わっていた海水浴客も、今はまばらだ。

 素足にサンダルのまま、砂の上を歩けば、さらりとした砂の粒が、足の指や爪の間に入り込んでくる。

 その感覚を楽しみながら視線を巡らせる。 

 

 誰かが落としたのだろうか。

 古ぼけた小さな赤いくつが、半ば砂に埋もれるように転がっていた。

 

 なんとなく拾った「わたし」の脳裏に、一つの光景が、過ぎる。

 


――赤い赤い、そのくつを、彼女はいつも履いていた。

 真っ白なワンピースの裾を、潮風になびかせながら。

 砂浜を走り回り、額に汗を滴らせ、貝殻を夢中で探し合った。

 時折、焦がれるような眼で、まっすぐに海を見つめて。

 

 恐る恐る、彼女の名を呼んだ「わたし」を振り返って笑った。

 

 あの笑顔が、今は遠い。

 

 あの頃、「わたし」には夢があった。

 「夢」と言うには、あまりにもささやかな。

 他愛の無い。

 子供ながらの全能感で。

 世界は未だ、「わたし」のものだった。

 


――波打ち際に彼女の赤いくつが打ち寄せられたあの日。

 「わたし」の小さな夢は、「わたし」の小さな世界と共に、砕け散ったのだ。

 


 彼女は、焦がれた海に還ったのだろうか。

 海が、彼女を呼んだのだろうか。

 


 「わたし」の足下を。這うように。

  風が。

  駆け抜けて、去った。

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