肆「生首奇譚」

 あたしは赤眼のセンリ。芸を売って生計たつきに変える芸人さ。

 まったくツキってもんは、落ちたときはとことんまで落ちるもんだね。なんだってこんな月もさやかの風情な夜に、生首なんかになって吊るされなきゃならないんだか。

 そう、今のあたしは憐れな生首。首から下はおいてけぼりに、見知らぬ旦那の腰に結われてぷらぷらと揺れている。うん? なんだって生首が喋るんだって? こらこら、芸人に芸のタネを聞くのはご法度ですぜ。野暮な話はなしにしやしょうや。

 さて、この旦那の手にぶら下がるのは、血に濡れ光る太い鉈だ。ご察しの通り、こいつであたしの首はぶつりと夜空を跳んだのさ。まったく、これも全部あのサジの野郎の運んできた厄病だ。

 こいつは恥ずかしい話になっちまうが、ちょいと先日つまらねぇ風邪を引いちまった。それで寝込んでいたら、差配家のサジの野郎が親切気取りでいらぬ見舞いにきやがった。その見舞い土産の置き仕事が、この顛末っていうお話だ。あの野郎め、このおとしまえはあとで必ずつけてやるからね。


「でも姐さん。あっしらどうにも手が出ませんぜ。胴がなけりゃ手も出ないのが道理でさぁ」


 あたしの横に生首がもうひとつ。生意気そうな子供の顔が下がっている。


「ついでに足も出ないって言いたいのかい? 確かに口だけ出てもしようがないねぇ」


「まあ、姐さん。口が出るなら舌もありまさぁ。舌先に三寸あれば大概のことはなんとかなるってのも、千古不易の道理って奴ですぜ?」


 こいつは近頃あたしのところに押しかけてきた“半夜の又七郎”とか大層な名前を名乗る仔猫のあやかしだ。不届きにもあたしの赤眼を奪おうとしたふてぇ野郎だが、あたしがちょちょいと返り討ちにしてやると、あろうことか手のひら返しに押しかけ弟子になりやがった。まったく、サジといいこいつといい、あたしのまわりにはどうしてこういう図々しい輩しかいないのかね?


「うるせぇぞ、生首どもが! 畜生、なんだって生首なんかが口を利きやがる!」


 なんて話をしていたら首斬りの旦那が怒り出した。返り血に血まみれの旦那が、怒鳴り声で鉈を振り上げる。まあまあ、切った首が悪かったとしか言えないねぇ。ちょいとこちとら育ちの悪い首なのさ。

 ああ、そうだ。サジの野郎の置き仕事について、まだ話してなかったね。早い話がこの首斬りの旦那をどうにかしてくれというお話だ。そんなもん捕り方の連中に頼めって話だが、なにぶんこの首切り、厄介なことに人じゃない。


「……畜生め。こんなやかましい生首じゃ、シャレコウベにしても喋りかねねぇ。ろくでもねぇ生首を刈っちまった」


 ぶつぶつと文句を垂らしながら歩くこの旦那、真っ赤な返り血と血濡れの鉈を除いてやれば、ちょいと見は洒落た藍白あいしろしじらの着物を着流した小粋な若旦那といった風情なんだが、月明かりの下に陰る姿をよくよく見れば「あれ?」とおかしなことにすぐ気付く。歩く旦那を足、腰、胸と下から上へたどって行けども、たどり着くべき“首”がない。


「そういう旦那の首は今はどちらにございますかい? いいじゃないですか、首がなくとも喋る旦那がいらっしゃるなら、胴がなくても喋る芸者があったって、何も不都合なことなんてないでしょう?」


 あたしがにんまりと訊ねると、首なしの旦那はあたしの首をむんずと掴み上げて、口もないのに唾の飛ぶような怒声を上げる。


「うるさいうるさい! お前の見目がこうもよくなかったら、ドブにでも打ち捨ててやるところだぞ!」


「そいつはありがたいお言葉だねぇ。しかし、こうしてまじまじ見ると旦那もなかなかの色男。どんな美男も三日で飽きるというけれど、頭の中であたし好みの顔をここに据えれば、千年毎夜の逢瀬でも倦むを知らずに愛でられるってもんでさぁ」


 目もないのにあたしの美貌に目をつけた、首なし旦那の顔を褒めてやると、そんな軽口に乗るものかと、ない鼻鳴らして旦那が言う。


「ふん。減らず口のお前の顔が、口と違って三日で減るか試してやろう」


 声だけで笑う首なし旦那が足を止めると、気付けば一軒のあばら家の前に着いていた。月夜の葦原にひっそり佇む土壁崩れのあばら家は、あたしが住んでる女郎屋崩れのオンボロ借家に負けず劣らずの風情がある。


「なかなかに立派な家じゃないかい。開けっ広げな倒れ雨戸に、ペンペン草の生えた腐れ茅葺きの具合なんかは、あたしの借家にも見劣りしない見事なもんだね」


「姐さん姐さん、そいつは言ってて悲しくなりゃあしませんか?」


 あたしと呆れ仔猫のやり取りに構うことなく、首なし旦那は粗末な筵戸むしろどを開いてあばら家の中へと入っていく。すると土間のむこうの板間の上に、布団に寝ている御人が一人。


「おやまあ、首なし旦那のともつれも、これまた見事な首なしだ」


「こいつは旦那の女房ですかい? 姐さん姐さん、連れ添う夫婦は互いに似ると聞きますが、こいつは似合いに過ぎるってもんですぜ」


 ほつれ木綿の薄布団をひっかぶってごろりと眠る御仁を足から横に見てみれば、先にあるのは藁の突き出たくたびれ枕があるだけで、どうしたことかそこに乗っかる首がない。しかし布団に覗ける首から肩への筋の流れは確かにたおやかな女の線で、なるほど仔猫の言う通り、これは旦那に似合いの女房と考えるのがいいらしい。


「ふふん。お前らの減らない口もここまでだ」


 ここで首なし旦那が不敵に笑い、枕元まであたしの首をぶら下げ運ぶ。こらこら、そんなに揺らすな。髪が引っ張られて痛いじゃないかい! 女は優しく扱うものってお袋さんから習わなかったのかい、このすっとこどっこい!


「ほら、おたえ。似合いの首を持ってきたぞ」


 そう言って膝をついた首なし旦那が、あたしの首を枕の上へとすげ置いた。するとなんだい、さっきまで寝ているように動かなかった女の身体が途端にもぞもぞと動き出し、布団の中から腕を伸ばして、あたしの頭を自分の首にごりごりと押しつけ始めた。なんだいなんだい、頭と首をくっつけようとでもいうのかい? ああ、ああ、ちょいとお待ちよ、骨が擦れて痛いじゃないかい!


「おお、おたえ!」


 あれよあれよと思う間に、天井をむいてたあたしの頭が急にむくりと持ち上がり、ぐんと視界が高くなる。あれま、本当にくっついた。あたしの頭をつけた女は身体を起こすと、首なし旦那にむき直る。


「見ろ、おたえ。新しい顔だよ」


 首なし旦那、どこからか手鏡を取り出すと、あたしの前に差し出した。そこに映るは惚れ惚れするようなあたしの美貌。女はそれを確かめるように、あたしの顔を手で触る。こらこら、いくらあたしの顔が此岸どころか彼岸の果てまで探しても、ふたつとないほどの美しさとはいえ、そんなに無遠慮にぺたぺたと触るんじゃないよ。指の脂で出来物ができたらどうすんだい!


「おお、おお、嬉しいか、嬉しいか」


 女の手に弄ばれるあたしの顔は、いささかも嬉しくない顔でむすりと手鏡に映っているが、首なし旦那はお構いなしに話をほいほいと進めていく。次の出番は仔猫の首だ。


「お前はこっちだ」


「あーれー、姐さん。お助けぇー」


 言うと旦那は続き間のやぶれふすまをがたがた開けて、情けない悲鳴を垂らす仔猫の首を鷲掴みに、ずかずか中へ入っていく。


「おやまぁ、姐さん。こっちには首なし子供がお待ちになられていらっしゃいですよ」


 旦那の背中越しに奥を覗くと、なるほど仔猫の言葉の通り、今度は十かそこらの年頃の子供の身体が、ぽっかり欠けた虚ろな首なし姿で土壁にもたれている。そこに旦那が近づいて、仔猫の首を子供の身体にぐいぐいと押しつける。


「どうだ喜助。新しい顔の具合は?」


 あたしと同じに首と身体がひっついた仔猫の顔は、むっつりと抗議の視線を送っていたが、首なし旦那は首がないのをここぞとばかりに利用して、きっぱり無視を決め込んでいる。まったく都合のいい首なしだ。


「それでなんだい? 三人で家族芝居でも楽しもうってお話しかい?」


 あたしの顔の女房と、仔猫の顔の息子を並べて、ご満悦な首なし旦那にあたしがひとつ口を利くと、旦那の肩がむむむと怒る。


「ええい、まだ口を利くか、この痴れ首め! 俺の女房はそんな下品な口を利いたりなどはしなかった」


 立ち上がって腕を振り上げる首なし旦那。あたしは「まあまあ」と旦那をなだめながら、その裾腰に取り縋って、旦那の首なし顔を覗き見る。


「それは残念至極でございます。ならば貴方さまの女房らしく、こんな口を利けばよろしゅうですかね、旦那さま」


 あたしは赤眼をきらりと光らせ、旦那の藍白あいしろしじらの着物の襟に顔を寄せると、ねやで囁く睦言むつごとのように、そっと女房の言葉を口にする。


「“この着物に匂うお香は、どちらで遊んだものかしら?”」


 するとあたしの首が宙に飛んだ。くるくる回る視界には血塗りの鉈を抜き放った首なし旦那の憤怒の姿。一夜に二回も首が飛ぶなんて、厄日な夜もあったもんだねと思っている間に、あたしの首はごとりと床に転がった。


「どうしますてぇ、旦那さま。貴方さまの女房らしい詮索口を利いたのに、こいつは酷い仕打ちじゃありませんか」


「どこで知った、その台詞!」


 ない唾を飛ばして怒声を上げる首なし旦那を、あたしの首が見上げて笑う。


「睦まじい夫婦の間に秘め事は隠せないもの。良妻の嗜みというやつですよ、旦那さま」


 あたしの赤眼は不思議な目だ。どんな秘密もこの通りに一目見ればお見通し。こんなに良妻の素養があるのに、いまだ良縁来たらずは、佳人薄幸の運命さだめなのかね。集まり来るのは奇縁、悪縁の類いばかり。ほれ、今も激高した首なし旦那が鉈を振り上げ迫ってくる。


「おい、仔猫!」


「はいはい、姐さん」


 頭を割られちゃたまらんと、あたしは仔猫に首を拾わせ逃げさせる。首なし旦那の振り回す鉈を避けて、仔猫は板間をどたどたと駆け回る。


「ええい、喜助も俺に逆らうか! お前の首もはねてやる!」


「まあまあ、そんなに怒りなさんな。それとも女房子供の首を斬りはねて打ち首になった自分の首が、どんな顔だったか思い出しでもしましたかい?」


 そうそう、つまりはそういう話。浮気がばれた癇癪で女房子供を殺した罪で、打ち首になった男の妄執が、理想の家族探しに夜な夜な人の首を斬って回っていたというお話だ。うん? いつから知っていたかって? あたしの赤眼はなんでもお見通しって言ったじゃないかい。ここまで言わないでおいたのは、知らない方が話の“引き”を楽しめるって親切さ。


「うるさいぞ、うるさいぞ、しつこい口め! こんなうるさい女房など、もういらん!」


「あはは、それで女房の首をすげ替えるたぁ、旦那もなかなか考えたもの。これでいくらでも女房相手に浮気ができるってもんじゃないか」


「姐さん、姐さん! あんまり煽ると大変なのはあっしなんですが!」


 笑うあたしの首を抱いて、仔猫はひいひい言いながら首なし旦那の横を駆け抜けると、ぴょんと土間へと飛び降りて、そのまま外へと逃げ走った。


「逃がさんぞ!」


 飛び出た先は月夜の葦原。後ろをすぐに首なし旦那が追いかけてくる。左右に茂る葦のおかげで走れる道は一本だけだが、子供の足と大人の足で追いかけっこをまっすぐすれば、追いつかれるのは当然至極。堪らず仔猫は葦原へと飛び込んだ。ありゃりゃ、こいつはまずい。あたしはすぐさま仔猫を叱る。


「あほうの仔猫! 鉈で葦を切り払える旦那相手に葦原へ逃げても、こっちが動きにくくなるだけだろうが!」


「ひぃ、そんなこと言われても姐さん、あっしだって必死なんで――ありゃ?」


 仔猫の泣きごとが、あたしの頭上を走り抜けた風切る音にぷつりと切れる。ほれ、言わんこっちゃない。目を上げれば月光に閃く鉈が血潮を引いて、仔猫の首を夜空に高くはね上げた後だった。


「すんません、姐さん! あっしの力じゃ、ここまでのようです! ご武運をお祈り致します!」


 くるくる飛んでいく仔猫の首が、途中で玉のように丸まった猫の姿にぐにゃりと変わる。そして二股の尻尾をなびかせながら、葦原のどこかへと落ちていった。まったく、使えない仔猫だよ。あとで仕置きだ、覚えときさね。


「追いついたぞ」


 そこに首なし旦那の声。仔猫の首を失って倒れた子供の腕からこぼれ落ち、葦の隙間に転がったあたしの首を、月影背負った旦那の身体が見下ろすように立っていた。


「減らず口もここまでのようだな」


 旦那はあたしの首を掴み拾い、自分の首なし顔の正面に持ち上げて嬉しそうに笑って言った。しかし減らない口を減らすには、舌から絶たねばならぬというのが百世伝来の金言という奴だ。残念ながら、あたしの口にはまだまだ舌の先が三寸以上ついている。


「さてさて旦那。そろそろあたしも観念どきという奴でしょうが、どうにもひとつ旦那にお伺いしておきたいことがございます。これを訊ねずに終わりとあっては、未練のあまりについつい化けて旦那に取り憑き、またまた減らない口を叩いてしまいそうでございます」


「しれっとした顔で喋る生首が化けて出るとはよくも言うが、これでは確かに憑かれそうだな。ふん、なんだ? 言ってみろ」


 あたしの舌からしれしれ流れる懇願に、首なし旦那は不服そうな声でそう返した。


「おお、慈悲深い旦那さま。そのご慈悲は千尋の谷の奥底に生まれた花に、一筋届く光明のようにあたたかいもの。ではでは、感謝至極にお訊ね申し上げ致します」


 あたしは感謝感激に震える顔を作りながら、旦那の首なし顔を見て言った。


「旦那さまは女房子供の首をすげ替えて、理想の家族を探しておいでにいられましたが――」


 さざと葦原が風に鳴り、あたしの赤眼がきらりと光る。


「どうして自分の首はいつまでも“から”のまま、探してこないのは、どうした理由でありましょうかね?」


 そこであたしの首が熱せられた蝋細工のようにどろどろ溶けて、見る間に違う面相へと姿を変える。


「ほら、旦那の首でごぜぇます」


 そこに現れたるは、憎悪にたぎる血走りまなこの男の狂相。手入れ知らずのざんばら髪に、絡み蔦のような乱れ髭、眉間には億千万語の罵詈雑言を書き並べた千年不磨の碑文の如きしわが刻まれ、その口からは無風無流の濁り水に澱み沈んだ汚泥にも似たよだれがだらだらと垂れている。

 どうですてぇ? と問う前に、旦那は「うげぇ」と潰れたカエルのような声を上げて、あたしの首を放り投げた。


「おお、醜い醜い。誰も自分の顔のよこしまを、愛せなどはできぬもの」


 月夜をくるくる舞いながら、あたしは男の兇貌でケタケタと、のけ反り驚く旦那を笑う。


「けれどたとえ顔がなくとも、他人の顔には自分の顔が映ってしまうが浮世の掟」


 そこであたしの首はぴたりと宙に浮き止まり、ゆらりと旦那の元へと戻ってくる。


「さてさて、どこまでお逃げすることができましょうかね?」


 にたりと笑う兇貌に、旦那は堪らず悲鳴を上げて逃げ出した。それをあたしは追いかける。


「寄るな、寄るな! そんな顔など見たくもない!」


「そいつはつれないお言葉だ。見たくなくとも付いて回るが自分の顔というものさ。捨ててしまうなんてご都合は、どうにもできないものですぜ」


 葦原を転がるように抜け出して、あばら家へと逃げ戻ろうとする首なし旦那。さてさてその行く先にさっきまでは見なかった、なにやら見慣れぬ台が現れた。はたと立ち止る旦那。そうです、よくよく御覧なせぇ。旦那にはよぉく見慣れたものがあるでしょう?


「――ああ、やっと帰ってきたか」


 そこで口を利いたのは、かつて打ち首にされて獄門台に晒された首なし旦那の生首だ。懐かしげに自分を見つめる生首に、首なし旦那がわなと震える。

 されど長年に切り別れた首と身体の再会は、感動とはいかぬもの。


「見るな、見るな、見るなぁぁぁっ!」


 狂乱の叫び声で鉈を振り上げた首なし旦那は、それを自分の生首に振り下ろす。


「――では、これにておしまいに」


 生首の呟きが、ごすっと鈍い音に潰れた瞬間に、旦那の首も身体も夜闇の中へと掻き消えた。見ればあばら家や獄門台の影もなく、残されたのはさやかな月と葦原と、そこに転がる額の割れたシャレコウベだけ。


「自分を見ずに済ますには、自分を殺すがもっとも早くにつく話。どうだい旦那? 少しは楽になれたかい?」


 あたしは手足の付いた身体に戻り、旦那のシャレコウベを拾い上げてしげしげと眺める。顔に深く刻まれた妄執も、肉をなくして骸骨おくろになれば、憑きもの晴れた綺麗な見目になるもんだ。ん? そんなことよりどこから身体が出てきたかって? 芸人に芸のタネを聞くのはご法度だって言ったじゃないかい。二度も言わすな、恥ずかしい。


「ああ、ああ、姐さん! さすがさすがの見事な手並み! この半夜の又七郎、ますます姐さんに惚れ込みましたさぁ!」


 そこにタタタと駆け込んでくる二股尻尾の仔猫が一匹。足元にすり寄って調子のいい言葉を並べる仔猫だが、仕置きを忘れないのが良きお師匠としてのあたしの務めだ。あたしは旦那のシャレコウベを葦原に放り捨てると、仔猫の首皮をむんずと掴んで持ち上げて、赤眼でぎろりと睨んでやった。


「まあ、よくもあたしを置いて逃げたもんだよ、この仔猫が。それでのこのこ戻ってきたなら、三味の革に張られる覚悟のひとつでも、つけてきたってことだろうね?」


 ぷるぷると怯える仔猫にあたしの赤眼がきらりと光る。すると仔猫はいよいよちびりそうな目でがたがたと震え出した。


「ひぃぃぃっ! 見える、見える、見えちまう! 三味にされてべんべんされる、あっしの哀れな将来が! ひぇぇぇっ! お許し下さい、センリの姐さまぁぁぁっ!」


「おお、そうかい。あたしの弟子になりたいなら、このくらいの覚悟は必要だってのは、よぉく覚えておくんだね。だったらこれで許してやるよ」


 あたしの赤眼が魅せる幻に、じたばたもがく仔猫の額をぴぃんと一発爪弾く。はっと正気に戻る仔猫。上目遣いに恐る恐ると顔色を窺う仔猫に、あたしはにっこりと微笑んでやる。


「許してやるが、お前はしばらく飯抜きだ」


「ひぃぃぃ……、姐さん後生ですぜ……」


 そんな仔猫の泣きごとも、葦原に鳴る夜風の音に舞い消える。あたしは笑いながらしょんぼり仔猫をぶら下げて、風切り肩で揚々と帰りの道を歩き出す。


「さてさて、これにて一件落着。これで文借り身分もおさらばさ」


 ふふん、サジの野郎にはめられはしたが、これでようやくあいつの貸しもなくなった。ああ、心が軽いってのは気分がいいね。あのいかがわしい狐目野郎にかかずらわずに済むと思えば、背中に羽でも生えたみたいだ。うんうん、こいつは鼻歌のひとつでも、ついつい鳴らしてしまうというもの。ふんふんふん……。

 そんな上機嫌に鼻歌を鳴らしていると、間抜けな仔猫がいらないことを口にする。


「ところで姐さん。先ほどあっしの飯を抜かれましたが、姐さんの飯代なんてのもありましたっけ? 舌の先は三寸あれば用を為しますが、袖の下は何尺あろうと振り出るものがなければ侘しいもの。どこか“あて”はあるんですかね?」


 ぴたりと立ち止ったあたしの背中に、ひゅろろと夜風が吹き荒ぶ。あたしは仔猫を顔の前まで持ち上げた。きょとんとした間抜け面が「はて?」と小首を傾げている。


「さて、どうしようかね? 猫の鍋は旨いかね?」


 見る間に血相を変えた仔猫は必死の力であたしの手を振り払い、一目散に葦原の中へと逃げ消えた。


「まったく、冗談なのに大げさな仔猫だね」


 仔猫の滑稽を笑えども、さりとて文なし身分に変わりなし。先ほどまでの上機嫌もすっかり水を差されて消沈だ。早くどこかの宴座に上って、日銭を稼がにゃ浮世の波間に沈んでしまう。


「とはいえ“あて”か……。うんうん“あて”ね……」


 そこで頭に浮かぶのは、いかがわしい狐目野郎の顔ばかり。苦虫を千匹潰しても足りない苦さに、あたしは顔をしかめてため息をつく。


「他人の顔には自分の顔が映ってしまうが浮世の掟、誰も自分の顔のよこしまを、愛せなどはできぬもの――。あたしもまだまだ見たくないものを見れるほど、人間をやめられてはいないってことだねぇ……」


 あたしの赤眼はなんでもお見通しの不思議な目だ。けれど自分の生き先ばかりは、やはりどうにも見通せぬ。

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