弐「後追い心中」

 あたしは赤眼のセンリ。芸を売って生計たつきに変える芸人さ。

 まったくこの前は差配屋のサジの野郎に一杯食わされて柄にもない功徳を積んじまったが、はてさて思いがけないことにそれでちょいとした面倒なもんが引っ付いてきやがった。


「よっ、ねえちゃん! いい踊りだね!」


 旦那の囃しに座敷に流れる三味の音。車座に座った旦那衆の合いの手に、あたしは白文鳥も鮮やかな商売道具の朱染めの扇子をぱっと開く。

 そうさ、今は宴座の真っ最中。何故って先日の稼ぎもサジの野郎にふんだくられて、残った銭は雀の涙の寒鴉かんがらす。涙も拭けぬ振れない袖の哀しさに、悔しさこらえて座敷回りの毎日だ。それでこうして今日も得意の舞芸を披露しているんだが、なんの因果かここでこのちょいとした面倒って奴が意外な活躍をしてくれたのさ。


「さあさ、旦那方。次に御覧ませますは、そこいらじゃあ“ちいと”見れない舞いでごぜぇます」


 あたしは赤眼にひと笑み浮かべ裾を払ってさっと回ると、旦那衆を薙ぐように扇子を一振り座に巡らせる。するとあたしのかわいい白文鳥の踊る朱色あけいろ扇子の後ろに続いて、滲み出るように藍色の扇子がどこからともなく現れた。さてさてこの扇子はどちらから参ったと、持ち手をたどって旦那方が目を動かすと、その先には白魚よりも透き通る女の細腕が伸びている。はてなこちらは誰の腕? ここで旦那方の目は釘付けだ。さらに腕をたどって見ていく先には、憂愁帯びた見知らぬ顔の艶女えんにょの微笑。


「これぞ世にも珍しい幽霊の影舞いでごぜぇます」


 あたしの背中に影寄るは、霞にたたずむ柳のように儚い流線の女が一人。涼やかなうなじの白線にかかる燐光りんこう帯びた乱れ髪の妖しさは、燭台の灯りに招かれ舞う夜蛾よがの如くに危うい艶気えんきを帯びている。えっ、こちらはどちらさまだって? こいつが先に言った“面倒”さ。つい先日の話になるが、くそ忌々しいサジの野郎にはめられて、街の近くに棲み付いた蛇のあやかしを追っ払ってやったんだが、そのときこいつに喰われた芸人の供養もついでとばかりに頼まれたのさ。しかしあの野郎、供養代もあたしのツケで相殺しやがるなんざ、ヤクザ者にもほどってもんがあるだろう……ってのは、こっちの愚痴だ、すまないね。で、あたしはこの哀れな芸人たちを送り火焚いて見送ったんだが、どうにも一人、なんの未練か知らないがむこうに行ってくれない女がいやがったのさ。それが今、あたしの後ろに控えているこちらの幽女という話。こいつが残ったのはいいものの、行く当てなんてないもんだから、あたしの背中にひっついてきやがった。最初は「おいおい、なんだって面倒な」と思ったもんだが、付き合ってみればこいつが意外なほどの芸持ちで、あたしとちょいと合わせてみたら、これがなかなか“さま”になる。ほらほら、今宵の旦那衆の心模様も、もうこの妖艶な幽女の色に染まったみたいだ。ああ、ああ、そこの奥の若い旦那なんざ間抜けに大口開いて見とれちまって。やだやだ妬けるねぇ、あたしだってなかなか負けてないと思うんだが……え、早く踊りましょうって? はいはい、あんたはほんとに芸人の鏡だよ。では旦那方にあたくしらの演舞をご披露致しましょうか。あたしはきらりと赤眼を光らせて、幽女と一緒に呆け顔の旦那衆に微笑みかける。


「驚きましたか旦那方。はてな、これは酒が魅せるまやかしかとお思いで? ですがかまうことではないでしょう。こちらも美人、あたしも美人。これを楽しまないのは座敷を知らない“うぶ”な旦那とお見受けだ。えっ、馬鹿にするなって? これは“粋”な旦那に失礼千万でごぜぇます。では、あたくしらのお見せする幽玄の舞、とくと御覧くださらせぇ。三味の兄さん、音を拝借」


 呼ばれた三味線弾きの芸人が、慌ててばちを握り直す。べんべんと高く弾く三味の音。そうそうこの曲、のってくるねぇ。掻き鳴る調べに身体を合わせ、あたしと幽女は軽やかに舞い始める。あたしがついと足を運ぶと、幽女もすいと足を合わせ、あたしが朱色扇子をひらりと舞わすと、幽女も藍色扇子をはらりと舞わす。あたしの腕を追いかける幽女のたおやかな細腕は残像のように影を引いて朧舞い、絡み合う二本の扇子はまるで愛を語らうつがいの胡蝶の如くに戯れ踊る。

 旦那方のため息に、あたしと幽女は口もとを小袖で隠して並び笑う。


「おみとれですか、旦那方? ですが舞はまだまだこれから。それ、あちらでも珍しい蝶がひと舞いしておりますよ」


 あたしの目を追い旦那たちが後ろを向くと、そこには一匹の蝶が飛んでいる。なにが珍しいかってこの蝶々、片翅かたはねは暮れ空の朱色のように鮮やかな赤い翅をしているのに、もう片翅は明け空の藍色のように澄み切った青い翅をしているのさ。ほう、と息を漏らす旦那方、もう少し溜めておかないとすぐに息が切れちまいますぜ? 蝶は座をひらひら舞って、朱藍しゅらんの鱗粉を飛跡に残す。そして燭台の周りをぐるりと廻ると、不意にともしびへと飛び込んで、ぼっと一瞬に燃え上がった。


「おお!」


 ほら、旦那方の感嘆の息。これじゃあすぐに息が足りなくなるでしょう? 燃え上がった蝶の炎は人の形に膨らんだ。そして燭台の上に現れたのは、朱藍の二本扇子で口もと隠す、あたしの頼れる相方だ。


「浮世の重みも切れちまった幽霊が地べたで踊るなんざぁ、無粋な話ってもんでしょう。そぉれ、旦那方に幽霊の舞い姿をお見せなせぇ」


 あたしの声にうなずくと、燭台の上に立つ相方は滑るように足を運んで空中に舞い始める。ゆらゆらと扇子を踊らせ揺らぎ舞う幽女の姿は、香木のくゆらす紫煙のように艶然と薫り立ち、足元から照る燭台のゆらめく灯りは、陰る顔に一瞬の色を与えて凄艶に幽女を彩る。さすがはあたしの相方だ。座の注目を一身に見事な舞を見せてくれるね。ほらほら、幽女の舞はさらに艶めかしさを増していき、その眼が座に流れるたびに旦那衆のほうけた溜息が漏れてくる。


「さてさて、今宵の舞はここから本番……」


 そしてあたしが扇子を開いて次なる演舞に移ろうとしたときだ。踊っていた相方の動きがぴたりと止まった。おいおいなんだい、そいつは合わせと違うじゃないかい。心の中でなじりながらよくよく見れば、相方は一人の旦那を見つめたまんま石のように固まっちまっている。うん? あいつはさっき間抜けな大口を開けて、うちの相方に見とれていた若い旦那じゃないかい。


「お冴……」


 そこで旦那がぽつりと呟くと、うちの相方が唇を歪めた。なんだどうしたと思っている間にうちの相方、薄墨のように身体をぼやかし闇にすっと消えやがった。いったいぜんたいどういう話だい。その旦那は呆然とあたしの相方の消えたあとを見ているが、もっと呆然としているのは演舞の途中で取り残されたあたしの方だ。音もなく消えた幽霊に他の旦那衆はしばらく感嘆していたが、段取り狂いで“次”がない。

 そして漂う嫌な沈黙。


「……さあ、いかがでしたか幽霊の舞い姿は! 他所では見られぬ見事な舞であったでしょう。感動をされた方はお手を拝借!」


 静まり返った座中にあたしの手を打つ音がぱんと響くと、旦那衆は我に返ったように手を叩き、口々にあたしを褒めそやす。


「やるねぇ、ねえちゃん! こんなすげぇ芸は初めてみたぜ!」


 旦那衆はやんやと囃しながらおひねりを投げてくる。あたしは内心のバツの悪さを隠しながらおひねりを拾い集めると、そそくさと座敷を引き上げた。


「いったいなんだってんだい?」


 宴座の賑わいも遠くに離れ、静けさに沈む街の外れの月夜の小道。小堀に並ぶ枝垂しだれ柳が夜風にさざと鳴き揺れると、あたしの横に相方“お冴”が滲み出るように現れた。月光に浮かぶ幽女の影は、そこに立ち止まって小堀の水面みなもにゆらりと映る月を見る。その瞳は波揺れる月と同じ、おぼろな光を湛えている。


「……あの若い旦那だろう? あそこで名前を呼んだところを見ると、家族か……もしくはあんたの良い人ってところかい?」


 返事はない。あたしはお冴の隣に立って、その視線を追いかけた。夜風が揺らす黒い水面には、あたしの影は映っているがお冴の影は見当たらない。これが“こちら”と“あちら”の境目だ。あたしが赤眼をこらして水面の裏を覗いてみれば、魍魎もうりょうどもの手招く姿が見えてくる。そしてそこにはお冴の影姿かげすがたがくっきりと映っているのさ。


「死者と生者は相容れぬ。それがこの世のことわりだ。あたしみたいな半端者なら話は別だが、あの若い旦那の幸せを願うなら、このまま別れるのが一番さ」


「……」


 沈黙に冷たい夜風が肌にすさぶ。あたしもお冴に付き合って、月夜の空を見上げた。


「いい月じゃないか」


 薄雲にぼんやり浮かぶ大きな月は、満月から一欠けした十六夜いざよいだ。まるから少し削れた月はちょいと不恰好な姿だが、あたしのような半端者にはこちらの方が性に合う。


「あたしも堅気とは縁のない浮き草暮らし。無縁の縁の切なさに、こうして夜空を眺めたこともあったさね」


 こう語りながら、あたしはこの幽霊に情を添わせる自分に気が付いた。華やかな灯りに夜を賑わす影絵芝居も、夜が明ければ陽射しの中に姿を失う。座興に舞うしか己のないこいつの姿は、宴座を求めてこの身一つで旅暮らすほかに、生き方を知らぬあたしの“さま”と大差ない。この赤眼のセンリとあろうものが幽霊に同情なんざ、まったく柄にもないことを。


「涙は流すもんさねぇ。ほら、気の済むまであたしが付き合ってあげるからよ」


 お冴がちらとこちらを向く。揺れる瞳に腫らしたまぶた。女の涙の哀しさは死人のものでも変わりはない。あたしはにこりと笑ってやって、優しくお冴の背を撫でた。

 と、そのときだ。背中に足音。振り返ったお冴は、口を「あ」と開いてたちまちに消え失せる。おやおやこいつは……。夜道の向こうから、提灯を提げた人の影がこちらに近付いてくる。


「……もし」


 提灯の灯りに浮かんだ顔は、噂の若い旦那だった。


「おや、これは素敵な御仁。あたくしになにか御用でも?」


「あ、や」


 ためらいがちに声を掛けた若旦那に向かい、あたしが素知らぬ顔で微笑み返すと、若旦那め尻込みしたか、声をどもらせ視線を下げる。用向きなんざわかっているが、敢えて訊くほどの義理はない。それに今さら会ったところで、互いに不幸を知るだけさ。あたしは赤眼を冷たく流す。


「こんな夜道で無用の声掛け、つまらない誤解を生みますぜ。近頃の夜道にはか弱い女性をかどわかす不埒な輩も多いとか。用がないならあたしはこちらで失礼を」


 ここはすれ違うのが互いのためと、あたしはすげなく手を振って、この場を去ろうと踵を返す。と、そこで若旦那の手が伸びた。


「待ってください。どうしてもお訊きしたいお話が」


 伸びた手があたしの着物の袖を引く。なまっちろい顔をして、なんだいけっこう大胆じゃないかい。おいおい、そんなに引っ張るな。あたしの大事な一張羅が裂けちまったらどうしてくれる。そんなあたしの迷惑顔なんざ気付かぬほどに、若旦那は鬼気とした形相であたしに迫る。


「私は先ほどの宴座であなたの芸を見たものです。あの幽霊についてお訊きしたいのです」


「なんだい、さっきのお客さんかい。ですが芸人に芸のタネを訊ねるなんて無粋な真似はおよしなさいな。芸のタネは飯のタネ。それを訊かれて答える芸人は、芸事の道の覚悟を知らない半端者。それはあたしには答えられないね。だからその手をお離しなさいな」


「それでもお訊ねしたいのです。あの幽霊の顔は見紛うことなく私の愛するお冴のもの! これにお答え願えなければ、この手は決して離しませんよ!」


 ああ、ああ、あたしの冷たいあしらいもまっすぐに跳ねのけて、この若旦那はっきりと言ってのけてくれやがったよ。まったくやんなるねぇ。二人の仲は思ったよりもお熱いものであるようだ。こうも想いをぶつけてくれる良人に巡り逢ったは女の生涯の幸せだろうが、生死を隔てたこうした二人の再会が、幸せなものにならないなんてことは万古不変の決まりごとだ。諦めてもらうしかないんだが、さてさてどうしたもんかねぇ……。


「……て、おいおい!」


 あたしがちと思案に黙った一瞬だ。月影を乱すようにすっと白い影があたしの視界の端に現れた。そして若旦那の叫び声。


「お冴!」


 目を丸くするあたしの横に現れたのは、愁いを帯びた揺れる瞳で若旦那を見つめるお冴だった。こいつめ、この旦那の想いを聞いて我慢できずに出てきたな。まったく情愛ってのは思うにまかせるものじゃないってことかい。こうなったら仕様がない。どうなっても知らないよ。


「……お冴」


 ぽつりと呟き若旦那が手を伸ばす。けれどわなと震える旦那の右手は想い人の頬をすり抜け、哀しく虚空を掴むだけだった。


「本当にお冴なのか? いったいどうしてこんな姿に……。お前は死んでしまったのか?」


 コクリとうなずく女の眼は悲しみに伏せている。触れ得ぬ肌を求めて彷徨う男の手が、その輪郭を思い返すようになぞっていく。


「お前が突然に姿を消して以来、私はお前を探し歩いてこの街を……そして今日この夜。なのに、こんな姿のお前と再会するなんて……」


 若旦那の眉が苦渋に陰る。受け入れがたい事実の前に沈む想い人の流す涙に女がわずかに唇を開く。しかしそこからは言葉にならない息が漏れるだけだった。男はそんな様子の女にすがるような視線を向ける。


「……どうしたお冴。どうして声を聞かせてくれないんだ。触れることも叶わないなら、せめて声だけでも聞かせてくれないか?」


「若旦那。あんたの愛するお冴は、もうこちらの住人じゃないんだよ。生者と死者は相容れぬ。言葉は交わせぬ道理さね」


 見かねてあたしが代わりに答える。だからあたしは止めたのに。死んだと知るなら会わないままに済ませた方が、よほどに残したもののためになるものなのさ。


「ああ、お冴。もうお前に触れることはおろか、声を聞くこともできないのか」


 若旦那の膝が折れ、その声は絶望の色に沈む。しかし慰めるように伸びた女の手は、ぬくもりを届けることもできずに男の身体をすり抜けるだけである。ああ、ああ、言わんこっちゃない。それでこの先どうするつもりさ。……なんだいその眼は。あたしになんとかしろだって? ダメだダメだ、これはあたしの忠告を聞かなかったあんたの責任……え、あれだけ仕事のお手伝いをしてあげたのに、だって? センリの姐さんは義理にも人情にも薄いお人だったのね、だと? ……あんたもなかなかしたたかだね。わかったよ、そこまで言われちゃ仕方がないね、一肌脱いであげてやるよ。ほれ、こっちに来な。


「……佐吉さま」


 若旦那が顔を上げてあたしを見る。そこにあるのは驚きの顔。その声はあたしのものであってあたしでない。その声音に覚えがあったか、若旦那は戸惑いとともに問いただす。


「お冴……?」


 あたしの姿に重なり合う女の影が月明かりに浮き立った。若旦那がまなじりを開いて立ち上がる。そしてお冴の霊を憑依したあたしの身体を両手で抱き締めた。


「ああ、お冴!」


「佐吉さま!」


 “お冴”となったあたしの身体が“佐吉”の身体を抱き返す。合意で身体を貸してやったとはいえ、知らぬ男にいきなり抱きつかれるのは、ちいと嫌なもんだねぇ。あたしはそんなに安い女じゃないんだが……。まあ、それでも心に伝わってくる想い人に抱き締められた女の喜びってもんは、他人のものとはいえ悪いものではないもんだ。


「お冴、こうして君を再び抱き締められるなんて……。ほら、もっと声も聞かせておくれ」


「はい、佐吉さま。あたくしもこのように佐吉さまと再会できるなんて、夢にも思っていませんでしたわ」


 そして恋人たちは思いがけぬ束の間の邂逅に時間を惜しんで言葉を交わす。え、どんな会話をしているかだって? 甘くも切ない言葉の数を、いちいち聞くほどあたしだって野暮じゃない。無粋なことは聞くもんじゃないよ。


「……」


 やがて交わす言葉は減り、月の影も傾きに長く伸び始める。夜風に揺れる柳の下に寄り添う恋人たちは、小堀に流れる水のかすかなせせらぎを聴きながら、幸せのまどろみを惜しむかのように無言で互いの手を握り締めていた。


「……ああ、ずっとこうしていられたらよいのに」


「それはまことの言葉ですか?」


 不意に口を開いた佐吉の言葉に、お冴はその顔を覗き込む。


「もちろんだ。お冴、お前と一緒にいられるならば、私は修羅にでも堕ちるつもりだ」


「ああ、佐吉さま。本当に嬉しいお言葉! ……ですがこの身体はあたくしを哀れんでくださったこの方の情けで借りているもの。このまま一緒にはいられないのです」


 喜びも一瞬にお冴は顔を曇らせる。お冴には悪いがそいつは当然だ。いくらあたしがお人好しだからって、一生を貸してやるほどの義理はない。たとえお冴が悪心を起こそうと、あたしの方が力は上だ。追い出そうと思えばいつでも追い出せるなんてことは、お冴にだってわかっている。だからそれは無理な話。あんたが修羅に堕ちたってあたしの知ったこっちゃないんだよ。


「いや、なにか方法があるはずだ。お前と再び会えたこの奇跡のように、ともに暮らせる術がどこかにあるはずだ」


 未練を膨らませた佐吉があらぬ期待を抱き始めた。こう収拾がつかなくなるのが、やっぱり人間の情欲なのかね? これはそろそろお暇の時間だね。ほらほら、早くこの若旦那を説き伏せてこんな未練なんざ断ち切ってやんな。


「……ひとつだけ方法がございます」


 ところがお冴の口から出たのは、あたしの求めとは反対の言葉だった。


「本当かお冴! それはどんな方法だ?」


 当然に佐吉は身を乗り出して食いついてくる。おいおい、どういうつもりだ? これは嫌な予感がしてきたぞ……。


「その前に……先のお言葉、嘘偽りのないまことのお言葉であったのでしょうか?」


「なにを疑う。もちろん本心だ。誠心からの真心まごころだ。どうしてそんなことを聞く?」


 伏し目にうかがうお冴に向かい、佐吉は胸を張って答える。それを聞いてお冴の眉が明るく開いた。そして佐吉の手を引いて立ち上がる。


「ああ、よかった。もちろん信じておりました。あたくしの心は佐吉さま、あなたさまだけのもの。ではこちらへ」


 そして小堀の側へと佐吉を連れていく。黒い水面に二人の姿が並んで映った。


「さあこちらを覗いて」


「うん?」


 そう言って佐吉を小堀の縁に立たせる。そのときあたしはおののいた。黒い水面に映るあたしの顔に重なって、お冴の霊の喜色に満ちた顔が見えたのだ。


「さあ、ともにまいりましょう」


「あっ」


 短い声が出た。お冴め、佐吉に抱きついてそのまま小堀に押し倒しやがった! いやいやいや、あたしの方が「あっ」だよ! ちょっと待て、どうしてあたしごと落ちるんだい! 混乱している間にも冷たい水が一気にあたしの身体を浸し、がぶりと水が鼻と口から入り込む。あたしはあわててお冴の霊を身体から叩き出した。ええい、畜生め。佐吉の腰にがっしりと手を組んで抱きつきやがったな! 必死になって手を解くが溺れる佐吉があたしの身体をでたらめに掴みにかかる。ええい、邪魔するな! あたしの肘が佐吉の頭に突き刺さると、佐吉の身体ががくんと沈んだ。そのままあたしは佐吉の身体を踏み台のごとく蹴飛ばして、水面へと急ぎ泳ぐ。


「ぷはぁ!」


 死に物狂いで泳ぎ上がり、小堀の岸に上半身を預けると、お冴の霊があたしの横を通り抜けた。振り返って赤眼をこらし水底を覗けば、沈む佐吉の身体に魍魎どもと一緒になって絡みつくお冴の姿が見えた。苦悶の佐吉の顔とは対照的な、幸せにうっとりと浸る女の顔のお冴の姿が。


「……はあ」


 なんとか岸に這い上がったあたしはすっかり力が抜けちまって、ため息をひとつつくとその場にふらふらとへたり込んだ。


「まったく、やってくれたもんだね、あの女は」


 疲れちまって恨み節もこのぐらいしか出てこない。しかし、ここまで来ると恨み以上に感心もしちまうから不思議なもんだ。ここは死んでも情念を燃やせる良人に出会えた女の幸せを祝うべきか、そんな女に出会ってしまった男の不幸を憐れむべきか。


「へくしっ」


 それはともかく早く身体を拭かないと風邪を引いちまう。ああ、一張羅の衣裳がびしょ濡れだ。


「あたしの身体と懐をあたためてくれる、あたしの良い人はいったいどこにいるのかね?」


 あたしがそう呟いたとたん冷たい夜風が吹きすさび、雲が月を隠しちまった。夜闇の中であたしはふてくされ、片膝立てて頬杖を突く。

 まったく、ツキのない夜だ。

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