第2話
それは、餌木さんと接触するのが億劫で、なんとなくずるずる、結局あの決意を先延ばしにしていた矢先の出来事でした。その日はなんだかとても早く目が覚めました。まだ窓から見える空が淀んだ青をした、明け方でした。きっと既に体がいつもと違う空気や音や温度を感じ取っていて、安眠できなかったからでしょう。朝はとても好きなので、その時だけは、まあまあラッキーだな、こんな時間に起きられて……そう思って、もぞもぞと体を起こしました。この時間にしかありえない明け方の青色が、部屋のいろんなものを染め上げているのを、眠たい頭と目で見ていました。青は、この部屋にあるはずないものも染め上げていました。そのシルエットに気付いた瞬間、破茶滅茶に心臓が跳ねて、全身に鳥肌が立ちました。言葉にできない怒りも湧きました。不思議と、一瞬起こった恐怖や驚きも怒りにすぐに染め上げられて、頭には純粋な怒りに由来した高ぶりしか残りませんでした。ベッドから直ぐに飛び出して、それに馬乗りになり、力一杯首を絞めました。ある程度想像できたというか、予測の範囲というか、完全に意味のわからない現象ではなかったので、自分じゃないみたいに冷静に、その不慮の事態に対処できました。
……てめえ、いい加減にしろよ。
とても静かに、言いました。みんなを起こしてしまうからです。馬乗りになっても、首を絞められても、それは全く抵抗しません。朝というには早すぎる空の光にぼうと照らされたその顔は、心底いらいらさせる、気味の悪い恍惚としたような表情を浮かべていました。首から手を離すと、抵抗しなかったとはいえ流石に、それは大きな咳を繰り返し、体を跳ねさせました。咳が静まる暇も与えず胸ぐらを掴み上げて、合わせるのも嫌な目を睨むでもなく、ただ、見つめます。涙をためた目をして、咳の合間に、シャールくん、と言いました。喉がいかれたみたいな、か細い声でした。そもそも、これとは何も話す気がありません。何もかもがカンに触るので、胸ぐら掴みあげるのもやめて、馬乗りもやめて、立ち上がって、寝たままのそれの襟首を掴み直してドアまで引きずりました。まって、っ待って、まって……ッシャールくん……。そこではじめて抵抗しだして、それが思いの外強い抵抗で、掴んでいた服を離してしまいました。それは這いつくばってドアから反対側の壁まで逃げましたが、そのままその壁の方向に追い詰めて、それの腹に蹴りを入れました。壁に体を打ち付けて、それはしな垂れるように床に伏せました。あまりドタバタやって人を起こすのが嫌で、これに大声出されたくもなくて、いやに冷静な頭で、シャールはしゃがみこみました。それは、顔をあげて、懇願するみたいな表情で、シャールを見ました。
「……シャールくん…好きなの……すごく、どうしようもないくらい、好きで、シャールくんのことしか、考えられなくて、」
続きがあるように聞こえましたが、イラっとしたのでその口を手で塞いで、そのまま顔を力を込めて掴んで、すみません、今後僕には敬語で喋ってもらえますか。そう言いました。それは掴まれて歪んだ顔でこっちを見て、直ぐに頷きましたが、何度もこくこくと頷くのを待ってから、手を離しました。それでも治らない苛立ちは、どうすることもできません。それは、あろうことか、泣き出しました。
「…シャールくんの全部が好きで、シャールくんに、何でも、してあげたいんです、……邪魔したいわけじゃ、ないの、本当に、シャールくんの為になりたいんです……本当なんです……」
反吐が出るな、そう思いました。何も言ってやる価値がないと、思いました。理解もしたくない自分勝手な感情で今ここにいるんだろうな、それを思うと、何故ここにいるのかなんて聞きたくなくなりました。もう一度襟首掴もうとすると、それは身を引いて、いや、嫌、そう言いました。被害者ヅラにカチンときて、ほとんど反射的に、横っ面をはたきつけてしまいました。それが身につけていた眼鏡が、落ちて、より大きく、しゃくりあげて泣き出しました。
「…ごめんなさいっ……、ごめんなさい、ごめ、なさい…、どうしても、シャールくんの為になるなにかにっ、なりたいんです、……ッシャールくんの為に何かしたいんです、…今、逃したら……もう…シャールくんに、…何もできなくなっちゃうぅ、……だから…お願いしますっ、…追い出さないでください…何かに使ってください、なんでもいいんです、何かに使ってください、シャールくんの何かにしてください。お願いします…、おねがいします」
眺めていたら、土下座まで始めたので、髪の毛を引っ掴んで、顔を上げさせました。そのまま部屋の外に出すつもりで目も合わせずに立ち上がろうとしましたが、体にまとわりつくみたいに縋られて、涙がつくのにもその図々しさにも嫌悪感が湧き上がりました。けれど自分から何か大きな行動するのが心底癪で、振りはらいもしませんでした。おねがいします、お願いします、もう、お願いしますしか、いわなくなりました。縋られているこの姿勢のまま、動くのがめんどくさかったので、腕を組んで、少し考え事をしました。先ほどより明るくなってきた窓の外を見つめて、くしゃくしゃの白いベッドのシーツを見ました。どこか諦めがありました。このタイプの人間を突っぱねることに、限界があることにはすぐに思考が至りました。本当にゴミだな、理解に苦しむな、と思いました。なんでこいつが泣いてんだろう、ひっくひっく言いながら泣いている姿を一瞥して、余計にイライラしました。けれど本当にどうしようもないと判断できました。多分こいつは、ここで無理矢理外に出したところで無害化しないのです。理不尽でした。みんなに対してこいつを晒し上げて、空気を悪くすることも、できれば避けたいのです。みんなバカかつ、平和が一番だからです。こんなに自分に尽くす尽くす好き好き言う人物なんて、いないし、利用価値は、なくはないのですが、いかんせん本当に、この自分勝手な行動の数々に、もはや顔を見るだけでイライラして健康を害す域まで達していました。自分の時間やペースや価値観を侵食されることが、なによりも、なによりも、なによりも大嫌いなのです。腹をくくりつつ、自然と、舌打ちしていました。
餌木さん、ごめんね。痛かったですか?
頭を引っ掴んでベッドの上に誘導して、座らせました。その横に座って、頬を顎側から引っ掴んで、こちらを向けさせました。
これからは餌木さんを避けないで、一緒にいろんなことしてみようかな?って気になりましたよ。
こんなに表情筋を使わずに話すことなんて滅多にありません。ため息をつきました。こいつがどんな反応してるかも、見たくありませんでした。一応顔を向けてはいましたが、めんどくせえな、それしか考えられなくて、この世の全てが遠い、自分とは関係のない出来事になりました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます