第15話

ザインのことは帰ってきてからしばらく見なくて、それなりに心配していました。自分は自分で人生が揺らいでるし、今も今で切迫しているし、混乱している最中でしたが、ザインはもっと混乱しているんだろうな、許せないし、顔合わせしたいわけじゃないけど、心配だと、思うのでした。100パーセント顔合わせしたくないわけでは、ないということです。自分が朝帰りした日にすぐ、書き置きでザインがひじりのところで治療を受けている旨を知ったので、生きているかどうかが心配、とまでは言いません。ただ、心配でした。あの時のザインの切迫した顔を思い出しては、どうすればよかったのか考えてしまいます。何度もどうすることもできなかったなという結論に落ち着くので、考えないほうがよかったのかもしれませんでした。ある時、ザインはふらっと帰ってきました。その時ウスルはひとりで居間にいました。玄関のドアを無頓着に閉める音と、少し早足な足音を聞いて、それがザインだと気付いて、心臓が段々とうるさくドキドキしてくるのを、焦る気持ちでなだめようと少し早い息を吐きました。居間に入ってきたヘリオは別に悪い顔色しているわけでもなく、むしろ、以前より健康そうに見えました。調子はどうかと聞くまでもなさそうでした。入ってくるなり、ウスルをじっと見つめました。あんなことがあった後の、初めての対面でした。マスクで顔の半分が隠された得体の知れなさと、艶やかな青い髪と赤い腕の対比は、今まで通りの威圧感を持ったままです。なんとなく懐かしく見えました。なのに新鮮にも見えました。自分を違う世界に閉じ込めてたように思えた数時間と、一晩の間に、ザインと今まで絶対に交わることのなかった何か通じたような、それでいて途方もなく離れてしまったような感じがしました。ザインは何か言おうとしているように見えました。マスクで表情はよくわかりませんが、なんとなく、ウスルに何か言わなきゃと思っているように見えました。言おうじゃなく、言わなきゃと。そしてザインはウスルに近付いて、ウスルに対して身を屈めて、ウスルを抱きしめました。ウスルは近づいてきたザインを無意識的に避けるみたいに動いていましたが、ザインには人を逃がさない不思議なプレッシャーがありました。ザインは動きませんでした。ウスルは抱きしめられたまま、午後の薄暗い部屋に漂う埃を見つめて、時間が止まっていないことを確かめるしかできませんでした。

「悪いことしたとは、思ってないよ。」

マスクでくぐもっていたからか、その言葉を理解するのに一拍必要でした。理解できてからもなんて返事すればいいかわかりませんでしたが、返事を待つでもなく、ザインは体を離して、名残惜しそうにすることもなく、部屋を出ていきました。しばらくは、唖然、と、少しぽかんとしていました。そのあと、もやもやしました。謝ってもらいたかったわけではなかったのですが、その言葉で許せないけど寂しい気持ち、寂しいけど許せない気持ちみたいなのが湧いてきて、ひとりでなんとなく目を伏せて、そのまま居間のソファに座って、少しの間じっとしていました。ザインの体温が体に残っている気がしました。抱きしめ返すべきだったのかもしれません。ザインの体温以外の何かが、しこりみたいに残りました。それから、午後の曇り空の暗さがそのままの色のない居間に、ずっとひとりでいました。自分がどんな気持ちなのかわかりませんでした。言葉はあんなだったのに、今までで一番ザインの気持ちがわかった気がしました。なのに、ザインが遠くに行ってしまったような気がしました。帰る場所がなくなったような気持ちになって、初めて抱きしめられたのに、これからの自分の人生のことがすごく不安になりました。最初に帰る場所がなくなったような気持ちになったのは、ザインの方なのかもしれません。もしかしたらふたり、おそろいの気持ちでいたのかもしれなかったのに、ふたりはその日、もう一度は話をしませんでした。次に話をした時には以前みたいに話せました。別にこんな雰囲気を引きずったりは、全然していませんでした。どう引きずればいいのか、分からなかったからです。ザインは元どおりになったようでした。ザインには、帰る場所かその候補が、新しくできていて、だから少し健康的になった、そんなふうに見受けられました。けれど自分には、きっと帰る場所はありません。変わってしまった自分を納める鞘など、きっとこの世にはありません。これが、ウスル自身が何によって、どう、変わってしまったのかに、自身により思い至る直前の思考でした。

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醒めない夢では眠れない 杓井写楽 @shakuisharaku

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