第14話

起きて視界に飛び込んできた車窓は、夢の中に陥没しているみたいに真っ黒でした。影が蠢いているみたいにも見えたので、寝過ごしたかという軽いパニックをはねつけてますます大きな、「こわい夢がきた」パニックに襲われました。いつものやつ、まずい夢に引き摺り込まれて、バスと自分だけこわいところに取り残されたと思いましたが、すぐに車窓に滑り込んできた昼っぽい、まばゆい日差しに照らされました。それはそれで正面から天国がやってきたか、バスが天国に差し掛かったようにしか見えず、意識がうつつに浮上したとは言えませんでした。真横で「大丈夫ですか」と声がしました。その声の主が判別つかなくて、今度こそ一番びっくりして結構な声を上げてしまいましたが、大丈夫ですかの主はシャールでした。シャールは驚かれたことに驚いたと言いたげに、重たげな睫毛をぱたぱたさせて、何度かおおぶりな瞬きをしました。その顔にちょっとばかしむかつきました。むかつきは現実の感情で、ウスルはなんとなく安心しました。生々しくもなんともないからりとした感情でした。いつも多少生意気にしていて、生意気の土台に、整然とか役割とか気だるさを用いて、しかめっつらしている現実の自分が、やっと憑依したので、ここで会ったのがこの人で幸運だったと思いました。けれど一応ウスルの口をついて出た言葉は、「なんだあなたか、」でした。つかの間の闇は空間の埋没ではなくバスがトンネルを通っていただけで、光はまぎれもなくこの世の陽光でした。ウスルが居眠りしていた間に、どこかのバス停から乗り込んだらしいシャールは、珍しくウスルの姿を認めて、これまた珍しく寝ている顔を眺めていたと言います。そしたら家の前を通り過ぎてたんで、バス道もう一周しましょう、そう言って、腑抜けていることが唯一の害ですよと媚びるみたいな特有の笑みを浮かべました。とりあえず、ばかか、と言葉に出さずに顔に出しました。考えてみればますますこの人で助かりました。ひとりであそこに戻るとなると、弱々しくしおれた自分を自分で通常の水準に引っ張り上げてから、家のドアを深呼吸とかしてから頑張って頑張ってくぐらなければならなかったところですが、シャールを介してなら、比較的容易に外の世界に順応できそうでした。最悪この人達の家に遊びに行けばいいのです。先ほどの無言のばかか、だって、そんな短い文句ですら声に上手く出せる自信がなかったから、出さなかったのです。とりあえず本調子でない部分は、眠たいから、バスに酔ったから、仕方ないんですよ、というポーズをしておきました。シャールはウスルが窓の方を向いていても、それがうずくまる寸前のように外界を排除した姿勢であっても、勝手に色々なことを話しました。この男が人の話を聞かないのと同じくらい、この男は人の行動を顧みません。シャールが乗り込んだというバス停は「池底湖」と言って、広大な湖が延々と伸びているように見えて、よくよく見るともやの先に、親身に迫る対岸の街の光がデコレーションのようにそっとちらつく、可愛らしい場所だとのことでした。広大な湖が延々と伸びているのは錯覚ではなく、氷に覆われたように波打たない水面が、街を小さいままに近くに引き寄せるのだとシャールは言いました。「寒々しいっちゃ寒々しいところなんですが、そこから見えるきらきらの街は、僕の掌に乗っかるくらいに見える。握れるくらいに見えてくるんだよ。」この男が人の行動を顧みないくらい、この男は人目を気にしません。そこで何をしてたか短く問うと、散歩してたと返答がありました。普段何してるのか短く問うと、散歩してると返答がありました。窓じゃなくてシャールを見ると、シャールは「ウスルくん今日遊びにきたら?」と言いました。





ウスルの家は、グレブからウスルへと、正確には餌木を中心とした6人の小隊の様なものへと、この世界での住まいとして譲られたものですが、シャールやグレブが住んでいる住まいと触れるくらい近く並んで建っていて、彼等が完全に立ち入らないわけではありません。ザインや餌木は彼等を招き入れることに躊躇がありません。ウスルもそれを楽しんでいないわけではないのですが、ザインや餌木と、ウスルには決定的な感覚の隔たりがある様に思えます。「プラットリンバンサイテス」というバス停から、急な上り坂をちょっと登った先にある平地に、その二つの家はあります。どちらも家というには大きいですが、この世界の宿泊を目的とした建物は大抵、多数の人間が利用することを想定して建てられているとグレブが言っていたので、いわゆるこれは、ホテルとか、ペンションに該当するものなのでしょう。生白い日の光を背負って、ウスル達の住まいとシャール達の住まいが、対照的に立ち並んでいました。ウスル達の住まいは洋館と言って差し支えありません。手間とか、見栄とか、価値とか、思い出とか、歴史とか、苦労とか、そういう豪奢なもので身を武装して、身を守っています。ウスルにはそういうものが、寄生虫に見えました。今は、自分が寄生されている、それを知っていました。こういう寄生虫は、宿主に殺されることもなく、否が応でも守らせて、宿主から人生を搾取して、宿主が死んでも宿主をとっかえひっかえして、ずっとずっと生き続けるのです。洋館は、肥え太り過ぎた重々しい存在感で、ウスルに影を落としていました。そちらの選択肢を見上げるウスルをそのままに、シャールは、「お手洗いに行きます」と言って、とっとと無機質な方の住まいに向かいました。ドアを開けようとするシャールは振り向いて、あとでおいでよ、と添えて、ドアの向こうに消えました。シャール達の住まいはなんというか、箱が積み上がったみたいになっていました。基礎の建築はそれはそれでどうなっても構わない、そんな適当な意思で上と横に少しずつ、増築を繰り返したみたいでした。けれど、乱雑ではありませんでした。洋館の真横に立っているには釣り合わないくらい素っ気なく、とにかく四角く整えられていたからです。窓だけが箱と箱の区切りを匂わせた、巨大な箱、それがシャールの家の印象でした。ウスルの洋館と大きさは変わりませんが、12人で住んでいるとのことなので、妥当な大きさなのでしょう。似てない兄弟みたいに寄り添う、同じくらいの建物と建物は、そのときのウスルの選択肢が具現化したものに見えました。弱さを自覚したウスルにとって、洋館はより自身を苦しめるものでしたが、それとは別に、シャールの家には遊びにいかないことに、ほとんど決めていました。シャール以外の他人と、話す元気がないのと、なんとなくですが、ザインに会ったとしても、無視して早足に自室に向かって鍵を閉めてしまえば今日は今度こそ終わるという気がしたからです。そうして今日をさっさと終わらせてしまいたいくらいに疲れました。真昼間かもしれませんが、ここがウスルの長く、長く、あまりに長くて出口なんて想像もさせなかった、「今日」の終わりなのでした。

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