第13話


ウスルの返事を待つこともなく、机の下の互いの膝が触れて、それは奇妙な熱を帯びて擦れました。奇妙なくすぐったさにウスルがびくりと体が震わせたと同時に、ラバランから、意地の悪い含みのある、けれど押し殺しているみたいに品のいい笑い声が漏れました。帰路やこの世界の話をする親密な穏やかさにウスルが絆されていた時から、震えで触れてしまうほどに近くに、互いは存在しあっていたのです。わずかな接触さえ初めてのことであるみたいにうぶに体が跳ねましたが、それは、昨日のことがこびりついて、しんもたいも支配してはびこって、そうさせているのです。ウスルには、ここで焦って下手に動いて離れることをしたら、何がとか言いませんが、かえって自分側へなだれ込んでくるように思えました。そうして動けないウスルの頭の片隅には、いやに分析的に、ラバランがウスルの内なる混乱を承知した上で膝を触れ合わせたこと、ラバランがウスルの聴覚に笑みを拾わせるためだけに笑みを声に乗せたこと、どれもこれも図ってのことだという理解が生まれていました。かといってそのあざとさに何かを申し立てる余裕はないし、この感覚を「とある形」で受容している自分には、申し立てる余裕がない以上に資格がない、それをウスルは苦い唾を飲むように確かめました。ラバランはウスルの内側の艶やかなだらしなさ、自縄自縛で成形された自我、そういうものをしかと認識しています。不思議なことに、ラバランがそういうものをどこらへんまで認識しているか、ウスルにはなんとなくはかりしれます。ラバランの目を介してラバランに伝達されたウスルの心象が、もう一度彼の目を介してウスルの認識に照り返すのです。その感覚は新鮮なもので、この世に同調する波長の存在しない音叉、いや、何かに同調する目的なんて一点もなかった鉄の塊が、ない筈のその音の振動にびりびりと軸を震わせたような、むず痒さを残しました。ラバランの言動全てに準ずる以外の選択肢がほとんど暴力的に奪われていて、ずっとずっと机のみだった単調な視界の左端に黒い影がよぎった矢先、さらさらとして、しっとりともした革の肌触りが首の左を伝い、左頬に手がかかり、反射的な拒絶も許さない恐れのなさで、ウスルの顔をラバランの方へ向けました。ウスルの視界は机の中にはいられなくなりました。青い舌がせりだして、上唇の形を少しずつ変えて舐めなぞるのが一瞬、にしては止まったみたいにゆっくりと、ゆっくりにしてはわずか過ぎる一瞬、ウスルの目を奪いました。

「私が、君を買い上げてはいけない理由なんて、ありませんね。」

身震いするような青さと、やわらかな筋の凹凸に張り付く照った質感は、名残惜しいほど早急に口腔に秘められましたが、秘められたまま、ラバランの唇と歯列が紡いだ言葉に成り代わって、ウスルのはしたない内情に纏わり、寄り添うようになりました。





まだぼーっとしている頭のまま、ウスルは教わった通り、外界前からクラストへドアというバス停に向かうバスに乗りました。他の乗客はいません。この街で朝にバスに乗ってどこかに行く人はそうはいないことも、教わっていました。この先にある一万堂というバス停で、人が乗り込むかもしれないけれど、朝なのでそれもまばらでしょう、ともラバランは言っていました。ウスルはこの街にやっと背を向けることができましたが、いろいろなものをそのまま連れ立って、その身は重みを増して感じられました。少し埃で曇ったバスの窓に隔てられて、街は急に他人事みたいに「向こう側」に行ってしまいました。向こう側に佇む、ネオンの消えた門、鉄の塊に看板を打ち付けたみたいなそれのどこにも、昨日の面影は見当たりません。落ち窪んだみたいに真っ暗で、汚い水溜りがネオンでつやつや、ギラギラとして、光り輝いていた昨夜の街は今、すべてが白けて茶けて、皮が剥けた古木みたいな姿に変わり果てていました。この街が見ていた夢に巻き込まれたみたいな心地がします。乾いた空気に咳払いをして、自分の声に少し眉をひそめると、この退廃においては、生きているのが自分だけだという気がしました。するとやっとこさ、長く長く張っていた緊張の糸がぷつんと切れたみたいになって、大きなあくびが出ました。バスは一時的にエンジンを切って停車しています。このバスが出発してしまったら、ここには二度と来れない気がしていました。あまりに焼き付けることが多かった所為で、目が覚めてみたらあまりに枯れ果てている所為で、この街は自分が焼き付けることをしなくなってしまえばそのまま消え失せてしまうような危うさを持っていました。バスのエンジンがかかる音がして、この先停車するバス停を羅列するアナウンスが流れました。アナウンスの声を聞くと、記憶の中のラバランの声が、アナウンスの声と同調して、先程までのラバランが思い出されると共に、あのときに思い出した、思い出すことを強いられた全てが、いろんなことが、青い舌がウスルにそうするみたいに、感覚を占拠しました。出発したバスの窓からずるずるとずれ込んで、知らない彼方へ滑り落ちていく記憶の街を見送って、ウスルは目を閉じました。





あの青い舌は、いろんなものに成り代わって、ウスルの、艶やかでだらしない、糸の引きそうな鬱憤の塊を撫で上げ、その度にウスルは、抱ききれないほど多いのに、それに一つも届かない、そういうものに触れようとして、やめるような、千切れそうな切なさに襲われました。その青色はウスルの知るいかなる動物の体の一部とも似付かわず、記憶の中のラバランを、いかなる動物とも一線を画した何かに仕立て上げました。ウスルの心を住処にした青色は、よく似た色相の青を媒介に、いとも簡単に蘇ります。そして毎度、多かれ少なかれ取り返しのつかない、初めてその身をウスルに翻した、あのシーンを明滅させます。肉の限界まで張り詰めたペニスの先の、花びらに薄いゼラチンが張ったみたいなあまい色と、精々するような真っ青。あれは、自身の目が知覚していたものではないと、ウスルは本気で思いました。あんな色を知覚できる受容体が、肉体にある筈がないのです。泥のような欲望を、直に操作され動けないでいるような、中毒性のある無力……。

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