第12話

その言葉の意味が、ウスルにはわかりませんでした。ウスルにとって、自分の耳で聞いた自分の人生の一部じゃないみたいな……自分の方へ幾分かはみ出過ぎているような聞き慣れない表現でした。“君が欲しい”ウスルは、知らない他人に対するものならかけた迷惑や被った迷惑くらい忘れられる、と言い聞かせながら、断られることも適当に流されることも覚悟の上で、“また会いたい”、そう自己主張しました。本当に何も期待していなかったのです。なんとまあ度の過ぎた表現だと思えましたし、騙そうとしているのか、はたまた趣味の悪い冗談でからかわれているとしか思えなくて、自嘲のように、笑顔のなり損ないのように、口引き攣りそうになりました。ラバランの方を見ていなかったので、幻聴だと思えなくもないのですが、少し顔を上げてラバランの方を可能な分だけ確認すると、少々のパニックの中でも、とにかく、とても真剣に聞くべきだと理解できるような表情と空気を、していました。少しひやりとしました。“君が欲しい”この人はこんな顔で、こんな表現ができる人なのです。というか、する人なのです。昨夜の買春男を殴り殺したあの冷ややかな表情が思い出されました。あの時感じた、この男の行動原理のあまりにシンプルで無垢な構造。欲するものは手に入れる、それしか想定していないことを感じさせる葛藤のなさ。いくらウスルであっても、自身が欲されていることを納得するしか選択肢を残さない冷酷さ。ウスルは今更、足を踏み入れてはいけないところに来てしまった感覚を持ちましたし、それを遅い、とも思いました。

「言われなくても君の事、継続的に買うつもりでいました。いや、どんな代価を支払っても、買い上げてしまう気でいた。君は、お家に居たくないのだと、逃げたいのだと、言っていましたね。加えて、私に“また会いたい”理由が、あるのでしょう?」

この人の都合は今の自分の都合とマッチしています。今、この今、早く、この異常性を拒んだ方が身の為かもしれないのに、起こっていることがあまりに、自分の人生の一部なのかというくらいにトントン拍子で、だめなのか、いいのか、もったいなくないか、どう解釈すればいいかわかりません。ウスルは俯き、目を見開いて、机の木目とか、微細な傷とかを視野いっぱいに拡げ、できるだけラバランと関係を絶ちながら、ラバランに集中していました。意識が針になって、ラバランを刺しそうなくらいに。視界の外でラバランが小さく息を吸った音すら、聞き漏らすことはありません。そうしてこの男が、優しいのか恐ろしいのか、いいのかだめなのか、正しいのはどうすることで間違いとはどうすることをいうのか、照準を合わせる、それしかできないのです。

「君には、相応の価値を支払います。君が、誰かの責任をとらないで済む時間と、お家を抜け出すにいい口実を、こさえてあげる。そして、君が私の元にいる間、いかなる責任も全て、私がとりましょう。」

充分口調は優しげなのですが、ウスルの頭に意味を叩き込むために、言葉がこの空間を上滑りすることを許さない圧力を以ってして、わざと言葉を区切っているように聞こえました。ラバランのことは何も知りません。ですが、提案の仕方がとにかくなんだか、この人にまつわる印象と比べたら不恰好なくらい地道に、個人的に、高圧的に聞こえました。岩石を振り上げた彼にどことなく似ていました。こわい、おかしい、そういう人に執着されている危うさを感じとりました。そもそもこの人が変だということはあの撲殺の伴う幾分か衝撃的な対面から充分すぎるほどに判明していました。昨日の自分の判断力がまあマトモじゃなかったとしても、今、マトモに考えれば、それはそれはこの人といては色々と、いけないだろう、そう思いました。今なら“また会いたい”を撤回してここを飛び出せる、飛び出すべきだと心を奮い立たせようとしました。しかしそうして飛び出し、走り去り、行き着く先は、あの日々のみが延々と執り行われる生ぬるい地獄です。地獄に帰るか、と思うと奮い立った心が面白いほど急速に萎えます。はっきり言って割りのいい取引なのです。ラバランの差し出した対価はここで逃すにはあまりに惜しいのです。この人はおかしいかもしれないけれど、実際、救われたのは嘘じゃない。ザインというある種の拠り所も崩壊しているし(拠っていたことを自覚したのは昨日ですが)、あの面倒くさい日々のなかに、拠り所足り得るものがあるか探しますが見当たりません。あちらでは大抵誰かに拠っかかられていて、そうでない誰かは自分には無関心なのですから。「また会いたい」は助けてと同義の切実さで口をついた言葉です。昨日の自分はそもそも、助け出してくれじゃなくぶっ壊してくれと思っていた、それはラバランの優しさよりもこの恐ろしさの方に、高い価値を認めたということではないのでしょうか。違う自分になりたい、自分なんて、やめてやりたい、自己の崩壊にでも、出会いたい。それは今日も、結局のところ変わっていない。それに、気付きました。それとほぼ同時に、思い出さないようにギリギリの側面を通るように避けていた昨日の官能的な体験が、感覚器官を撫で上げながら意識上に蘇りました。欲しいものを体で追いかけるみたいな痴態を晒した自分自身、自慰に妄想と、妄想を助長する脚色すら沿わせた自分自身、風呂場の鏡に映る淫らにとろけた自分自身が、脳裏をかすめ、耳の奥がぼやけるみたいになって、全身に鳥肌が立ちました。まずい、どうしよう、どうしよう、どうして今、そんな言葉に似たパニックを内緒で起こしていると、それを知ってか知らずか、ラバランは、とても優しい、包むような声で、「昨日のこと、覚えていますか?」そう言いました。

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