第11話

ウスルはラバランのいるテーブルに向かって席に着いて、ラバランはテーブルに備え付けてあるメモとペンを引き寄せました。ラバランはウスルに、ここに来る際に利用したバスについて尋ねながら、今から乗るべきバスを教えました。ウスルはほぼ何も覚えていなくて、答えられることがあまりに少なかったのですが、街灯すらない暗い道を通ったかとか、大きな建物が見えたかとか、された質問には頷いたり首を傾げたり首を横に振ったりしていましたし、ラバランはそれで充分察しがついたようでした。

「君が乗ってたのって、この世界から出ていきたい人が乗るレアなバスですよ。なかなか本数もないですから」

いい経験しましたね、と言って笑って、ラバランはそのまま、この世界のバス停や地域についてのざっくりとした情報をウスルに話しました。ウスルは話の間、大体はラバランが持っているペンを見ていました。ペンを持っているラバランの、革手袋の手を見ていました。バス停名を書き連ねていく長い指を見ていました。ペン先の音と共に増えていく文字達は、ひとつひとつの形は違うのに、並べば並ぶほどに整頓されていきました。乱雑ではありませんが、丁寧でもない字でした。ウスルは地名や道を覚えることが得意ではないので、というか本当に不得手なので、この世界において、ほとんど、まったく、地の利がありません。その不得手をラバランは察しているようで、地名や道と関係してはいるけれど、きちんとはしていない、話半分のこまごました情報を、話しました。返事しなくてもなんとなくラバランが楽しそうにしているようだからか、ラバランがしている話がある程度軽く、適切だからか、いつも対人のあらゆる場面でウスルを苦しめてきた強烈な眠気も迎えずに、話を聞くことができていました。違うことを考えてしまう自分を無理やり押さえ込んだりなどせずにいれました。不思議でした。普段なら絶対に眠気で倒れそうになっている場面に自分が普通にいます。何故、居づらくもなく、嫌にもならず、こうして会ったばかりの他人と二人きりの部屋で、それも同じ机に向かうことができているのか、わかりません。わからなくて、これは変だ、夢か、というがして、無機質というほど無機質でもない、かといって飾り立てられてもいないホテルの部屋をふと見渡してみました。精神が鎮静している、と思いました。いつも外界に波を立てられている心の中が、平穏であることを確かめました。この世界に来てから一番と言っていいほどの平穏でした。知らない土地のホテルの一室に知らない人と一緒にいるのにです。家での、慌ただしかった今までのことを思い出しもしました。思い返せばザインだけでなくてウスルだって充分、この世界によって窒息しかけていました。昨日のザインとのことがなくたって、落ち着いている今だって、ウスルはあそこには帰りたくありません。帰る話をしていても、帰らなきゃいけないと言い出したのが自分でも、いやでした。帰ることを思うと胃が痛くなりました。ザインのせいでは、もはやありません。ザインには共感していました。この世界には、確かに酔います。けれど自分がどうにかしてやれることではまずありません。ひとときも休息できないほどに他人を気にかけなきゃいけない毎日に、気付かなかっただけで本当はうんざりしています。向いていないし、あとラバランが言ったように、歳相応じゃないから。してやりたくてもできないのです。ひとりになりたいわけではありません。ひとりぼっちはいやなのです。だって自分はこどもだから。ウスルは今とてもわがままでした。ほんの少し勇気を出せば、えい、とわがままが言えそうな気持ちでした。今のウスルはきっとしたいことをたくさん持っています。知覚できていないだけで、いろんなことを求めています。ラバランがメモを渡して、メモの切れる大体の期限を告げて、「メモの期限」の意味がわからなかったウスルに、それを説明している時、ウスルはこのひと時が終わりに差し掛かっているのを感じ取って、そわそわしていました。魔法が解けてしまうようなたまらない惜しさで、ラバランから見えないように机の下で、右手で左手を握ったり、左手で右手を握ったりしました。何か、自分からこの人に言えることはないか、何か次の機会に繋がることはないか、一生懸命考えました。ラバランに着替えてくるように促された時、ウスルは座ったまま俯いて、直ぐには着替えようとしませんでした。ラバランが、優しい空気のまま、そこにいることを確かめながら、おずおずと、いつもここらへんにいるんですか、と尋ねました。やっとの思いで紡ぎ出したその言葉が正解だったか間違いだったか、こんなこと言わないほうがよかったのか、そもそも自分はなんて言ったのか、うっかり失礼なことでも口走っていなかったか、それを考えて頭はぐるぐるしはじめました。けれどぐるぐるらしくぐるぐるする暇もないくらいスムーズに、自らが隣の区域に住んでいることと、この辺りを含む、自身の住まいの近辺で仕事をしていることを、ラバランは答えました。拍子抜けする程にためらいのない、それも、それなりに生活を想像させる具体的な答え方だったので、こうすれば会えるよと教えているようにすら聞こえました。ヘタをしたら、この人も自分と会うのが嫌ではない、もっと言えばまた会いたい、それを期待している、そう聞き取りそうになりました。ウスルは、安心したみたいに、希望があったみたいに、嬉しくなっている自分を自覚して、ますますそわそわする手を、恥を知れとでも言うみたいに、傷付けるくらい強く握って止め、体を故意に緊張させました。

「また会いたい?」

ラバランはテーブルに肘をつく姿勢をとって、しっとりと、感情が満ちていくみたいに笑いました。静かな表情でした。満ちている感情というのは、嬉しさであるように見えました。自分の発言がこの人にこんな顔をさせたならば、やはり、この人も自分にもう一度会いたいと思っている、そう勘違いしてしまいそうになります。望みの波長が同じになっているみたいな感覚がして、胸がいっぱいになりそうでした。なりそうなだけです。知らない人との時間に、こんな感情は起こりえないのですから。この類の感覚は初めてでしたが、似た感覚は知っている気がしました。恋心とは違うのだけれど、似ている部分があります。いつもザインに感じるそれとは明らかに質が違うのだけれど、いつか一瞬だけ感じたことのある筈の、思い出せもしない何かに似ているように感じました。眉間にシワがよるくらい心をうずうずとさせながら、そこで気付きました。仮に二度と会えなくなってしまうならば、失言したって痛くないのです。仮にまた会う約束ができるのならば、多少の犠牲だって惜しくないのです。ウスルはラバランに問われたことを思い出しながら頷きました。できれば、また会いたいです、とも口にしました。緊張はしました。はっきり発話できたわけでもありません。けれど珍しく、自分の意思でそう言うと決めて、紡ぎ出した言葉でした。なるほど、こういった選択、行動ならば、実を結ばなかったとしても、しないよりはましだった、と後で言い切れるのかもしれない。そんなはじめての感覚を頭の別のところで拾いました。ウスルがそういったまともな選択をするには、多くの人間、通常だったら焦れるくらい、とろくさくすらあるくらい、じっくりと頭を使えないとダメなのです。それを、ウスルは自分でも知りませんでした。それを知る暇がある役割に着くことなんて、今までなかったのです。生きてきた中で自分の選択に自信が持てたことなんてありませんでしたから、それが少しでもできただけ、よかったのかもしれない。そう思って、これ以上何も期待しないようにとても気を付けて、心を平らにならしつけて、俯いていました。永遠に俯いたままでいれるくらいの覚悟でそうしていました。ラバランが静かな声色で、「私は、君のことが欲しい」と言うのを聞くまで。

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