第10話

浴室でのことは、思い出さないようにしていました。思い出しそうになると、それをかき消すように、少し唸りそうになります。唸ることもあります。罪がくっついたものを意識からひっぺがすことは、ウスルが最も苦手とすることのひとつです。そうでなくても、ちらついて、はなれません。マスターベーションにあんなイメージが付随することなんて生涯に一度だってありませんでした。そのイメージがずっと頭について回るのも異常です。前の世界だろうがここだろうがです。ありえませんでした。ウスルは目を閉じても目を開いていても同じくらい真っ暗な部屋で、ここに来てシャワーを浴びる前に見たふかふかの広いベッドにひとりでした。別室からは目立つ音はしません。ですがドアの隙間から明かりが付いているということがわかるだけの微かな光が漏れています。なので真っ暗でもドアのある方向だけはわかります。ラバランは、基本的には眠らない、眠らなくても平気な人種なのだと、言っていました。そちらを見てしまう理由なんてわからないふりをして自分をある種無視しているのですが、狡い顔して、静かに話す、さっきまで一緒にいた男がそこにいるからであることは自覚していました。まだ、時につらくなる体は、おさまろうとするときもありましたが、おさまろうとしても、今日の全ての、特筆すべきでない何かひとつでも脳裏によぎれば、熱く、辛く、もう一度処理が必要なくらいになる一方です。手の甲にぎりぎりと爪を立てました。うずくまって、肩を抱きました。舌を噛んで、下唇を噛んで、寝返りを打ちました。それはウスルが気付いていなくても代替行動でした。触れられた首筋をなぞる代わりに手の甲に爪を食い込ませて、耳の真横に感じた息遣いを思い出す代わりにうずくまって肩を抱いて、舌でこねられた胸の先端を自分で触る代わりに舌を噛んで、下唇を噛んで、寝返りを打ったのです。代替じゃおさまりません。また寝返りを打ちました。ラバランの、口の中にさしかかるにつれて少しずつ青みがかっていく唇と、真っ青で、てらてらと滑った舌が脳裏に焼き付いたままです。腿を、少しだけ触りました。その力加減が、自分を撫でていたラバランの手つきと似ているように思えて、やめて、もう一度寝返りを打ち、爪を噛みました。





翌朝は来ました。ウスルはそんなもの二度と来ないかもしれないとさえ思っていました。もしくはこの部屋で目覚めるとも限らなくて、全てが夢で、またいつもと同じように嗅ぎ慣れた匂いのする自分のベッドで目を覚ますのだと思っていました。太陽がぬるまったみたいな朝日が窓から差し込む白色の室内の、真ん中のテーブルの方にいるラバランを、体を起こさずにぼーっと眺めました。この男、夢ではありませんでした。もしくは、まだ夢の中。ごっちゃになった感覚の上部だけを掬い取るように、ぼーっと眺めました。ウスルは朝にスムーズに意識を浮上させられた試しがありません。いつの朝だって、自分は起きなきゃならない、その必要にかられて無理くり意識を常世に持ってくるのです。この世界に来てからは尚のことです。あんな街にも朝はくるのか、こんな人にも朝はくるのか、そういったことを、気分という漠然とした形で感じとっていました。そんな頭ではあんな街ってどこなのか、こんな人って誰なのか、そこまで考えてもいないものです。ラバランがこちらを見て、柔らかに笑って、腰を上げたのをみたところで、は、と意識のレベルが上がり、起き上がりました。人を直視できないのははじめからですが、より過敏に緊張して、目が見開きました。ベッドから出ることもできずにサラサラのシーツに包まれたふわふわを掴みながら俯いて、自分の手をなるべく隠しました。歩いてくるラバランの気配を、待っているわけではないのですが、結果的には待ちました。けれどどうやらこちらに来る訳ではないようで、何故か拍子抜けしたみたいな、まるで微々たる残念な気持ちでも混ざってるみたいな心地になって、深く考えないようにするために眉間にしわを寄せました。昨日路地裏で自覚してしまったガキくささでも残っているのかもしれません。目を合わせないように気をつけて、布団に隠れるみたいにしてラバランを見ると、テーブルから少し離れたところにあるポットとカップを手にとって、テーブルに戻るところでした。こうして少し遠くから見ていると、彼が昨日の、ラバランと名乗った男だとは思えません。昨日と違って長い金髪が一つに束ねられているからもあるでしょう。線の細い男だと思っていましたが、普段関わっているみんなに比べたら、細い訳ではありません。栄養のありそうというか、垣間見える素肌は噛んだら弾けそうというか、筋肉に上手に皮膚が張っている様が、果皮がピンと張った乳白色の果実みたいです。病的とすら言えたかもしれない昨日の印象と比べ、朝日に照らされた立ち姿の印象が非常に健康的だったので、生真面目さが行きすぎて神経質な顔つきになっただけの、真っ当な人間に見えなくもありませんでした。何か言わなければいけないに決まっているのですが、何か言うべきことを探そうとすると、細心の注意を払ってこぼれないようにしている昨日の記憶のコップがガタガタしそうになります。寝たふりしてればよかったことに気付いて、今更遅いことにも気付いて、諦めて、いつも「しっかりする」為に入れる、気分のスイッチみたいなものをなんとか入れようとしていると、ラバランが「おはよう」と言ったのが聞こえました。少しだけびっくりしました。ですが、なんと答えるべきか、このくらいなら分かります。「おはようございます」と答えればいい。なるべくいつも通りの声色で「おはようございます」を言おうとしました。けれどそもそもいつも通りに準ずるならば、「おはようございます」なんて丁寧な言葉をつむぐべきではありません。いつも通りに準ずるなら、何も言わずに外泊した今の状況を鑑みて、さっさと起きて、ラバランに何か声をかけて、とにかく家に戻るべきです。けれどそれはできません。いつも通りの自分が今、とても遠くにいるからです。だから、いつも通りの自分をひっぺがした下にいる、見えなかった自分の様がよくよく見えていました。いつも居心地が悪そうで、もじもじしていそうな気持ちが、自分の中に見えていました。知っている自分は使えないし、知らない自分になることも難しい。空間を共にして、しかも自分とコミュニケーションをはかろうとしている意思、知性に対して、これ以上何かしないでいることもできません。だから焦りながらでしたが「おはようございます」と口にしました。勿論、思案分のタイムラグと不慣れによる吃りを含めて、ラバランはそれを知覚したはずでした。ですが、ラバランはとても停滞したコミュニケーションの中でも、生まれた停滞を一片も崩しませんでした。目を合わせたりもせず、別に言葉を待っているわけでもなく、この部屋に生まれた「そのくらいのペース」に対して当たり前に、ただそこにいました。それがウスルには不思議に思えました。そして何故か懐かしいようにも感じました。知っていたけれど思い出せなくなったものがくすぐられたような、静かすぎる胸騒ぎのような感覚を覚えました。それは嬉しさに似ていなくもありません。どうやら、別に、喋らなくても不審がられないし、空気を乱したり、嫌がられたりもなさそうです。すると、自分でも不思議なくらいに、かえって口が動かせる感覚が降りてきて、はじめの発話に比べればまあまあスムーズに、それでもゆっくり、帰らなくてはいけない旨を口にすることができました。ラバランは「どのバスに乗ればいいかわかる?」と言って、ウスルを手招きしました。朝の静かなホテルの一室においてウスルとラバランが結果的に作り上げているペースを乱すことのない、くつろいだ挙動でした。

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