第9話

名前を呼んでいるだけでは何もしてくれないことはなぜか、よく理解していました。この人はそういうタイプの慈悲をくれる人では決してないと確信していました。ラバランさん、お願い、お願いします。お願いしますでは、きっと何もしてくれないこともわかっていました。声を絞り出してお願いしますを言うと、段々頭が麻痺していきます。おねがいします、自分にとってはお願いしますだって、みっともなくて、絶対に言えない言葉です。言葉だけじゃない、ペニスを舐めてほしくてそれを想像して、言葉で辱められて、どうしようもなくなって余裕なく声をあげて、腰を浮かせて、こんな自分自体、ありえません。けれど、それどころじゃないくらいに、ビンビンのペニスに這う舌が、今の自分にとって、喉から手が出る程欲しい、ほしいものでした。ウスルくん。ラバランが名前を呼ぶと、その吐息がペニスを撫でます。ゆっくりでいいですよ、いつまででも、待っててあげる。息を吹きかけるように、ラバランは言います。なめてほしい、言おうと、その台詞を言おうとはするのですが、どうしても、はずかしいところが言えなくて、口がはくはくします。顔が、体が、どうしようもなく熱くなるのを感じます。ラバランさん。ほとんど、許してください、と言いそうになりながら、ふう、ふうと息をしながら、陰茎を、舐めてほしいです、目を合わせずに、その言葉をどうにか紡ぎ出しました。はずかしさで耳がぞわっとして、体全体が、ぞくぞくっと寒気のようなもので縮こまります。けれどラバランは、ふいに少し冷たい目をしてウスルを見上げて、幻滅したみたいに、小さなため息をつきました。

「君は自分の立場を、少し勘違いしているようですね」

ラバランの目が冷たい色をしたまま、自分の方じゃないところを向くのを見ました。それはスローモーションにも見えました。見捨てられる、それを察知しました。

まって、まって、ごめんなさいまって、ちゃんと、言えます、ごめんなさい、

反射的に、情けなく、ラバランに訴えるように、声をあげましたが、興味を無くしたみたいなラバランの冷たい目は変わりません。なめて、なめてほしいのです、どうしても、このままじゃだめなのです。見捨てないでほしくて、少しの慈悲でも逃したくないみたいに余裕なくごめんなさいを繰り返していると、冷たい目していたラバランが、ふと笑みを抑えられないみたいな顔をして、首を傾けて、溢れたようにくつくつと笑いました。溢れた笑いですら静かなので、この人はきっとほとんど音を立てないで生きているのかもしれません。

「どちらにせよ君は、これからされるかもしれないことが、とても恐ろしいんじゃないですか」

すぐには頷けませんでしたが、頷きました。目を強く瞑ると涙が頬を伝いました。その言葉を否定することは、自分の不貞を認めることだとしか思えません。いくら欲しくて、欲しくて仕方なくても。こわいし、こわいと感じているべきなのです。自分が崩れそうなのがこわい。例えそれを望んでここにいるのだとしても。でもほしい、欲しい。なりたくないものにならないと欲しいものが得られない窮地の中で、完璧に笑うために並んでるみたいな美しい上下の歯列を割って、てらてらした舌が唇を舐めるのを見ました。

「ここでやめたら、綺麗なままでいられるね」

ラバランが、ウスルの視界に焼き付けるためみたいに、ゆっくりと青い舌を伸ばし、ペニスの側面を舐め上げるふりをしました。あまりに淫靡で、ああ、とか、うーっとか、声が出て、涙が溢れて、それでも頷きました。綺麗でいられる。ここでやめるべきで、そうじゃなきゃいけない。選択肢はありません。それが生き方だからです。ラバランは舌を噛むみたいにして心底楽しそうに笑っていて、傾けた顔を隠すみたいに金色の髪が揺れました。おかしくなりそうな頭には、楽しくて仕方ないみたいなラバランの仕草のひとつひとつ、何よりも目が、自分をどこまでも深く掴んで掌握して、理解しているものみたいに思えました。不貞もこわい、このまま放っておかれるのもこわい、逃げ場所がないのもこわい。そして何よりもこわいものは、この人なのです。



これ以上望んでは駄目になる、それが恐ろしかったのは本当です。最中でさえ、まともな思考ができなかった間でさえ、そうして自分は快感から抗っていたのです。あの後、浴室を借りました。ウスルがシャワー、あびます。と伝えると、ラバランはどうぞと言って、それから仕事をするので別室にいる、それをウスルに言いました。

「シャワーを浴びてからも、寝るなり、音楽聞くなり、ここは好きに使っていいですよ」

そう付け加えて優しく笑って、ウスルが逃げるみたいに浴室に行くのを見ていました。ウスルは普段好むよりも熱くした湯を浴びながら、耐え切った、何もいけないことはないと、言い聞かせました。これでよかった、こうじゃなきゃいけなかったんだと。体がどれだけ疼こうと、こうじゃなきゃいけなかったのです。頭がそれに占拠されようと、これでよかったのです。体に爪を何度も立てました。白い肌に赤い三日月がたくさん浮かびました。鬱血すればいいと思っているみたいに強く腕を掴みました。今日は思い出しきれないくらいのいろいろなことがあったのに、それを思い返せばいいのに、何故かさっきまでのラバランとのことだけがどうしても浮かんで消すことができません。頭がおかしくなったままなのです。体も。こんなに、おかしくなってしまったまま、それをごまかして平気な顔していられるでしょうか。平気な顔していても、この世の何にも顔向けできないのです。シャワーを止めてもその場から出ようとせずに、ウスルは立ち上がったペニスに手をかけていました。これはただの生理現象だと言い聞かせて。平常時となんら変わらない、生理現象をおさめるだけの作業だと言い聞かせて。なってしまったものはしかたないから、それを慰めるだけだと言い聞かせて。熱く血を集めた、見たくないものを見ないように目を瞑っていると、さっきまで見ていたものが頭に見えます。脳みそが焼き切れそうだったひとときの記憶を、舌を、手を、声を、匂いを、表情を思い出します。あれは地獄だったはずなのに。申し出された、断る選択肢のなかった売春行為なだけなのに。只の、初めてでもなんでもない、普段機械的に終わらせているはずの作業をしているはずの手は、されたかったことを再現でもしているみたいに、ペニスをねちっこくなぞるみたいに動きます。焼きついた残像を見れば見るほど、異様によくなってきて、じんじんして、やめられなくなっていきます。きっとあの人は、胸の先っぽにしたみたいに、ゆっくり、焦らして、ペニスに舌を這わせる。架空の青い舌の柔らかさ、温かさにあてられて、頭がふわふわして、熱っぽいため息が漏れました。ラバランはこの浴室と先ほどの部屋を隔てた、もうひとつ向こうの部屋にいるはずでした。聞こえないだろう、と無意識的にそれを確認して、ゆっくりと、侵食するみたいだったラバランの手を思い出して、左手を首に伸ばしました。そのまま耳を柔らかくなぞって、顔を傾けて左手に擦り寄せて、指先を口元に添えて、ちろちろと舐めました、とてもやわらかくてあったかい自分の舌を、ラバランのものみたいだと思いました。それが、乳首をしゅりしゅりとこすっていた時のことを思い出すと、自分の舌の感触が指に甘いみたいにこそばゆくて、目をつぶったまま、もっと、とても丁寧に指を舐めたくなりました。舌の気持ちよさに触れれば触れるほどに、胸が切なくなります。唾液が絡んだ指で、乳首に触れないように注意を払ってそっと胸に触れて、包んで、少しだけその指を折り曲げて、胸を柔らかくさすりました。自分で自分を焦らすみたいに、何度も指を滑らせました。ひとりでいるせいか、目を閉じているせいか、自分がどうなっているかなんて頭の端っこに追いやることができてしまって、断続的になってきた抑えきれない吐息を、隠すことなく吐き出していました。はぁ、はぁ、と小さな息を吐き出す度に、脳みそに甘い波が染み込んでいくみたいに、違う世界にずれていくみたいに、ウスルは変わっていきます。それが怖くて目も開けられないままなのに、ウスルは変わっていく自分を知覚できないままに、意識を深くしていきました。疼いて、我慢しきれなくなって、胸の先を指の腹で、少しだけさすると、背中が仰け反ってしまうみたいな痺れが起こって、あぁっ……、と静かな、小さな、喘ぎ声をあげてしまいました。あまりに良くて、そのままペニスを包んでいた右手を胸に添えて、両方の乳首を親指と中指で潰さないように優しくつまみながら、人差し指で乳首をしゅりしゅりしました。ペニスがぴくっ、ぴく、と持ち上がるのがわかります。お尻の穴も一緒にヒクついて、しっぽの裏側まで切なく、じわじわします。あっ、ぁ、あぁ、誰にも聞こえないようなその喘ぎ声が、自分の脳みそを溶かしているなんてウスルにはわかりません。あまりに切なく血を集めたペニスをもう一度右手で柔らかく掴んで、擦ります。ペニスが掌を撫でる感触にすらぞくぞくして、声が抑えられません。かわいいと言われた包茎の形をぐにぐにと変えてこすると、ラバランにこうして、同じようにこすられるところを想像してしまって、手が止まりません。今日散々焦らされたペニスが、想像の中で可愛がられます。はぁっ、あぁ、あ……、自分が喘いでいることを脳みその外にやってしまいながら、きもちいのを、貪りました。体はすぐに高まってきて、もう、もう、暴発しそうな射精感を一瞬も我慢できなくて、真っ黒なはずの視界が真っ白になって、時が止まって、現実の前のことも後のこともない快感の中に取り残されたみたいになりました。ペニスの先にもっていった左手に、ペニスの痙攣の度に、ぴゅっ、ぴゅっ、とせり上がった精液が吐き出されました。頭の中のびりびりするもやみたいなものが解けて、どろどろしたものに包まれたみたいな脱力感に襲われました。それは幸福と似ていました。ゆっくりと目を開けると、浴室は想像していたよりもずっと白く、金色にすら見える世界でした。チカチカした目で見た左手には今までこんな量になったことはない、そのくらい多い、濁ったとろとろが滴っていました。ウスルはそれを口元に寄せて、匂いを嗅いでから下唇で掬い取るみたいに口に含みました。それはいつもと変わらないくせのようなものだったのですが、ラバランが精液をこうして、口に含むイメージが付随した所為で、いつもと変わらない行動ではありませんでした。いつもならあっさり飲み込んでしまう濁ったとろとろを、舌と上顎で揉むみたいにしてから飲みくだし、ラバランが自分の精液を飲んだら、それを考えました。同じようにあの人の喉をこれが通り過ぎて、この感覚をあの人にも同じように起こる。ぼやけた頭でそれを想像しました。無意識的ではありましたが、架空の情景をよく観察するみたいに、とても丁寧に想像しました。ぼーっ、とした頭をそのままにしていると、ふと、浴室の鏡に映る自分の姿が視界に入りました。自慰の最中でもないのに、顔を赤くして、とろんとした目で鏡を見つめた自分が、信じられないほど淫らに写っていました。ひとりで高まって、ひとりで息を甘くして、ひとりで、想像の中で胸を舐られて、想像の中でペニスをよくされながら、胸をつまんで、ペニスをぴくぴくと持ち上げて……先ほどまで自分が何をしていたか、起こっていたであろう痴態を想像し自覚した途端、頭がぐちゃぐちゃになりそうになりました。息が引きつりました。耐えられなくなったみたいに、ごめんなさいが口からこぼれました。全容を思い出すことも恐ろしい、罪でしかありません。許せるものではないのです。なのに、それなのに、その姿を見た自分は今、もう一度背筋をぞく、っとさせ、もう一度、ペニスを反応させたのです。


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