第7話

ウスルは抱えていた膝をゆっくり解放して、今から目の前のこの人が自分で、この人の欲を満たすことを想像しました。想像したのに、何故かそれは先程の路地裏の痴情で感じたような嫌悪感を浮かび上がらせはしません。そんな自分に対してこそ嫌悪感を抱き、眉をひそめました。これから起こることが怖い、不安で、できるならしないでいたい。それは確かです。自分におかしくやましいところなんて、大丈夫、ひとつもありません。左右の肘掛に乗せられたウスルの両手にいよいよラバランの手が伸びて、触れずに真上で静止したかというくらいにそっと添えられ、両手の甲だけに感覚が集中していきます。どうせならさっさとしてほしいと思いました。そのゆっくりとした動きが耐え難く恥ずかしく、俯き、なるべく視線を逸らしました。しかし触れられているとか、添えられているとかにしてはなんだか異様にくすぐったいような、手の上で節足動物の産卵でも起こったようなくすぐったさがあって、確認するように目を向けると、手には見たこともないような繊維の集まりが這っていて、それがゆっくり、ゆっくりと腕へと、肘へと、肌に絡みついていきます。こわい。喉のところまで声が出かかりました。おぞましくなって、一度に胸いっぱい息を吸ってしまい、それを吐くことが簡単にはできなくなりました。ラバランは、その表情を見て満足気ににっこりと笑っています。シンプルに、頭のおかしい男に見えました。やっぱりこの男にすがるのは、得策ではなかったようでした。この男が何かはわかりません。この世界の人々には自分自身も含めて、他人の目には奇怪に映る力のようなものが備わっていると説明されて、毎日いろいろな人物のいろいろなそれを見て過ごしてきました。今更見たことないものを見たくらいでパニックになったりはしないと思っていましたが……。繊維は、無数の細い糸が一旦紡がれた後でまた解けたような、毛細血管の拡大図みたいな、不思議な経路で伸びていきます。伸びきって細く枝分かれした先端にまた太い糸が絡まるように、伸び広がっていきます。両手首を持ち上げようとしたのに縫い付けられたかのように動かず、拘束されているのだと気付いた時にはもう手遅れでした。ラバランが立ち上がったので身を竦めると、ラバランはウスルの肩を支えにもたれかかり、中腰の姿勢でウスルに影を落としました。今まで背を預けてこなかったソファの背もたれに体をぐいと押し付けられて、出来るかぎり身じろぎして抵抗していると、あっさりラバランの手は肩から離れます。離れたのを拍子に体を起こそうとしましたが、その間は与えられずまたウスルの体をソファに押し付けるように、今度は首に両手が、絞殺を想像させる形で押し付けられました。息ができなくなるほどではありませんが、恐ろしいことには変わりはなく、この異常者かもしれない男に抵抗を示すべきかしないでいるべきかの一瞬の迷いのうちにも首には糸が這い、今度はラバランの手や体重ではなく糸の集合体が、ソファの白い毛足にウスルの体を縫い付けました。雁首取られて、いよいよ逃げられる望みが完全に途絶えました。視界の外でラバランが笑う気配を感じます。ウスルは変えることのできない姿勢のまま肩を大きく上下させて呼吸をしました。首に添えられた手は力を込めるでもなく執拗に糸の上をすべり、その両手はやがてウスルの両耳を包み込みました。指か、糸か、耳の後ろがそわそわとくすぐったくて、このままではまずい、そんな感覚がして、避けるか、ないことにしたくて目を固く瞑った瞬間、耳の中のじくのようなところが、微弱な電流でも流れたかのようにじいんと痺れました。鼓膜がびびびと震えているような音に頭を包まれて、その痺れはゆっくりと、体の感覚にしてはあまりにゆっくりと、背筋にまわっていきます。痺れを皮切りに、体全体の毛が逆立ちました。逆立った毛が間に合わせの感覚器官になったかのように、肌の感覚を過剰に拾います。耳の中へ柔らかく蠢きながら糸が侵入してくる感覚に背筋が反りそうになり、全ての感覚を抱え込むために背をまるめようと、歯を食いしばり体を故意に強張らせます。ぞくぞくした痺れは紛れもなく甘く、それに翻弄されて思わず目をあげ、避けていたものを視界に、決定的に取り込んでしまいました。照明を背に暗く陰ったその顔は、今までで一番近くで見た、ラバランの顔でした。自分にのみ向けられた笑顔と、笑顔の奥の異質な情と、自分の耳を顔を包み込む手の温かさ、そしてこの男の存在自体がもつ異様な熱さのようなものに一瞬であてられ、耳から背筋をこの世のものでない鉤爪で引っ掻きなぞる痺れが一気にぶり返し、息が止まる、そう思いました。目をそらす代わりにまぶたを強く閉じると、ウスルの耳を塞ぎ包み込む暖かい手の親指が、まぶたをなぞり、そこからは自力では目が開けられなくなりました。糸の拘束がもたらした暗闇が、全てをより鋭敏にします。この男にも匂いがあって、吐息があって、それがこんなにも体の芯に響くなんて、思いもしませんでした。もう、この男の思い通りにしかなり得ません。何故さっきまでこの男に対してある種の信頼を寄せ、泣いたり何もかも話したり、無防備な自分を見せることができていたのかわかりません。ウスルは暗闇の中、買春男とのあれの感覚とは全く違う何かが頭の、頭深いところから上がってくるじわじわに知覚のすべてが急速に染め上げられそうで、パニックになりかけました。「ちがう、」信じられないくらい情けない、小さな声が出ました。声になっていたかはわかりません。嫌だと言えばいいのに、何がちがうのか、何とちがうのか、自分の口から出た言葉の意味が、ウスルにはわからず、考える余裕ももはやありません。音の遠くなった暗い世界に取り残されると、全てが遠いのに自分の声だけはいやに近く、その声の上ずりで嫌でも混乱を自覚させられます。視覚と聴覚を補う分かそれ以上に肥大化した他の感覚も、自分の言うことを聞きやしません。その上おかしな痺れのようなものがいつまでも頭の少し後ろ側や、背筋の柱や、太ももの側面あたりに残留していて、それがウスルを最もウスルから遠ざけようとしていました。恐ろしい程に甘い。何故こんなに、こんなことで。こんなものが自分の中にあるはずがないから、自分がこんなふうになるはずがないから、先程散々緩んだ涙腺からまた涙が流れます。それは流れることもなく、まぶたを塞ぐ糸の束に吸い込まれます。ラバランの目線がわからないから全てが晒されている気がしてきます。内面の全ても、自分の知らないところまで見透かされている気がして、次々と涙が出てきます。余裕のない頭で、ないかもしれないものまで心配している所為で、自分を取り巻く環境を、かえってつぶさに受容しすぎてしまいます。先ほどウスルの瞼を撫でた手が、首に向かって降りてきて、ラバランのグローブの革の質とか、色を、思い出して、ラバランの目つきを思い出して、違う、もっと違う何かを考えなくちゃいけないのに頭のキャパシティが足りません。ひらりと手を返した気配がして、手の甲らしい硬いところが肌を少しだけ押して、首筋のわずかなやわらかい隆起を潰さないようにするすると下りて、もう一度手を返して、ローブと素肌の隙間に滑り込んで、今度は指の腹で鎖骨をなぞるのが感じられます。左の鎖骨をなぞっていた手が、左胸部を、左肋骨の凹凸を、腹を、強い刺激を避けて指のやわらかいところを引きずるように降りてきました。ゆっくりと腰にたどり着いた手がローブの結び目を引いて、帯状の布が擦れながら解けたようでした。その手はもう一度鎖骨に伸びて、左右対称に、何度も、執拗に、肌の隆起を撫でました。鎖骨が肌の表にごく近い場所に張り出した硬い部分だというだけで、どうしてこんなに、触れられただけで、体がおかしな反応をするのかわかりません。思わずどんな声になるかまで考えることもできないまま、触るな、と口にしました。これとほとんど同時にすう、と息を吸う音がして、両手が首の後ろにするすると回されて、ほどなくして鎖骨のほんの近くにラバランの息の気配が近付きました。全身が強張り、あまりに近いこの男の息の感触とか、匂いとか、体温とかを耳鳴りがしそうなほど、意識してしまいます。触らないでくださいと、とても小さく、口にしました。男の呼吸のリズムは早く、その感覚が鎖骨や首筋に滑り落ちては消えていきます。上質な布のような、燃えた植物のような、嗅いだことのない香りがします。背中側に回された手に少し力が入って、より一体化するように、もう二度と離れられないような距離に、ラバランが顔を寄せます。湿った温かい吐息が、糸で塞がれた左耳の後ろにかかって身を縮めた矢先、濡れた柔らかな何かが耳の後ろに触れました。それはあまりに熱くとろけていて、人体の一部には到底思えません。それがラバランの舌だとわかると、ゆっくりと舌の腹が押し付けられるその感覚に、体の触られていないところが、腹の深いところが溶けてしまうくらいに、じんわり熱くなっていきます。繊維の束が被さっているはずの耳がラバランの断続的な息の音を確かに拾って、それが湿り気になって脳みそに浸透していくような、温かな寒気で体が震えました。

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