第6話

ウスルはもう、滞りなく言葉を紡げる気がしませんでした。しかしこの男は恐らく自分が流暢に喋ろうが言葉と言葉の間に気の遠くなる程の間があろうが、同じように話を聞くでしょう。何故ここにきたか、何故売春をしたか。はじめは、ザインとのことに傷付いて、ただそれをどうにか、上塗りかなにかしないといてもたってもいられなくて、なんとなく、本当になんとなく、目的地もなくバスに乗り込んだのです。結果的にここにきたけれど、結果的に売春をしたけれど、それはザインのせいだけでもありません。ここにくるまでに、散々、自分も知らなかった自分を見つけました。自分は、自分が思っていたよりも現状に文句を垂れていました。なんで誰も責任とらないんだ、どいつもこいつも、なんて思っていたらしい自分を発見したのもついさっきでした。自分は、自分をどうしたかったのか、何から、どこに行きたかったのか、一つの言葉にまとめられるほど、蓄積していた鬱憤は小規模ではありません。違う自分になりたかったのかもしれません。自分なんて、やめてやりたかったのかもしれません。自己の崩壊にでも、出会いたかったのかもしれません。今出せる答えは、はっきりしたものではないけれど、多分、自分が、今の自分でさえなくなるなら、何だってよかったのです。返答としてウスルがなんとか言葉にできたのは、忘れたいことがあってそれがきっかけでバスに乗ったこと、自分でもわからないけれど多分自分じゃないものになりたかったということでした。発話するのが思いのほか難しく、ほとんど詰まりながら、最低限のことを最大限の時間をかけて表現することになりました。発話するのが難しかったのは、嗚咽しかけているからでした。目と目の付近の、自分では把握できない部分がじんじんして視界が滲み、滲みの原因らしい瞳にかぶさる涙のレンズから一滴溢れ落ち、それを追うようにぼろぼろと全てが溢れ、それをも追うように次々と涙が分泌されました。それを知覚したのがあまりに遅く、しまったと思った時には自制が難しい段階でした。異常分泌されている体液を垂れ流す自分を、どうすればいいのか、ウスルは知りません。こんな時、どうすれば普通に発話ができるのでしょう。謝ろうとも、息すら難しく、声が出せません。体液で滑る顔面をどうすればいいかもわからず、とりあえずこの施設の備え付けのものだし一番迷惑がかからないだろうと判断できたローブの袖で拭い、間に合わせました。ラバランにその自分の様子を見られているのが我慢ならず、拭った姿勢のままで顔を伏せました。顔を隠すと何故か余計に泣けてきます。もしここに誰もいないのなら、声を上げてわんわんと泣きじゃくったのかもしれません。わんわん泣くというのは、正常なのでしょうか、異常なのでしょうか?こうして泣いている自分を目の前にして、この男は何を思っているのか?涙が出た理由も、未だにわかりません。こんなことは初めてです。彼が自分の言葉を待っていようが待っていまいが、ラバランに対して、何らかの話をしなくてはいけません。それはきっと泣いているよりかは遥かにマシであるに違いないので、はやくそれをしなくてはなりません。泣くってことはそのくらい、どうしようもなく他人の足を引っ張る行為に違いありません。泣くのをやめなければ、普通でいなくては、何か話さなくてはと口を動かそうとしていたら、ちょうどラバランが「お家に帰りたい?」と尋ねたので顔を隠したまま、帰りたくない、と言って、くぐもって聞こえなかったかもしれないので首を振る動作も付け加えました。帰りたくない、そう、ぜんぜん帰りたくありません。これだけこわい思いをしても、疲弊しても、この男が仮に、君を住まいまで送ろうと申し出たとしても、ウスルはあの場所に、今は戻りたくはありませんでした。戻ったら、ぶっ壊してしまう気がしました。全部ぶっ壊せるならそれでいいのに、自分ごときにそんなこと、できるはずがなくて、やってもやらなくても何がどうなっても、苦しい思いするに決まっています。帰りたくない。声に出してしまうと、腹部がきゅうっと痛くなり、ますます涙が止まらなくなりました。鼻水も出ました。うっとか、ううとか、出したくもない声まで出るようになりました。何も言わずいきなり飛び出してきたし、帰らなきゃいけないのに、帰ったら、ひとりぼっちでザインとのことに精神的なけりをつけなくてはいけなくなる。帰ったら、ひとりぼっちで把握も解決もできない途方のないものを、また抱えなきゃいけなくなる。「逃げたいけど、逃げられない?」ウスルはうんうんと頷きました、どろどろに濡れたローブの袖で目を覆っていると、湿った狭い世界に閉じ込もっているようで、少しは安心できました。まだもっと、少しでも安心できる場所に帰りたくて、家じゃないところに帰りたくて、もっともっと閉じこもっていたくて、スリッパから素足をソファの上に引き上げて、膝を抱えました。ラバランはきっと変わらず目の前にいて自分を見ているはずですが、こんな姿勢をしていると、それも気にならなく、むしろ、ひとりになんてしないでほしいような、把握すると把握するだけ眉間に皺がよるような、胸が締め付けられる気持ちになりました。「君、名前は?」ラバランが質問さえしていてくれれば、泣く以外のことができるので、何でも聞いてほしいような気がしました。ウスルだと答えて、ラバランにウスル君、と呼ばれて、なんだか、ますます帰りたくなくなりました。

「ウスル君、知らない人には、名前を教えてはいけませんよ」

ラバランは優しさの対極の暴力と共に現れて、ウスルの知らない柔和な声色で、自分をこんなにしてしまいました。ウスルは膝にぎゅっと爪を立てて、膝におでこをすりつけ、鼻をすすります。

「もしかしたら君は、君が望まなくたってお家に帰れないかもしれない。私は最初から君だけが目的で、あの男を殺したのかもしれない。二人きりになれるように知恵を絞って、まんまとそれを達成している、悪い大人なのかもしれない。」

ウスルは膝から顔を少し上げて、跪くラバランの顔を見ました。嘘みたいに優しい顔をしていました。優しい顔立ちではないのかもしれないけれど、人懐っこく見えました。人懐っこいのかもしれないけれど、冷酷にも見えました。遵法的にはもう、見えませんでした。この男はきっととても自分勝手な理由で、とても自分勝手な方法で、欲しいものを手に入れることに抵抗なんてないのでしょう。「君だけが目的」、その言葉の意味がわかりませんでしたが、自分がこの人にとって何らかの価値があるかのような言い草で、混乱しました。ウスルには、どうなるのかも、どうすればいいのかも、どうしたいのかもわかりません。何故か涙は少しましになっていて、目はラバランが視界に入るくらいに見開いていて、頭が急に冴え渡って、震える指先はそのまま、自らの膝に爪を立てていました。ラバランが少し近付いて、ラバランの体温も少し近くなった気がします。

「可哀想に。知らない人にはついてっちゃいけないって、誰も教えてくれなかったものね」

ぶっ壊すチャンスかもしれません。この男に一番近い自らの体の一部がびりりとして、爪がさらにギリギリと膝に食い込みました。誰も大事になんてしてくれなかった自分を、考えたくないことを考えすぎる精神を、脆弱すぎる高潔の砦を、何も成さなかったくせに一丁前に自分をズタズタに傷つけた恋心を、思いもつかないものだって、なにもかもを、ぶっ壊すチャンスではないかと思えました。どちらにせよ今は心底帰りたくありません。そうです、違う自分になりたかったのですから、自分なんてやめてやりたかったのですから、自己の崩壊に出会いたかったのですから、自分が、今の自分でさえなくなるなら、何だっていいんだって、さっき自分で自分に言ったところなのですから。ウスルは頭が痛くなって、瞳をゆっくり、目を合わせない程度に、ラバランの方に向けました。

「自分ではじめた不貞に、きりをつけたくはないですか?私に君を売ってくれれば、私は君を家に帰してあげないでいられる」

一日に二度、売春の提案をされるとは。しかしウスルにとっては、もうさっさと聞いてしまいたかった言葉でした。この、悪い大人かもしれない男は今や、ウスルも知らなかった、誰も知らないウスルの弱さを一番察している人物に相違ありません。この男にすがることはとても恐ろしい決断に思えましたが、ウスルには帰らないで済む上に自分じゃない自分になれるかもしれないこの提案を蹴る強さなんて残っていません。そもそもウスルからは、聞かれれば帰りたくないという意思表示はできても、帰さないでほしいんですなんて言えっこありません。この条件にたどりつけるならば何をしてもいいとすら思っていたのに言えやせず、幸いラバランの口から提示され、ウスルは、かえって何も言えなくなってしまいました。おぞましい自分を見つけたからでもあります。あまりに何の抵抗もなく、いや望んで、売春を嬉々と受け入れようとしている自分がそこにはいました。絶対人に知られてはいけない、恥ずべき自分でした。ちょっとぞっとして、こんな自分がいたのか、いや、こんなの、自分じゃない、それを言い聞かせるしかなくなりました。地獄のようだった今日にキリをつけたいからであって、相手が望んだ取引を、仕方なく受け入れるだけだと自分に言い聞かせました。自分が自分でなくなることを望んだのは確かですが、捨てたいわけではありません。キリをつけるためだともう一度自分に言い聞かせて、少し息を吸って、ラバランの乾いた口元を見て、さっきよりは落ち着いた声で、しかしそれでもたどたどしく恐る恐る、自分は処女だし、童貞だし、お役に立てるかわかりません。と言いました。処女も、童貞も、ファーストキスも、思想の理由で、絶対に守らなければいけなくて、だから、自分には商品価値がない、その旨も伝えました。これで、この人に幻滅されて全てなかったことになることも覚悟していましたが、ラバランは少し笑って、君はそこにいてくれるだけでいい、と言いました。

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