第5話

掴めない男だと思いました。ラバランはまだウスルに対して好奇心の目を向けていています。ウスルにはこの男の立場も、役割も、位も、目的も、なにもかも、ますますわかりませんでした。

「ああいうのは、はじめてだったんでしょう。怖かった?」

ウスルは怖かったとも怖くなかったとも言えません。あの行為は想像を超えていて、自分はそれに怯え、我慢の上に成り立っていたのですから、怖くなかったはずがありません。けれど合意の上に成り立っていた行為でもありました。しかも自分は彼を殺したらしいときました。怖かったと認めたりして、自分があの時あの男と交わした契約に基づく責任を放棄することは、気質上、ウスルにはできません。ウスルが返事をしないでじっとしていると、ラバランは少しだけ首を傾げて笑って、ウスルの様子を伺うような前かがみをやめて、椅子に深く腰掛けて、足を組みました。

「私には君が、嫌がってるようにも怖がってるようにも見えたよ」

ウスルは首を振って、自分も合意して、受け入れたことだから、と伝えました。それは、自分の責任だから、だから、嫌がったり怖がったりはしていてもそれを認めては、ずるいのだと考えています、とラバランに意思表示をしたのと同じでした。その意思表示はウスルが思っていたよりも、何故かウスルを縛り付けました。何故か昨日までの自分に取り込まれた気がしました。取り込まれて、少しは冷静になった頭で今の状態を観察し直すと、この人物は何故かはともかく自分達の売買春のやりとりのすべてを知っていると判断できましたし、加えてこの街の関係者で、売買春に関して、利か、害かを被っている人物なのだと、そして今回の件に関しては害を被ったのだと予測できました。それらを把握するとより冷静になれました。自分はこの街で身を売り、商売をし、経済活動に参加した人間としてルールを破ったから、それを正されるだけだろう、と。それと同時に、鉄格子の中でふわふわのクッションに埋もれていた少女たちの幼さを思い出し、自分の幼さも彼女らの幼さと大して変わらないことに気付きました。この街において子供は子供で子供の武器を使って大人と同等に生きているようでした。ここでは自分がなりたがっている意味の子供には、死んでもなれない気がしました。この街は別に自分を子供として守ってくれるわけではない、だからきっとこの人もそうだということに気付いて、自分が何を期待していたかにも気付いて、やるせなくなりました。この世に、自分が甘えられる場所なんてないことを、どうして忘れていたのでしょう。この男の「君にはそんなことしてほしくないんです」という言葉は、祈りのポーズで地に崩れ落ちていた自分に、いくらか甘く響きました。きっとそのせいです。そのせいで、自分は少し酔っていたのです。ウスルには自らが男の言葉を、男が放った意味よりも自己肯定的に解釈し、求めた助けに近いと、求めた救いに近いと、勝手に判断して、勝手に期待してここにいる、哀れな勘違い野郎に思えました。この男はきっと、自分の望む、子供や、大事な人に対しての振る舞いを、自分にするわけではないのでしょう。不都合な因子を目減らしする為に、ど素人の商売人を叱咤するのみなのでしょう。この先、この男は幾分も自分を子供扱いはしない、この世は自分には、そんな柔らかな一面を一度も見せやしないし、見せたと思ったら、それは100パーセント罠でしかない、そうに決まっている、裏切りとかいうやつは、こういった自分の勝手な期待から生まれるのだと、自分に言い聞かせました。言い聞かせないと、ウスルは泣き出してしまいそうでした。悲しくも、そんな自分を強固に凝りかためていてくれるものこそ、昨日までの自分でした。

「君はきっと何も知らないまま、身売りをしたのだと思うのだけれど、無知だからとか、無能だからとか、貧しいからとかでそういう行為に走る子にも、到底見えません。差し支えなければ、どこから来たのか教えてもらえますか?」

ウスルは自分の元いた場所を正確に伝えることはできませんでしたが、此処には、左回りのバスで、6つくらいで着いたことを伝えることはできました。するとラバランは驚いて、「お家には、君が身売りをしては、悲しむ人がいるのではないですか?」と問いました。驚かれた意味は、遠いから、その地からの来訪が珍しいから等々予測ができますが、質問の意図は、てんでわかりません。ウスルはほとんど考えず、いませんと答えましたが、ラバランはそんなはずは、と言いかけてやめました。ウスルには、ラバランがそんなはずは、という意味もわかりませんでした。けれど本当にひとりも思い当たる人物がいないので、自分が身売りして悲しむ人はいませんと、もう一度言いました。

「君はお家に一人なのですか?」

質問されるたびに、お咎めからは一歩一歩離れていきながら、ウスル自身が注視されていくような感覚がしました。ウスルはこの世界での住民歴は浅いとはいえ、もうチームを組んで彼らと一緒に住んでいるし、他チームもふたつほど、近くに住んでいるので、いつもひとりぼっちにはならない、なれない毎日を過ごしていました。ウスルの所有するペンションは今だって、結果的にウスルのものでない持ち物で溢れています。チームメイトと住んでいます、とウスルは答えました。続けてその住まいの所有者を問われて、自分だと答えると、ラバランは少し深刻な顔をして、ウスルがチームで一番年長か、チームリーダーなのかを問いましたが、どちらでもなかったのでそれを否定しました。ラバランはますます深刻な顔をして、「どうして君が所有者になったんでしょうね」と言いました。それはウスルに尋ねるでもなく、ウスルと一緒に考えるような言葉遣いでした。

「所有権は譲渡されたものですか?」

実際にそうだったので、ウスルは軽く頷きました。今住んでいる住居は、この世界に住むにあたって、近くに住んでいるチームの、地主のようなことをしているらしい人物から地面ごと譲り受けたものです。その際の管理者がウスルに決まったのはごくごく自然な流れでした。元の世界でも家を持っていてそれを管理していましたし、人を住まわせていました。だから仲間も自分も、ウスルがこの世界でもそうするのが当たり前だと思っていて、仲間内で異論を唱えるものなんて一人もいませんでした。けれど、そういえば、こういうのはこんなに当たり前に、君に押し付けていいものなのか、このお兄さん達の誰も、この責任を負う気はないんですかと、自分に問うた人物がいたことも、思い出しました。その時は気にも留めなかったものの、言われてみれば、普通はそうです。感覚の麻痺とは、当事者が感知してそこから逆行できるようなものではないのでしょう。ラバランは何かを考えているような表情をしています。

「君が住んでいるそこら一帯の地面には、この世界の最重要人物くらいでないと所有できないほどの価値があります。もしかしたら、君の想像以上かもしれない。それが誰の所有物かは割と有名な話で、その人物はそう簡単に土地を譲ったり分け与えたりしません。それを譲り受けたと聞いたら、君が誰の近くにいる人物か、君がどういう人物かも、大体わかりました。」

君には荷が重すぎる、とラバランは言いました。ウスルは、そこで荷が重くはないかと質問されないで助かったと思いました。思ってはいなくても、助かっていました。そこで荷が重いかと聞かれても、それが役割ですからとしか、今の自分には言えないでしょう。この口は、この口を持つこの体は、この体を操るこの頭は、いつの間にこんなに、本当のことを言えない呪いに身を浸していたのでしょう?

「私は、君がこれから生きるために必要な一歩として今日、売春を始めて、そのままこの街のようなこういったところで、こういったことをして生きていくつもりでいる子なら、君の商売スタイルにだけお叱りいれて、それで終わるつもりでここに来たのだけれど、」

ラバランはもはや何も責める様子はありません。ウスルにはこの男が何を考えているのかわかりませんでしたし、男が少し優しく話すのが、とても悔しいというか、悲しいような気持ちでいました。関係ないと思っているくせにと、思えました。ラバランはそこで言葉を区切り、その後何も言わないで、そして少し間をおいて椅子から静かに立ち上がり、座るウスルに近付いて、ソファの肘掛けに手を置いて、ウスルを見上げるように跪きました。自らの勘違いを生んだ、優しげな言葉を聞いた時も、こうして見つめられたのを思い出して、ウスルは自分をより勘違いさせかねない優しさみたいな得体の知れないものから、そういったとても怖いものから、少しでも離れるように、身を後ろに引きました。ため息のような音を立てて、大きな白い犬の背もたれが潰れます。

「ここにきて売春していた理由を教えてください」

存外、きっぱりした口調でラバランは言いました。なんだか声を出しても声になる気がしなくて、ウスルは反射的に首を振りましたが、その程度で諦める気はないのか、言葉の割に柔和な声色で「言いなさい」と詰められました。

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