第4話
バスルームから出てはじめてきちんと見た室内はやはり貧民街じみたこの街には到底似合いません。ウスルは自分の家じゃないところにこんなふうにお邪魔したことがはじめてで、どこに落ち着くべきなのだろう、といろんなところを順番に見ていました。ラバランに、部屋のはずれにある大きな、白い犬の様な一人がけのソファにかけるよう促され、ウスルは少し遠慮するように浅く腰掛けました。けれど浅く腰掛けようにもソファは疲れたウスルを沈み込ませて、柔らかな長い毛足の表面で腰回りをすっぽり包んでしまいました。背筋はなるべく伸ばしていますが、包容力のありそうな背もたれに体重を完全に預けてしまえば、ベッドと同じくらいすやすやと眠れそうな素敵なソファです。何から何までこの街には不相応なので、もはやこの街のことなんて忘れてしまうべきなのかもしれません。
ラバランは部屋の中心のテーブルに配置された木製の椅子の、白いソファ側の一脚に座って、椅子ごと体をウスルの方向に向けています。ウスルを見ているのです。ソファに遠慮がちにかける仕草も、意地でもソファに全体重はかけない控えめな態度も、全て見ていました。ラバランの色素の薄い唇はほんのちょっとだけにっこりした形になっているようで、ラバランの目は、その目線の先にあるものが興味深くて仕方ないけれど、それを隠しているような、微細な光を湛えています。
「はじめに少しだけ、お咎めしないといけないことがあるんです」
ラバランはウスルの目を見ていますが、ウスルはラバランの目を見ることはできません。他人の目を見ることは彼にとって、絶対に目を向けないできたとても特別な鏡に目をやるのと同じくらいに難しいことでした。ウスルがそうしてラバランと目線を合わせられないでいても、ラバランはずっと、ウスルから目線を外しません。
「君って、あんなことする子なんですね」
身体中の血管が寒くなるような熱くなるような締め付けられるような弛緩するような心地がしました。ウスルは背筋を伸ばし目を伏せて、視線は絶対に合わせないまま、何も言わないでいました。首を縦にも横にも振らずにいるのです。あんなことの意味もわかります。性的なコミュニケーションのことを言っているか、はたまた売春行為を言っているかでしょうし、それらが罪だと言われているようにも思えます。ウスルは昨日までは、一度たりとも不貞と称される事物に手をつけたことはありません。生きている間に一度もです。自らその澄んだ生い立ちを言葉にしなくても姿勢や匂いや仕草にそれが現れるほどに、可憐な白百合のような少女よりもなによりも、穢れとは縁を切って人生を送ってきました。ただ、それが今日で爆発し崩壊する程にはウスルが日頃から、自分でも知らないうちに鬱憤という火薬を溜め込んでいました。慕っていたザインに防波堤を乗り上げられたことはそれはそれ、きっかけ、火種に過ぎず、それが長らく少しずつ蓄積していた大量の火薬に、たまたま着火しただけです。けれどウスルは自らが本質的に清らかだからといって自分の今日の不貞を、罪を、認めたくないわけでは決してありません。お咎めがいやというわけでもありません。それどころか今日をきっかけに、何もかも台無しにしてしまえればいいのにと願う、僅かな陰りを確かに持っていました。黙って俯いているのは、自らの不貞なんてものは自ら開示できる情報ではないからです。答えたくないわけではない、知られたくないのではない。けれどウスルからはそうですとも、ちがいますともどうしても言えないのです。聞かれるだけでは足りません。見たのなら、知っているなら、いいえ、見ていなくても、知らずとも、決めつけてかかってでも誰かに発見してほしいと思いました。だってそうすれば楽だから。強いられれば、しかたなくなら、言い訳が可能なのなら、自分で自分のやましいところを確認することができる気がしました。そういう卑怯な意識みたいなものを自覚すると、心の芯のかたいところが顔を出し、お前はなんてずるかったんだ、それがお前の本性か、と後ろめたい自分を問い詰めます。現実ではラバランが後ろめたい自分を見ていて、他人のピントが自分を焼くようなむずむずとした感覚が延々と続きます。自分の何かを責めようとしているこの男は、先ほど対面していた買春男を撲殺したような男ですから、自分を買うとか、それよりも規律の無い方法で、自分を台無しにするのかもしれません。それでもウスルは自分で自分を責めても、他人が自分を責めても、それがどんな仕打ちであっても、すべての人から無条件に許されているよりはずっと、自分にぴったりだと思っていました。
「場所を変えなくてもいいですか?ここは彼が泊まっていた部屋ですから」
ウスルは、何故今ラバランにそれを提案されたか察しがつきませんでした。ここが少なくとも一回は買春男が出入りした場所だとは知っていました。昏睡した男のジャケットのポケットに手を突っ込んで、ここのキーを略奪したラバランを、ただどうすればわからず見ていたのは、たった数分前のことですから。この男が考えていることがわからないので何も言えず、ウスルは首を振りました。ラバランはそれを聞いて目を細め、何故か心底嬉しそうに口角を吊り上げました。
「それはよかった。君は異常にいい子なようだから、自分がルールを破ったから彼が人生を失ったと知ったら、責任を感じるんじゃないか、彼の痕跡が気になってしまうんじゃないかって心配だった」
ウスルは、自分の心臓が少しだけぴくりとしたような気がしました。自分の行動を省みても、言葉の意味が、はっきりとはわからず、思わず目を細め、どういう意味ですかと問うていました。
「ここでは、先ほど君が提案したような、対価を支払わない買春はルール違反なんです。仮にそれが、身を売る人物の合意の下だとしても。」
ラバランは、変わらず笑っていて、まあ、なかなかないんですが、と付け加えました。
「彼はこの世界の人ではない、ってわかりますか?観光客とか呼ばれる人種です。彼らはみんな、ここには少ししか滞在できないけれど、彼は他の観光客と違って何度もこの世界に招かれていて、遊び方も、礼儀も、きちんとわきまえた、私も面識のある、顔の知れた上客です。この世界への移住を目標にしていて、もうすぐ名をもらえるかな、体をもらえるかな、と楽しみにしていたようですよ。もうここには来られないと思いますが」
本当に自分が悪いのか、はたまた実際には悪くないのかわからず、喉がからからに乾いてきました。ウスルは自分が呑気に罪を自覚していないとすれば、と思うと、自分が少しでも罪を自覚するヒントになり得るラバランの言葉を、聞き逃すことができません。
「君も彼も何も知らなかったから、私はより責任を負うべき方を、何も払わず君を奪った彼の方を罰しました。君には罰は与えないけれど、そのかわりこういったお話をして、これからはきちんとしてもらうように矯正する。無知って恐ろしいね。私も少し前まで、一番恐ろしいものは無知でした。無知は、君みたいなのの首をよく締める。知らなかったから仕方ないなんて、君、言えやしないでしょう?」
確かに、無知は罪だと、ウスルにも思えました。ここのルールは知りません。でもルールはここに存在してる。男と自分はそれを破ったらしい。だから男は罰を受ける。けれど自分は罰を受けないときました。ウスルにはそれでいいのかわからず、思わず自分の指を噛みそうになりましたが、気付いて自分の手を制しました。するとその様子を見たからかラバランが少し笑って「この話や彼の事は、これ以降は気にしないで。だって君はもう怒られるっていう、軽い罰は受けたじゃないですか。」と言いました。ウスルはその言葉で初めて、自分が怒られていたらしいことを知りました。
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