第3話

尻をぺたりと地面につけて座り込んでしまったウスルが閉じた目を開くと、能面顔の男は凶器を手放していて、細い目を更に細め、ウスルを見下ろしていました。笑っているようにも見えました。怒っているようにも見えました。しかしどんな顔をしていようと、この男が突然観光客のどたまをカチ割り昏睡させた、自分と同等かそれ以上の住民権を持った、自分に危害を加える可能性の高い男であるという事実には変わりありません。それでも、ウスルにはこの男が異様に遵法的に見えました。絶対的な正義を以ってしてもこの男の非道を裁けないくらいには、この男が絶対的な正義を以って、非道を働いているように思えました。男の顔は綺麗ではありません。ただ、ある種完璧でした。自分の知らない約束に則って自分の知らない美学で整地された土地のように。特徴的な引目と鷲鼻は、とある文化の中では醜悪、とある文化の中では最高峰の美貌と称されることを想像させます。その男を見ても、声もなく崩れ落ち地面に突っ伏した買春の男を見ても、ウスルには驚くほど自分が置かれている立場がこれっぽっちもわかりません。こういうときどうすべきか、その答えに辿り着けなくても、今までのウスルなら頭をフル回転させて考えることだけはしたでしょう。今の彼にはそれすら到底できません。つい先ほど多種多様なものから助けてほしいと願う自分を発見してしまって、思考の腰が抜けているのです。一度そうなった頭は、現状を打開しようなんて方向には動き出しやしないのでしょう。今までちょっとした危機を脱したり、仲間の支えになったり、知恵を動員して身体を駆使して局面局面をどうにか、ちっとは、マシに変えてやろう、と振り絞れた力は一体どこから湧いていたのか、忘れてしまっていました。今日で自分がおわるのかもしれないことを漠然と感じます。いろいろあったけどもまあ帰ることができて、「ひとりでそんなところ行ったら危ない」とか、「もう行っちゃだめだ」とか、「君が大人になったら一緒に行こう」とか、誰に提案してもらうなんてことは起こるまでもなく、今ここで自分はおわるのかもしれません。けれど実際は無事帰ったところで誰もそんな年相応の扱いはしてくれず、どいつもこいつも肝心な時には呑気で、広すぎるペンションの名義はなぜか自分で、それを提供して管理しているのも自分で、自分の責任を持つのも、なんなら誰も拭かねえ他人のケツを最終的に拭くのも自分です。自分が泣いていい時間なんてこの世に一秒もなく、自分が泣いていい場所なんてこの世に一畳もない所為で、ウスルはつつけば崩れおちそうな複雑な顔をしてしまいました。その顔のまま自分のおわりを大人しく待っていると、能面男はウスルの元に跪いて、ウスルの右耳を白いハンカチで押さえ、ウスルの顔を覗き込みました。そしてとてもとてもやさしい声でゆっくりと、「君にはこんなこと、してほしくないんです」と言いました。





バスルームは割に広々としていて、ウスルはこの街にこんなに設備の整ったバスルームがあったのかと不思議に思いながらシャワーの温かい湯を浴びていました。こうしてひとりぼっちの個室にいると、さっきまでのことが夢だったようにも、今が夢であるようにも感じます。能面男はラバランと名乗り、ウスルをあの路地のほんの近くのわかりにくい通路からこの観光客用ホテルに案内しました。敵意はない旨を一応、説明されはしましたが、まして夜ですし訝しげな点の多い人ですし、古来から大人が若人に言い聞かせる文句の通り、知らない人にはついていっちゃいけなかったのかもしれません。けれどウスルは参っていました。ザインとのことに、夜の寒々しい外気に、長いバス旅に、知らない文化の知らない街に、なめてかかったつらいひとときに、大層疲れてしまって、ここに来れたことが幸運だと、可能ならもうこのホテルで朝まで眠りたいとまで考えていました。部屋にはこれまたこんな街にこんなにふかふかしたベッドがあったのかと不思議に思うほどの立派なベッドがあり、ウスルはそれを見てしまっていました。街の騒がしさや怪しさを忘れてそのふかふかなベッドの白いシーツを思い出すと、この部屋がまるで一片の心配もなく安全な場所であるかのように思えて、どっと疲れた心の内を隅々まで把握できるのでした。どっと疲れたのは出来事のせいだけではありません。普段の自分の立場のおかしさみたいなものを受け入れてしまったからでもあります。思考の腰の抜けた今の自分が、帰ってからみんなに対してどの程度のパフォーマンスを発揮できるかを思うと帰るのが億劫で、常に精神が絞られているような気分です。加えて、これからどうなるかとか、買春男は死んだのかとか、いろいろ巡る思いもありましたがそういった余計疲れることは極力考えないようにしました。特にラバランにひょこひょこついてきてしまった自分の落ち度に関しては、無理矢理頭の隅に追いやりました。それをもっと隅に隅にやってしまおうと、力一杯シャワーのコックを締めきり、毎日しているのと同じ仕草で、髪の水気をできるだけきりました。ウスルは今日みたいな日でも結果的に、いつもとそう変わらない時間にシャワーを浴びることができていました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る