第2話
うるさいような静かなような閉塞感のある通路を進んで行くと、道の先の方にさっきバスから見えた、空に伸びる街のような建物が見えました。空に伸びる街というのは、建物の中にまた別の建物とか、橋とか電柱らしいものとかが混在している作りからくる印象です。きっとあの建物では地図が大いに活躍するでしょう。恐らくあれがランドマークで、あれの麓も街街街で、この界隈でいう中心街であり、自分がまともな観光客なら、まずはあちらを目指すと思いました。ここは貧民街のような、何らかの事情であちらに勤めることのできない人達の街なのでしょう。でなければここからあそこが、こんなにも輝かしく見えるはずがありません。とりあえずあれを目指そうと心に決めた矢先、何処からか、壁越しの喧騒とは別の物音がするのに気付きました。ウスルは俗に耳がいいと言われている人種ですが、音を聞き分けることが苦手です。下手すれば、音のする方向すらわからないこともあります。この音の気配もまた、自分の行く先か、はたまた来た道か、どちらでもない場所か、自分の意識の中からか、どこからしてくるのかわかりませんでしたし、ただただ音のせいで前に進むのも後に戻るのも怖くてできなくなった、それだけで、耳はちっとも彼の助けになりませんでした。惨めな街の裏路地で、得体の知れない物音に怯えて、ほとんど震えてしまって、立ち止まっている若すぎる自分の底無しの力のなさのような、意識しない方が都合がよかったものに支配されていく頭を感じながら、彼はどうして自分はひとりでここまで来てしまえたのだろう、来てしまえるのだろうと、悲しくなりました。誰の了解も得ず、ひとりぼっちで。少年と青年の間と称することができるほどに若いのに。彼は生来、誰かを庇護したことはあっても、自分が庇護されたことはありませんでしたから、自分に力がないことにさえ、目を向ける暇がなかったのです。「若すぎる自分の底無しの力のなさ」を、ウスルは人生で初めて認識したのかもしれません。すると芋づる式に、自分が誰かに助けてほしいのだということもわかってくるものです。そこまで来ると、普段自分の体を硬直させている義務や責任のようなものがばかばかしく思えて、なんだかそれに怒りが湧いてきました。とりあえずここでは自分は少年であり、きっと今なら人生のどの地点でしてきたよりも子供のフリができます。その架空の子供は何かから助けてほしいのに、何から助けてほしいかすらわかっていないのです。物音は近付いてきています。その物音を人の足音だと定めて少し、それが背後から近付いてくると定めて少し、それに対して逃げるか逃げないかを考える間もなく、背後から、おいとか、へいとか、ねえとか、そういった意味のあるらしい男の声がしました。怯えた様子を隠せるだけ隠して振り向くと、やはりそれは自分にかけられた声のようで、鼻の高い髭面の男がウスルを見ていました。この世界の住人にしては色がなさすぎるその男は、かんびあんとか、こんびやんとかに聞こえる、異国の言葉でウスルに何かを問いかけます。もちろんウスルにはその意味がわかりませんでしたが、男は間髪入れず「いくら」と口にし、ほぼ思考が停止していたウスルにも、間を開けてその意味がわかりました。たった今、ウスルは売春の対価の交渉をされているのです。
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ウスルはこの世界の生まれではありません。欠落しているわりには決定的な常識として、ウスルにはこの世界でやりとりされている金銭、貨幣といったものの仕組みがまだ理解できていませんでした。それどころか、この世界で金銭、貨幣といったものを見た記憶がありません。かといって商品の交換が直接行われている現場を見たことがあるわけでもなかったので、今動員できる知識は0に等しく、売春においてウスルが提示したい「いくら」に相当する返答を算出することができません。指を折り曲げて適当な数字を示すことも考えましたが、それで何が伝わり何が対価として返ってくるのかまるで想像できないのです。そうしてウスルはしばらく固まっていましたが、男は何もせず辛抱強く待っているようでした。どうすべきか考えていた時ふと、自分は言葉が通じない相手への対価の提示という現実的な問題を直視できている程度には、売春行為に抵抗がないのだと気付きました。抵抗がないどころか、今まで自分をあちこちから雁字搦めにして、今回の自己の崩壊を招いた原因であるザインへの愛着なりザインへの庇護責任感なり高潔の崖っぷちさなり普段自身が求められて実際キープしているイメージなりをやけくそにかなぐり捨てる方法として、売春というやつは手っ取り早く、そんなに悪くないのです。「いらない」とウスルは言いました。対価を求める必要はありません。売春行為だけで双方に利があるなら、こんなに平和的なことがあるでしょうか。男は頷きました。それと同時にベルトをカチャカチャやり始めました。ウスルには彼が話が早くて簡潔な男に見えました。加えてまるで興奮も何もしてないかのように見えます。ウスルは目を閉じました。自己の感覚をなるべく追い出す為です。仮に貞操に危機が及ぶようなことがあれば、躊躇なく危害を加えればいい、そう言い聞かせました。観光客程度、一応この世界の住民権を持っているウスルなら少しの工夫で無力化できます。それを男も知っていたから、ウスルの返答をじっと待っていたのですから。
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男の求める行為がどんなものかを予測していたかと言われれば何も予測できてはいなかったのですが、なんにせよ求められた行為は予測から大きく外れていました。ウスルは立膝の姿勢で男に対して背を向けることを求められ、そうしています。少し湿っぽいような冷たいだけなような石畳が、膝に食い込んで、痛いし、だから、これが早く終わってほしいのだと言い聞かせました。フェラチオや手淫を求められるでもなく、動かず、ただそうしているだけです。使う用事もないので手はやり場をなくして腹部近くで祈るように組まれ、組んだ右手と左手を見つめる為に、こうべを垂れています。背後にはぴったりとくっついた男の気配があり、肌と陰毛の妙な暖かさがあり、腰の動きに合わせて男のズボンのかたい布のずれる音と、荒い息遣いが聞こえます。目を瞑ってしまうと目で得られる感覚以外の全てに集中してしまいそうで、少しでも音やにおいや背後の感覚ではない情報を脳に送ろうと、つぶさに自分の手を、指の順番を、手袋の布の起伏や縫い目や織られた格子状の糸の一本一本を、観察するしかできません。少しだけ髪をかき分けて、右耳と右角に触れている男の陰茎が右目の真横に張り出していることなど、時折耳の穴が先端で塞がれるような感覚があるなど、それがどんなものであり、どんなにおいがしているかなど、わからない、関係ないふりをするしか、ウスルには自分を守る術がありませんでした。てっきり売春というものはもっと劇的で、劇的であるあまり、一瞬で終わる行為なのだと、思い込んでいたのです。だからこの膝が冷たくて、痛くて、なんとなくいたるところが温く、慣れても、息を止めても時おり、生々しいにおいが鼻を通る、明らかに決定的なものがあまりに近くを行ったり来たりする地獄が至極静かで緩慢であることが救いようもなさすぎて、右手を握る左手は、左手を握る右手は、ますます互いを傷つけるくらいに強く結束しました。結束するのですが、見開いた目の先にある組まれた手に何故か影が落ちて、反射的に上方を見た時ほど、その手が強く結びついた時はありません。強張った祈りのポーズをそのままに、顔を上げたウスルがその目に焼き付けたのは、空に伸びる街の後光を背負い、辞書ほどの大きさの岩石を片手で振り上げる、能面のように冷ややかな目をした金髪の男の姿でした。
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