醒めない夢では眠れない

杓井写楽

第1話



その男、ザインは、生きているだけで過剰に三半規管を揺さぶられて、一日に一回は嘔吐しました。食事をした日はその食事を、食事をしなかった日は退化した水っぽい胃液を吐きましたが、それだけではありません。誰の目に見えないものも吐いていました。彼は目に見えないものをいちいち言葉にして理解を求めるほど、誰にも興味がありませんでしたし、それと同じように欠損していく自らにも興味はありませんでした。目に見えないものがこの世にあるなんて思いもしませんでした。ザインには目に見えないものが見えていたからです。目に見えないそれは、人が人の形をする為に必要な部分を、寒天のように固めて守っていました。それはものを吐く度に溶け出したり、転がり出たり、走って逃げたりしました。ザインにはそれが見えていて、そして見ているだけでした。この世に酔って、吐いて、毎日何かを失い続ける彼は、ウスルに手をかけた男は、ウスルと共に死んで、逃げ出したかったのかもしれません。それは世界からとしか言いようがありませんでしたが、世界から逃げ出したところで現状が改善されるわけではないことを彼はわかっていました。ザインにとって自らの限界のその色のようなものを、わかってくれる人がいるとするならウスルだけで、共に死ぬならウスルしか、選択肢はありませんでした。しかし、ザインが脱出を望むこの世界でウスルと心中するには、ウスルを犯し、ウスルに犯されるしか方法はありません。







発進する瞬間、という時にバスに駆け込んで、ウスルはついに息ができない時が来たと思いました。息ができないというのは錯覚で、実際には息切れしているだけで何も変わりはなく、ただ先程、裏切られただけでした。ウスルはザインに犯されそうになりました。変わりないのは物質だけで、たった一刻を隔ててウスルの世界はひっくり返ってしまいました。大きな手で首根っこを抑えつけ、縋るように理解を求めながら自らを犯そうとするザインは、行動だって、言葉だって、ウスルが知るどんなザインより切実だったのを思い出し、ウスルは唇を守れたことすら奇跡に思えて、唇を内側に丸めるようにして少し舐めました。自分が動き出すタイミングなり、部屋のものの位置取りなり、ザインの疲労の度合いなり、何かが「少し」ズレていれば彼はファーストキスも童貞も処女も失っていたでしょう。その少しは本当に「少し」でした。清らかさ、純粋さ、高潔さ、とにかくそうでなければいけない自身の存在の危うさを認識せざるを得ず、うな垂れるように一番近い席に乱暴に腰掛けました。こんなに暗くもなると、乗客は一人もいません。ウスルの乗ったバスは左回りの運行経路をたどるものでした。一度も乗ったことのないバスだと気付く頃には、あと少し落ち着きさえすれば、ザインの気持ちが理解できる気がしたのですが、彼の頭は理解を拒否しました。ザインが自分よりも誰よりも、生きているだけで危うげなのは承知していましたが、それでもなんだかんだウスルが清純を守っていることには最後まで、共に生きるなら永遠に、理解を示し、協力していてくれると信じていました。(疑ったら共になんていれないからといえばそれまでなんですが)仮にザインが、ウスルの純潔を守る行動に理解を示す余裕がなくなるほどに追い詰められていたとしても、自分より長く生きている人間の内情を鑑みてやることがいつもいつでもできるほど、ウスルは大人ではありません。ウスルはザインに惚れていました。惚れた男に自らのアイデンティティを否定されることほど、辛いことがあるのでしょうか。あるのかもしれませんし、本当にそれが原因でこんなに疲弊しているのか、それすらわからなくなりそうです。考えれば考えるほど、ウスルは自分が何故ショックを受けているのか、わからなくなりそうでした。そんなウスルの心の内など知る由もないというように、無人のバスは街灯もないような道を経由して、空に伸びた街のような、特徴的な建物の方角へ進んでいきました。






舞台は移り変わってネオン街。ウスルは看板の連なる道を進んでいました。聞いたことのないバス停名を五つか六つ聞き流して「外界前」というバス停で降りました。今は、街並みなど目に入らないほどに、自らの清純も高潔も憎らしくすらありました。やけになっているという点では、ウスルと死ぬ為にウスルを犯そうとしたザインと、彼は同じでしたし、今まで結果的に守れていたものをこの一途で葬り去っていいのか一縷の迷いがあった点でも、一緒でした。ウスルはこのバス停を知らなかったけれど、この世界の裏側には、いわゆるナイトスポットが一纏めになったような不法建築街があると聞いたことがあり、ここはその一部だとなんとなく感づいていました。バスに揺られながら、思考というには漠然とした頭の働きで、目指してみることにした「清らかでない」一帯に、彼はきちんと辿り着いているようでした。バス停の直ぐ側には、客人を街へと迎え入れる、ネオンで縁取られた派手な門が輝いていて、門をくぐった先に続く街中には、門とさして変わらない悪趣味なネオン看板や、近隣の他店の迷惑なんて全く考慮せず大きく張り出した派手な色の看板、その看板をも邪魔するように張り出したまた変わった形の別の看板、その他とにかく形には意味のなさそうな看板の数々がずっと向こうまで続いているように見えます。けれど門も看板も、大抵電灯が切れて明滅していたり塗装が豪快に剥がれて鉄板が露出していたりすることで、店の顔であろう煌びやかさすら損なわれていました。よろしくない街というやつだとわかりましたし、自分の身なりでは人目につくだろうとも予想できます。身なりのそれほど整然としているわけでもない女数人を引き連れた、払いの良さそうな男に好奇心そのままのような一瞥をもらい、カラフルなおもちゃのような鉄格子の向こうでわたあめのようなふわふわのクッションに埋もれる少女達に手を振られ、それでも彼は何も見ず進みました。何も目指してはいませんが、あえて目指している場所を言葉にするなら、街の果てでした。ウスルはバス停から門をくぐることを躊躇したのと同じように、表通りから裏通りに入ることを躊躇しましたが、門をくぐってしまえばどうでもよくなったように、裏通りに入ってしまえば入ってしまったでどうでもよくなりました。決定的な何かは、ついさっきザインによって失ったのですから、何も失うものはないと思えました。裏路地には、さっき目に入っていた店々の壁面と壁面に挟まれた細い道が続いています。壁の内側で鳴っているらしい騒がしい音楽や若い女の叫び声が、ここではまぜこぜになって聞こえます。さすがに使えなくなったものなのか、季節外れの代物なのか、表の看板と同じくらい朽ち果てた看板が壁に立てかけられていたり、派手な色の衣装と花の残骸が積まれていたりしていて、この街はこの細い路地に、何も見出してはいないと一目でわかり、ここを進もう、そういう気しか、しなくなりました。

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