風の巻
風が再び、吹き始めた。
血気を攫い、合戦の匂いを無塵に返す。
とめられた時が、再び動き出す。
武蔵は――勝利の後、ただ空を眺めていた。
双眸は不動。宙の一点を見つめ、口は真一文字に閉じられている。
天下無双の男は、寂寥(せきりょう)を思わせる姿で佇んでいた。
与右衛門はただソレを眺める。
寺尾勝正は岩流の骸の前にしゃがみ込んでいた。
生死を改めている――否、死に様を看取っている。
ヒュー、と岩流の咽喉から音が漏れた。
「……我らが……骸は、……この舟島に……」
虫の鳴くような声。
岩流から命の灯が消えた。
武蔵を前に死力を尽くし、後一歩の所で若き九州無双は死んだのだ。
彼が与右衛門に魅せたのは、壮絶な生と死の相であった。
「死んだか……」
呟いたのは武蔵。空を眺め唯独り、未だ血気を帯びたまま凝固毅然として動かない。
「死(かく)れなされた……貴方こそが天下無双だ武蔵殿。真(まこと)、見事なり」
寺尾は立ち上がり、敬意を以て武蔵に礼した。
「これは確かに細川藩から、天下に知らしむる事になりましょうぞ。宜しいか」
「好きにしろ」
御意、と頷く寺尾。
続けて、少し眼を伏せながら提案した。
「武蔵殿――できれば、このまま剣術指南として我らが藩に仕えてはくれませぬか」
「寺尾殿……まさか」
これが長岡様の真意であったか、と与右衛門は唸った。
――武蔵が勝とうと岩流が勝とうと召してしまえば細川藩の面目躍起になるは必定。
長岡はどちらにしても、天下無双を従えようという魂胆だったのだ。恐るべき老獪さである。
この真意を端から解していたであろう武蔵は薄い顎髭を撫でながら、少し考える風をして
「断る……それが居ては、儂も肩身が狭い」
と、呟いた。
そうして横目に岩流の骸を観たのだ。
琥珀の眸が心奥の知れぬ耀きを抱く。
釣られて――寺尾も与右衛門も、岩流を視た。
死してなお、傲岸に笑っている。
この決闘に関わった誰よりも、悦びを抱いている。
その意味は――死力を尽くし善戦したという満足か――否、これは紛れない勝者の笑み。
武蔵は憂いを以て天を仰ぎ、
岩流はただ狂喜の絶頂の中で地に伏した。
三尺の漆鞘は波に浚われて、何処かに消えた。
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