火の巻
陽は遂に天頂に至り、島に炎熱をもたらす。
――決闘の刻。
向き合うは二大の剣豪。無言で相対しながらも、彼らは既に殺し合っている。両者の間には既に、血生温い風が流れている。
その数間離れた位置に、与右衛門と寺尾は立っていた。立っていた――というよりは、近づけなかったと言うのが正しい。武蔵を連れてきた舟渡しも、陸に上がることなく舟に隠れている。
天下の決闘場に満ち満ちる殺気に、当事者以外は圧倒されていたのだ。
その殺意と陽光の熱気の中。
岩流が眼を光らせながらも涼しげに口を開いた。
「武蔵よな」
対する武蔵は不動のまま口元だけをわずかに開く。
「岩流……ではないな」
低い、万物を震え上がらせるような音(こえ)。不敗の剣豪に相応しき、重みを持った声であった。
これに相対しては戯言の一つも吐くことができぬ――と与右衛門は直感したが、しかし岩流の余裕は崩れていない。笑みすら滲ませて云う。
「無論、岩流だ。岩流以外の何に見ゆるか」
「……岩流か」
武蔵はわずかに眉を動かす。そして、横目に一瞬だけ寺尾を視た。
「武蔵殿、この方はな……」
事情を知らぬ武蔵の為に、寺尾が声を掛けようとするが――止められた。
「いや、良い」
言って、武蔵は樫の木剣を左薙ぎに払う。
風を割る音が鳴った。
「細川藩の事情になど興味はない――この男が岩流ならば、この男を斬るのみよ」
無双の剣豪は、超然と告げた。
有無を言わせぬ、とはこの事であろう。寺尾も与右衛門も、最早、彼に語りかける気を折られた。
しかしやはり岩流だけは対等たる気風を帯びて、この応えに歪な喜色を浮かべている。
岩流は堂々と武蔵の前に一歩出た。両者の間合いは既に三間ばかり。跳ねて振れば、刃は届く。
「そうでござろうよ。――立会いよ、しかと見ておけ。津田岩流の決闘を」
問答は終わりとばかりに、岩流は背負った鞘を眼前に差し出した。
長大三尺――長光の大太刀。
左手を鞘に、右手を柄に。
抜刀の直前で動きを止めて、武蔵を睨んだ。
「武蔵、いざ」
「御意」
武蔵が貌も動かさず、中段の構えでもって答える。
彼らは全く、立会いの存在を意に止めていない。彼らの相対は、彼らの中で完結しているのだ。
剣豪同士の果し合いには本来、立会いなど無意味に違いない。
「……これが剣豪か、いやはや」
などと呟いた瞬間――既に決闘は始まっていた。
岩流の掌から、射抜くような光芒が漏れる。
「……ッ!」
低く漏れた息は誰の物であったか。
鞘から放たれた白刃――その耀きが、周囲の眼を晦ました。天頂から落ちる陽光はそのまま岩流の武器となったのだ。
与右衛門が驚嘆する間隙もなく、何かが弾ける音がした。
「なんだなんだ!?」
「鞘だ! 鞘を投げおったのだ!」
開けた眼で剣豪達に目を向けると正に瞬間、空に向かって長大の漆鞘が舞っていた。
武蔵が弾いたか。
鞘を擲つことはつまり刀を戻す気はないという決死の覚悟である。――鞘の奇襲とはまた奇怪。岩流はこの戦いに一命を賭しているに違いない。
「なんと天晴な!」
思わず、気概に欠ける与右衛門も声を上げてしまう。しかし、だからと言って彼の言葉が僅かにも影響を持つことはない。
既に鞘を囮にした岩流は攻勢に出ていた。
白刃は風の如く駆け廻り、銀光を放ちながらひるがえっては、閃を刻む。
「………ムゥ」
これは正しく武蔵の唸り。
武蔵は先を取られ、地を砂浜と平行に駆けて軌跡を躱す道しかない。
この武蔵の動きは速いというよりは素早かった。
大太刀の間合い三尺から僅か二寸――否、一寸のみの隙間でおよそ全ての軌跡を躱していたのだ。
武蔵の眸は不動にして刃の閃きを読んでいた。
「両者、流石。いやさ小次良、儂の知る小次良より二段三段上達しておる!」
と、呟いたのは脂汗を滲ませた寺尾である。
続けて、寺尾は独りでにその驚異を語り始めた。
「良いか与右衛門。刀は大振りになるほど軌跡のぶれが生まれ、切れ味を失うのだ。だが見るに小次良はこの小刀きざみがまるでない。――さしもの武蔵も、容易には応じれまいよ……!」
興奮のままに語る寺尾の言葉の意味を与右衛門は経験ではなく感覚で解した。
本来、厚みのある木刀はそう容易く斬れるものではない――だが刻みのない剣閃に触れればたちまち、断面を晒すことになろう。
そうでなくても、風に逆らう木刀では風を切る白刃には追いつけない。
岩流の三尺は妙技の限りを以てして、縦横無尽に駆け巡る。武蔵はこれを躱すのみ。
時折、木剣は大太刀の側面に絶妙な阻害を与えるが、而して岩流の攻勢は止まらなかった。
刃は歩みながらも絶え間なく疾走している。疾走は嵐に達し衣を、総髪を、そして肉を斬る。
――武蔵、負けるか。
細く、赤色が宙に舞った。
「疾ッ!」
岩流は好機と見るや、一際大きく太刀を翻す。
この瞬間――瞳が嗔り、武蔵が身をよじった。
「……ン!」
突き出した木刀の槍。狙いは岩流の額。
不意に殺到する凶器に、岩流は大きく後ろに跳ねた。
三尺ならば間合いは同じ。
しかし、岩流は先に避けねばならなかった。
至極当然であるが、武蔵の片手三尺の方が腕の自在の分、二寸の利があったのである。
この差をもって流れが変わった。
先程までの激しい剣戟は一気に収束し、両者は再び静かに相対す。
一刀一足の間。今の一瞬の攻防で精神も肉体も酷使したであろうに、両者共に何も心に抱かぬような醒めた貌である。
無念無想――彼らはそこに至っている。
この一瞬の視線の間にも剣の妙が駆け巡り、殺意が撚糸(よりいと)のように絡まっているのだ。
正に、これは天下の兵法合戦に違いない。
与右衛門の心に――何とも言えぬ昂りが生まれた。
「……次の一合で、決まる」
寺尾は与右衛門にだけ聞こえるように呟く。
与右衛門は息を呑み。
そうして瞳を凝らした。
寺尾に云われるまでもなく、満ち満ちる気配に感じ取っていた。死の匂い。
骸を残すは独り。武蔵か、岩流か。
今、天下無双を決する二振りが舞わんとしていた。
岩流の構えは正面の青眼。諸手の太刀を、敵の正中線に添えて止める。
武蔵の構えは右片手中段。投げられた木刃の切っ先は、敵の眸に向けて放たれる時を待つ。
音はない。
風もない。
天も地も此処にはない。
ただ刻が、緩慢に疾駆する。
先に動いたのは――武蔵。
踵が跳ね上がった、まるで丈でも比ぶるが如く。
飛鳥の舞い上がるが如く。
「斬るッ!」
ほぼ同時に岩流が叫び、放たれる。
天高く振り上げられた太刀。
白刃――電光の如し。
ここに極まれり――凡そ剣速の極致を以て、刃は一条の光と成って墜ちる。
光、防ぐこと叶わず。
剣閃は即座に頭頂に迫り――
「喝ッ!」
咆哮に弾かれたかに視えた。
地を震わし、天を揺るがす一声。
途端――岩流の白刃は、宙を舞っていた。
立会い二人は瞬間に絶句した。
何が起きたのか。
与右衛門もこの眼で視たのだから分かってはいる。
理解はしたが信じる事はできなかったのである。
それは至極、単純な技であった。
武蔵は踵の動きの陰で、既に右手を振っていた。
そして木刃の突きは三尺の光のさらに奥、振り下す過程で、岩流の手の甲が通るであろう一点を目掛けて――針に糸を通すが如く――放たれていたのである。
軌跡を読み、剣速を合わせ、刹那を見切る。
――電光、猶遅し。
武蔵の剣豪人生の全てが収斂(しゅうれん)した――天下無双の絶技であった。
無念無想の一巡のわずか。
それが勝敗を分けたのである。
「津田岩流――いやさ小次良。敗れたり」
そう低く武蔵が呟いた瞬間。
血濡れの木太刀が翻り――岩流の頭蓋を打ち砕いた。
――岩流は脳漿、脂血を散らせながら後ろに倒れる。
決着は付いた。
剣豪・宮本武蔵。
名実ともに、天下無双の男となった。
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