水の巻
水飛沫が高く上がる。
そうして、舟は陸に止まった。
そこから降りたったのは、六尺の長身。長身の男は――しかし、どうみても武蔵ではない。
猩々(しょうじょう)緋(ひ)の袖なし羽織の青年である。
髪は整った月代。黒光りする顔に、細く鋭い双眸(ひとみ)。
薄笑いを湛えた、正に傲岸不遜の体現たる相貌(オモテ)。
そして帯びるは三尺の背負い鞘。
ゆっくりと砂を踏みしめて近づいてくる青年に、寺尾は眼を丸くして駆け寄った。
「小次良(こじろう)殿か! どうして此処に!」
――小次良とは、この青年の名か。
そして、態度からして寺尾の知り合いの様子であった。
小次良はこちら二人を一瞥してから、当然という顔をしたまま、
「見て分からぬか? 寺尾勝正殿」
自らの衣装を示した。
異様に朱い――鮮血を思わせる緋の染物。
ソレを眺めるにつれて、寺尾の貌は反対に蒼白になっていく。
これはただ事ではないのだろう。置いて行かれるのも面倒なので、与右衛門は青い寺尾に尋ねてみた。
「寺尾殿。なんだね、アレは」
「この羽織――岩流翁が指南役になった際に長岡様がお与えになった物だ」
答える端からは、驚愕やら焦躁が滲んでいる。
わなわなと、あの侍が震えていたのだ。そうして震える口から絞り出す。
「小次良殿……まさか、岩流翁は」
「父は、死したのでござる。三月も前に、質の悪い疱瘡に蝕まれてな」
父――岩流翁はもう死んでいた。それで与右衛門はこの男は岩流の息子であったか、と独りで納得する。
隣で寺尾は嗚呼、と唸った。
「なんと、武蔵は遅れたのか――!」
つい出た一言だろうか。悲痛とも取れる声色である。天下の果し合いの大事が前に死ぬとは、さぞ無念であろう――そう言った意味が込められていた。
しかし、最も哀しむべき男はむしろ心外そうな顔をしている。
「違うぞ、それは違う。約定は違えていない」
青年は怒りを顕しつつも、剣豪らしき超然とした気迫があった。
これは寺尾にも勝るとも劣らぬ――否、若さから来る滾りの分、小次良の方が幾分も怖しい。
何か言うぞ――と与右衛門は察し、そして丁度、小次良は口を開いた。
「今は、某(それがし)が岩流なれば」
これには寺尾も与右衛門も言葉を失った。
翁が死しただけでも驚嘆と言うのに、息子が代わりに果し合いにて戦うというのだ。声を忘れるのも無理はない。――といっても、与右衛門はもう何が何だか分からなく成りかけていたが。
二人の阿呆面に息子岩流は頬を緩めた。挑戦的な貌である。
「この岩流では不満か。寺尾殿」
「いや、それは……そんな事はあるまいが。しかしな」
寺尾は渋っている。
というよりも事態に戸惑っているのだ。立会いとしてはどうするべきか、と真剣に困っていた。
やはり、この息子岩流も只者では在り得ないのだ。
岩流翁の妙技を引き継ぎ、若く強靭な肉体をも持ち合わしている。剣技の深奥は翁に劣るやも知れないが、翁亡き今ならば、この若者こそ九州無双の剣豪であるのは疑いない。
だからこそ寺尾は困っている。
「この天下無双の果し合い――小次良殿の腕は知らぬ訳ではないが、しかし、これは翁の果し合いだ。武蔵殿が納得せんことには――」
「戯けたか、寺尾殿」
言い終わるよりも早く、岩流が口を挟んだ。思考の間隙を与えぬ調子である。
「嫡子が名を継ぐは公然の理。ならば、この岩流。父に代わって――否、父と共に果し合いに馳せ参ずるは至極、道理でござろう。もしやとは思うが」
鋭い眼がさらに細まる。
この陽光の如き圧に、寺尾は少しだけ怯んだ。
「寺尾殿は岩流が戦わずして武蔵に破れたと――そう長岡殿に伝えるおつもりか? ならば、この猩々緋はお返しするが……どうする?」
どうするも何も、寺尾が答えられない事を岩流は理解している。与右衛門ですら分かることだ。
息子岩流が戦わずば、戦わず負けた小倉藩は天下の物笑いである。
立会いの寺尾は腹を斬らなくてはならないのだ。与右衛門とて、共に腹を斬らされるかもしれない。
「……ううむ」
寺尾は唸り、渋っている様子である。
とりあえず、与右衛門は他人事で死ぬのは勘弁願いたかった。
「拙者はどうでもいいが――果し合いたいなら、好きにすれば良いじゃろう」
漏れた言葉は自然、投げやりになる。
「与右衛門――貴様」
寺尾が睨んできたが、与右衛門の口は止まらなかった。
「岩流殿の言うとおり、約定に違えはない。それに武蔵ほどの剣豪なら、挑まれれば戦うも吝かではあるまい。結局は岩流が戦ったと、長岡殿に告げれば良いのだ」
「一理はあるが……しかしな。それでは、岩流翁が報われぬではないか」
寺尾は薄く笑う小次良よりも、ずっと岩流の死に敬意を表しているように思われる。
そんな感慨が与右衛門に過ぎった時、小次良は相変わらずの底の知れない顔で一言、報われておるよ――とだけ呟いた。
訪れた沈黙の中、波の音が一層激しくなる。
途端、岩流小次良が大きく振り返った。
何かの報せか。あるいは、剣豪たる本能か。
釣られて与右衛門、寺尾両人が海に目を向けると――小舟が一艘、近づいてくるのが視える。
――宮本武蔵が佇んでいた。
遠目であっても彼が武蔵である事は明白。
影が、空と海の青から明瞭に浮き出て来る。
六尺の小次良よりも巨躯。
身に纏うは茶褐色に血の染みた着流し。
野生のままに伸ばされた総髪。琥珀に嗔かる双眸(ひとみ)。
巌の如き、不動の体現たる相貌(オモテ)。
右手には――長大な三尺の樫太刀。
武蔵の姿を一瞥して、岩流は狂喜の声を上げる。
「来たぞ、武蔵だ。あの男がやって来た! 岩流を斬るためだけに此処に来たのだ!」
かの者の目には、父への憂いは微塵もない。
――そこで、否、と与右衛門は思い直した。
冷めている分、淡々と彼は決闘の件を理解していた。
もしや、この小次良こそが――翁の秘太刀たるやもしれぬ、と。
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