地の巻

 地の果てとも言えるだろうか。

 

 そこは本州と九州の境。即ち、長州と小倉の境。

 下関の海峡一帯には、六連(むつれ)、藍島(あいじま)、白島(しらじま)などを含む島とも岩礁ともつかぬ物が幾らかある。

 

 その内の一つが――舟島であった。

 

 島というには余りに小さい、彦島の洲とでもいうべき物である。源平壇ノ浦の合戦の際にはその最後の戦場として多くの血を吸っているであろう砂。

 その砂は長らく人の手が加えられなかったが故に、叢林が青々と茂ってしまっている。

 国外れ。ここは普段ならば、漁師や海鳥が一時の休息に止まる程度の場所でしかない。

 しかし今、この辺鄙な小島は――何処か殺伐とした気配を漲らせていた。

 島にある自然も、海も、鳥や蟲も静止することなく蠢いて落ち着きがない。

おそらくは、この島は今、世に生まれ出でた真価を果たさんとしていたのだ。


 ――決闘である。


 慶長十七年、初夏。

 天下無双を決める一戦がある、と知らされている。

 

 細川藩家老である長岡佐渡の命を受け、藩士が一人――与右衛門(よえもん)は勝負の始終を見届けるべく、立会いとして島に来ていた。

 既に数刻。

 約束の巳(み)ノ刻にはまだ遠い。

 今より来る剣豪達への目印として、浜には細川の旗を挿し終えた。一応の任を終え、与右衛門は手持ち無沙汰に荒い波を眺めていたのだ。

 しかし、一向に人が来る気配はない。目に視える彦島の浜にも人影はない。

 彼はどうもジッとしている事にも飽きて、もう一人の藩士に声を掛けた。

「なぁ、寺尾殿」

「………」

 返答がなかった。

 もう一人の藩士――寺尾佐助勝正(てらおさすけかつまさ)は砂浜にいて、樹木のように仁王立ちして動かない。

 動かずに、壮年武者は自然と同じく殺気立っていた。

 彼は数代続く侍の家筋。戦場の血脈がそうさせるのか、小柄な背からは気迫のようなものすら感じられる。

 自分が戦う訳でもないのに随分な気の張りようだな、と与右衛門が感心するほどである。

 それでようやく、興味が持てた。

「なぁ、寺尾殿」

 もう一度、声を掛ける。

 すると今度こそ寺尾は振り返った。

 瞳が嗔(いか)り。

 嶮(けわ)しい顔である。

「うるさいぞ」

 地に響く声を受けて、与右衛門は一度たじろぐ。しかし直ぐに持ち直して、ゴマ擦り貌を張り付けた。

「あいや失礼。だが、此度(こたび)の決闘について一つ聞きたいことがあっての」

「……なんだ?」

 寺尾は生真面目な男である。こう言われては断らないであろう事は分かっていたのだ。

 そこで、与右衛門は今の今まで気にもしなかった疑問を吐露した。

「一体、誰々が戦うのだ?」

「あ、――お前っ! かような事も知らずにここに参じたのか!?」

 寺尾は凄まじい勢いで火炎を噴いた。――少なくとも、与右衛門にはそう感じられる勢いである。

「信じられぬ……是は即ち、天下無双を決める戦いであるぞ!」

 それは聞いてはいたのだが、逆を言えばそれしか聞いていないのだ。だからこそ与右衛門は怒りの炎もさほど熱くは感じない。実感がないのだ。

「一介の兵糧番に剣の道を説かれてものぉ」

 与右衛門は小石(しょうこく)の兵糧番である。生まれてこの方、剣になど興味はなかったのだから仕様がない。

 戦で最前線に出たこともない。剣術や兵法の基準は目の前にいる寺尾勝正や、知り合いの藩士くらいなものなのだ。

「その剣豪共は寺尾殿よりも強いか?」

「当然だ」

 と、寺尾は即答した。

「元より戦場と果し合いは勝手が違うがな。彼奴らに至っては、儂などたちまちに斬ってしまうに違いあるまいよ」

 歴戦の侍をしてこう言わしむるとは、余ほどの男達であるに違いない。

 頷きで促すと、寺尾は神妙な顔で続けた。

「この島で戦うのは、かの負けなしの大剣豪、宮本武蔵(みやもとむさし)と、我が細川藩が兵法指南役、津田岩流(つだがんりゅう)翁だ」

 ホゥ、と与右衛門は頓狂な声を上げた。

 剣に頓着がないとはいえ、宮本武蔵の名だけは知っている。今や『天下にその人在り』と称される奇怪二刀の剣豪であるとか。

 ただ逆に、一つ引っ掛かる事があった。

「我藩の兵法指南とな……? それは確か……」

 そう、細川藩の兵法指南と云えば与右衛門も知らない人ではなかった。飲み友達である。だからこそ、先の言葉に違和感を抱いたのだ。

 与右衛門の疑問を汲んで、寺尾はさらに険しい顔になった。

「今のではない。半年も昔は、岩流翁こそが小倉剣術指南だったのだぞ? これも知らぬか」

 険しい。険しい上に呆れている。

 これには、性根の軽い与右衛門も申し訳ない気持ちになった。

「知らぬ――すまぬ」

「全く……お前という男は、ハァ」

 寺尾は深く溜息を吐いた。

 与右衛門の無知に呆れて、肩から力が抜けたようである。続く語りには無駄な気負いは無くなっていた。

「岩流翁は長州産れの兵法家だ。齢は儂も知らぬ。その昔は小太刀の名手、冨田五郎左衛門勢源の家人だったらしいのだが、そこで剣術の基を学んだと聞いたことがある」

「それならば、ちとは聞いたことがあるぞ。冨田、というと――冨田流小太刀だ」

 勢源という名は冨田流門下の輩(ともがら)から、その昔に聞いたことがあった。

 冨田勢源というのは、越前に名を馳せた兵法家の一人である。

 天下分け目の戦の前には、老年で死(かく)れたという事だが、彼の起こした冨田流は小太刀に重きを置き――身の軽い事他流に届く処なし、と巷で謳(うた)われているとか。

 しかし、その勢源の家人となると――少なくとも五十は過ぎているはずだ。

「……なるほど。翁には、重い刀は振るえぬからのぉ」

 小太刀の名手であれば、老人であっても振るうに労するはあるまいと、与右衛門が一人納得した。

 対して寺尾はらしくもなくニッカリ、と笑う。

 企むような表情であった。

「岩流翁は、冨田を学んだがな。小太刀は用いぬ。翁が振るうは太刀よ。それも大太刀。三尺余の業物よ」

「なんともはや……」

 これには再び与右衛門も驚いた。

「翁はな。冨田流の打太刀に徹しておったらしい。しかし、若くから冨田の電光の如き俊敏さを見て取っていたのだ。それで太刀で小太刀に追い付けるように至ったらしい――それが高じての大太刀使いよ」

「ソレは尋常ではない……」

「何でも、眼前の飛鳥(つばめ)を太刀で刈る事もしたらしい。この妙技が故に、諸国遍歴の後に九州で一派を開いたのだ。そして小倉に根を下ろした、と言っておったな。今では四国まで名と流派が知れ渡っているのだぞ」

 飛鳥を墜とす、太刀使いの翁か。

 聞く限り、これは正に大剣豪であろう。

「五十過ぎては、飛ぶ鳥を落とすとはいかなかったがな――それでも儂よりも強く速い。九州の誰よりも強いであろうよ」

 なるほど、寺尾にしても元指南役の岩流には全幅の信頼を置いている様子。

 態度の節に自慢気な風がある。

「そうかそうか。岩流殿については良く分かった。拙者、今の今まで知らなかった事を恥じ申した」

 全く申し訳ない。与右衛門は素直に頭を下げる。

 兵糧番勤めに、日々甘んじていた自身を恥じたのだ。

 しかし、此処に至っては知らぬ存ぜぬでは上手くない。――何よりも、酒の入らぬ寺尾の活きた語りが珍しく、面白かった。

「して、ついでと言ってはなんだがな。武蔵殿についても教えてくれぬか。拙者、奇怪二刀の噂しか知らぬのだ」

 寺尾は与右衛門の殊勝な態度に気を良くしたのか、あるいは決闘を前にして血が沸き立っているのか、饒舌に是に応じた。

「宮本武蔵。儂も一度だけ城ですれ違うたことがあるが。この男、げに怖ろしいぞ」

「怖ろしい、か」

「うむ。二十九にして背は六尺越え、髪は総髪で荒々しい。肌は浅黒く、眼は琥珀に耀いておる。そして何より、体から滲み出るような――そう、アレは血の匂いだろうな。例えでは無く、衣に血が染み着いておったわ。それでいてきわめて閑(しず)かな男だったのだ」

 与右衛門は言われた通りの人相を想像してみたが――どうやっても人以外の何かしか浮かんでこない。

 鬼か、獣か、不動明王の化身か。

 武蔵と言うのはその類のモノらしい。

「――吉岡家、下り松の決闘などは聞いた事はあるか?」

「ふーむ。在るような無いような」

 これも与右衛門は覚えていなかった。

 酒の席では剣豪の話を聞いた事もあるだろうが、酔ってしまっては頭に残らない。ただ、吉岡家が足利将軍の剣術指南をしていた家系というのは遠い昔に聞いた話である。

 与右衛門が困った首を傾げると、寺尾は難しい顔で続けた。

「彼奴は齢二十余で、京都名門の吉岡流門下を悉く打ち倒し、一挙に名を知らしめた。その最後の戦いは京都洛外、下り松の決闘などと称されているが――これは十対百の合戦擬きであったらしいのだ」

「おいおい。武蔵は正気かね」

 馬鹿な話である。

 それこそ酒の肴の与太話であろう、と与右衛門は断じた。

 十対百では数が十倍だ。一人頭十人は斬らねばなるまいし、世の中そう上手くいくようにも出来ていない。戦乱の時代でも、そんな無謀な戦は少ない。

 今度は与右衛門がニッカリと嗤(わら)う。

 しかし、寺尾が返した笑みは苦々しい物であった。

「正気であろうはずもない。気が狂(ちが)っているに違いない。そして、それ以上に、剣の腕が人と違っていたのだろうな。

 浮雲を散らすように、吉岡門下を殺し続けたという話だ――吉岡の家筋はこの一戦で絶えた。実際はどうあれ、これだけは本当だ」

 苦々しくはあれ、彼の口調は真剣の鋭さを持つ。

 驚き通しの与右衛門だが、これには流石に、驚きを通り越して気が抜けた。

「なんという男だ……なんという剣豪だ……あな怖ろしや、げに怖ろしや」

「そうだ。怖ろしい男だ。――彼奴はその勢いがままに、奥州、江戸、京都の名立たる兵法家を果し合いで殺してきたのだ」

 果し合い――これは名乗りを挙げた上で、双方怨みなく殺し合うという形式だが、武蔵はその嵐を生き残ってきたのだ。

 古の合戦場を越えてきた寺尾や岩流にも、越えてきた死線は劣っていない。

「そうして南の果てに至るのか……最後の一人を殺す為に」

「左様。九州無双を討ち果たせば、彼奴は正しく天下無双。だからこそ、半年前に武蔵は小倉を訪れた。そして、果たし状を突き付けた」

 何時の間にか、寺尾の熱い語りは此度の決闘の経緯に変わっていた。

 武蔵と岩流について、一通り聴いた与右衛門はしかし、その果し合い自体にも疑問を持った。

「だが翁も相当な御歳であろう? 武蔵の挑戦を何故に受けたか?」

 この一点である。

 殺し合いに歳の差など関りない――それは分かるが、しかし肉体は衰える。

 これはどうあっても変えられぬ道理である。若き豪傑に対して、岩流は余りに歳を取り過ぎているのだ。

「それこそ兵法家の意地であろうよ。岩流翁は剣に生きる男故にな――それに、翁とて、負ける気はあるまい」

「と、言うと勝機があるのか……」

「ある。あるのだ」

 と、寺尾は腕を組み直した。

「武蔵は若いが、賢人の如く思慮がある。故に、彼奴は敵対する兵法家の手の内を巧みに調べ尽くしてから、勝負を挑む。

 ――異様な剣技に、異常な体躯、十分な思慮。全て揃っての、武蔵の無双だ。翁はそれを解していた」

 そこまで聞いて与右衛門は察しがついた。つまり、岩流はその思慮を崩しに掛かったのだ。

 その為の策を与右衛門は既に聞いている。

「なるほど。それで翁は半年もの間、隠居したのか」

 寺尾は深く頷いた。

「姿を消した岩流翁はその剣の一片も武蔵に晒してはいない。これには武蔵も焦っているであろう。或いは、来ないかも知れぬ」

 流れからして、半年後にと時期を決めたのは武蔵であろう。

 その間に巧みに岩流の剣を盗もうとしたが――翁は是を封じたのだ。武蔵とて心穏やかではおるまい。

「それだけではないぞ。半年前の約定で、既に得物を決めておいたのも大きい。岩流翁は真剣を用いると告げ、これに武蔵は木戟にて、と応じたのだ」

「武蔵は二刀を……使わぬか」

 良くは分からぬが、武蔵は二刀と決めつけていた与右衛門にとって、これもまた奇妙に感じた。

「それも策の内だろうて。木戟、といっても間合いはどれ程か知れぬ。あるいは櫂の五尺も在り得るだろう。木剣二刀も在るやもしれぬ――だが、得物は木だ。木の理は岩流翁とて知る所。そういう読み合いからして、戦いは始まっている」

 先に告げたからには、双方虚を突くような真似をするに違いない。

 それが岩流にとっての衰えぬ長大三尺であり、武蔵にとっては木剣という事だろう。

 半年も前に、既に戦いは始まり、そして今の時点でも続いているという事か。

 これに与右衛門は感心した。

「剣技と剣技。知策と知策。――正に、天下の兵法合戦と云った次第でござるなぁ」

「そうだ、そうだぞ。全く凄まじい事なのだ」

 と、寺尾は何度も頷いた。

 しかし、与右衛門の感心は剣豪たちだけに向けられたものではない。

 老中の長岡様も流石だ、と与右衛門は舌を巻いていた。

 長岡は果し合いの仲介人としての命を、寺尾と与右衛門に下した。

 寺尾は兵法家、剣術家として優れている忠臣である。私情で眼を曇らせず、事の次第をその剣技の一端に至るまで報告できる。

 一方の与右衛門はその昔、舟の扱いを学んでいたし、剣の道には無頓着でもある。これでは果し合いに干渉しようはずもない。

 加えて、この舟島。

 此処は九州ではなく長州の土だ。

 それも長岡曰く、半ば無断の使用である。藩内でもこれを無理に押し通したらしい。どうあっても他の細川藩士は干渉できないようにしたのである。

 純粋な兵法家の戦いを守ったのは、長岡の手腕に依るものに違いないのだ。

「いやぁ。しかし」

 深く息を吐いて、与右衛門は少し落ち着いた。

 寺尾の話のお蔭で、随分な大事なのは理解できたが――興奮覚めてみれば、他人事である。

 剣法話は酒の肴にはなるだろうが――腹の肥しにはならないとも感じていた。

「実感が沸かぬなぁ」

「それは儂とて同じだよ」

 寺尾はどこか嬉しそうに言った。

 それもそのはず。彼の言う実感が沸かない、というのは熱気に当てられた侍の血より来たるものである。

 しかし、与右衛門は全く逆の意で実感がなかったのだ。

 うぅん、と与右衛門が唸る。

 唸ったその時。


 偶然か、一際強く飛沫が舞った。

 

 その風に合わせて、与右衛門が荒い波に眼を向け、

「……来たかっ」

 と、声を上げた。遠目に一隻の帆立ち舟が近づいてくるのが視えたのである。

 

 影は武蔵か、岩流か。

 

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