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不思議なことに会わないように気をつけてみると全然先生には会わずに済みました。姿を全く見ないわけじゃないけれど、話す必要はありませんでした。今まで自分がいかに、先生を探して、お話しようとして生活していたかに、こうなって初めて気づきました。結局プレゼントのハンカチは、廃棄もできず自分で使うこともできず、そのまま引き出しにしまってあります。見ると悲しくなるので、引き出しを開けることもしませんでした。先生を避けている自分のことを、友達二人ともが全く気にしなくなった頃のある日、先生に急に、応接室に呼び出されました。先生の方から近付いて、それから反射的に逃げようとしてしまったウスルの肩を掴むみたいに引き止めて。真正面から見下ろされて、「今日の四時、応接室に来なさい」と言って。その時の先生は微笑んではいませんでした。かといって怖い顔もしていませんでした。けれど、何も言えないでいる自分に、「お返事は?」と言って目を細める先生は充分過ぎる程に怖くて、思わず小さくはい、と返事をして、頷いてしまいました。ほぼほぼ、おとがめがある時にしか寮生は応接室には呼ばれないので、友達二人に何したのお前、みたいな目をされながら、応接室へ向かいました。自分にもわけがわかりませんでした。かといって、はいと言ってしまった手前、すっぽかす勇気は出ませんでした。応接室では、時々保守管理を頼んでいる整備士のような人たちと先生が談笑しているのとか、見学に来た家族を先生が接待しているのを、見ることがあります。先生が自分たちのような生徒以外と話しているところを見るのはなんだか新鮮な感じがして、そういった応接室の扉の向こうでの姿がなんとなく、気になってしまったものでした。今はもちろんそれどころではありません。応接室の扉を開けると、客間として使う為に配置されているセットのソファのうちの一つの二人がけのものに先生が腰掛けていましたが、ウスルを見るなり彼は立ち上がり、自分が座っていたところにウスルを誘導したのち、扉の方に向かい、鍵を内側から閉めました。いつも開けっ放しでお客さんとも話しているのに。そのあと彼は低めのテーブルを挟んで正面に座りました。久々にきちんと見た先生はやっぱり素敵でしたが、なんだかいつもと違う笑い方をしているように見えました。とても怖くて、縮こまりました。ずっと後回しにしてきて、いつか何かが変わって、全部平気になる日が来るって信じて避けてきたものに、無理矢理対面させられているような気分です。「怒ったり叱ったりする為に呼び出したんじゃないよ」話しながら姿勢を崩して足を組む先生は、なんだか先生じゃないみたいに見えました。ウスルが知っている先生は、こんなに執拗にウスルの目を見つめたりしません。いつも、ウスルが緊張しないように、目を逸らしてくれたり、不安な時は、目を合わせて笑ってくれたり、優しく待っていてくれるはずでした。「私は、ウスルくんとは一番の仲良しになりたいって思っているんです」ウスルは、何も反応を示せません。低い机を見つめて、きゅっと小さくなったような姿勢で座っているだけです。二人しかいない応接室は静かで、部屋の端にある冷蔵庫の稼働音が、やけに大きく聞こえます。「君もそう思ってたから、これをくれたんでしょう?」ずっと俯いていたけれど、軽いものを置く音がして、言葉と音の意味が一瞬わからなくて、怖いことが起こっている気がして、見ないようにしていた先生の方を見ました。何故か、おかしなことに、部屋の引き出しに眠っているはずのプレゼントの箱が机にあって、その中身であるはずの、先生のために選んだ、あの日以来見ることもできなかったハンカチが、先生の手にあったのです。一瞬パニックになって、恥ずかしくて、ちがうんですと言いたくなって、それをとりあげたくなって、隠したくなって、腰を上げて先生の方に手を伸ばしかけました。ですが、「誰が立って良いなんて言いました?」と言われて、その目線が、とてもとても静かなのに、殆ど睨んでるのと同じくらい鋭かったから、もう、おとなしく座っているしかできなくなりました。腰を元の位置に落ち着けて、先生の手にあるハンカチを、どうすれば良いかわからない焦燥感の中見つめるしかできなくなりました。「だってこれ、私のものじゃないですか」「プレゼントしたいって、言ってくれたよね?」先生は左手に乗せたハンカチに、右手を添えるように愛しそうに撫でて、箱の横にそっと置いて、もう一度愛しそうに、目線を落として、ハンカチを撫でました。愛しそう、なんて表現できる先生を見るのははじめてで、先生の個人的なところにはじめて触れたみたいで、どうしようもないくらい心臓が跳ねました。何故、どうして、先生が、それを持っているのかわかりません。どうして、嬉しそうなのかもわかりません。状態としては声が出ないに近かったのですが、どうしてそれを、と聞く声は、なんとか絞り出すことができました。「君の部屋にあったから」先生は悪びれもなく答えました。あまりに当たり前のようにそう言うから、先生の言ってることがおかしいということにも、気付きませんでした。「あの時は私の態度にショックを受けたんでしょう?」先生はそう言ってまた、机の上のハンカチを少し、触りました。先を揃えて繊細に動く指を、長くて、綺麗だと思いました。ウスルは混乱する気持ちの中でも、先生の体の目に付いた一つ一つ、初めてこんなにちゃんと見ることができてる、それを心のどこかで感じて、無意識に見つめてしまう自分を、心の別のところで否定していました。「君のこと、特別扱いしてるってバレたら困るから」先生は内緒話をするように話します。特別扱いなんて言葉が、どうしてここで出てくるのかわかりません。自分が知ってる先生だったら、特別扱いしてるなんて言葉、口にしません。もちろん、自分にも言いません。目の前の先生は個人的で、きっぱりとしていました。けれど、何故、自分に対して、個人的になって、きっぱりしていてくれているのかが、ほんとうにわかりません。「プレゼントひっこめた君の気持ちとか、私のこと避けてる君の気持ち想像して、すごくかわいいなって思ってたんですよ」少し笑っている先生が何を言っているのかわからなくて、自分がどんな気持ちになればいいのかもわかりません。もしかしたらこの人は、ウスルの知らない側面をたくさん持っている人なのかもしれません。自分に興味なんてないんだろうって思っていた先生が、自分の話をしているらしいのが、どこか遠い世界の出来事のように聞こえます。ウスルの混乱を知ってか知らずか、先生はくすくす笑っています。もっと笑いたいのを、抑えているみたいな表情です。子供のおかしな行動を、笑うみたいな感じです。はじめてそんな笑顔を見ました。からかっているのかもしれません。子供扱いがいやだとか、そういうのじゃないけれど、ものすごく悲しかったいろいろとか、ものすごくむかむかしたいろいろとか、それを笑われている気がして、わかってないくせに、と怒りが湧いてきました。あきらかにわがままで、自分勝手なことでむっとしているのはわかるのですが、むっとするものはします。ウスルよりなんでもわかっているかもしれないけど、ウスルのことなんて、この人にはわかりっこありません。「私のことが憎らしい?」先生は、なぜか嬉しそうにそれを聞くのです。 頷いてやりましたが、それでも嬉しそうにしていて、余計に憎たらしく感じます。しかも、じゃあ私のことパンチしてもいいよみたいな、男の子を馬鹿にしてからかうようなことを言うので本格的に腹が立って、我慢できなくなって、そういうんじゃない、と言いました。そして、先生に私の気持ちなんてわかりません、と言ってしまいました。思っていたよりもしっかりした声が出ました。自分がそんなこと言えるなんて思ってもみませんでした。感情の勢いでのことではありましたが、呼び出されてから、ずっと底が知れなくて恐ろしいって思っていた先生に反抗みたいなことをしてしまった怖さで、また心の一部がしゅんとしてしまって、俯きました。先生が、そんなこと言った自分のことをずっと見ていて、見られてるのを意識しないでいることができなくて、段々と自分が、何を言ったかもわからなくなりました。「君は君自身のこと、本当は私って呼ぶのかな?」「いつもは、無理して、俺って言ってるの?」先生のその言葉で、一人称の、治そうとしていた、隠したい癖が出てしまっていたらしいのに気付いて、また感情が急に動き出しました。知られたくないことばかり知られたくない人にあまりにいっぱい、突然知られて、このまま消えちゃいたいくらいの気持ちになって、泣いてしまいました。涙が止まらなくなってしまいましたし、先生は泣いてる自分を見てにっこりしているし、本当に、ものすごく憎たらしく思えます。もうほんとに知らない、そんな気分になって出ていってやろうかと思ったら、目の前の先生はゆっくり立ち上がって、自分の座っているソファの方に移動して、真横に座りました。本当に真横の、体の一部が触れるような距離のところにいます。触れているところを異様に意識してしまって、緊張して、怖くて、恥ずかしくて、なんだか嬉しいとかと似た気持ちにすらなって、涙が急に止まりました。先生は少しだけ脚を広げて座っています。自分の膝に肘をついて、手を組んで、前傾姿勢でウスルを覗き込んでいます。「君は私に恋してるんですよ。」穏やかで、優しい、ウスルを殺してしまいそうな声色でした。悪いとも良いとも言わず、事実だから自覚させるような言い方でした。違うとか、そんなんじゃないとか、ウスルは言い返さなきゃいけないのですが、すぐ、両肩に先生の手が添えられて、先生の顔が近くなって、何も言えなくなりました。ちがう、そんなずるいような気持ちでお迎えに行こうとしたり、プレゼントをしたんじゃ、決してありません。特別になりたいとか、そういうんじゃ、本当にないのに。自分はそんな期待とかしてなくて、何も望んでなんてなかったのに。今までの優しい顔の先生はもうウスルを助けてはくれませんでした。少し顔を傾けて、意地悪そうに笑っている先生に、追い詰められています。「君には私と一緒に、いけないことができる子になってほしいんです」「君と私は、一番の仲良しになれるから」とても静かな、囁くみたいな声でした。時間が止まったと思うくらいに。言葉の意味を理解する余裕もなく、いつもと違う先生を拒否することもできません。それは期待しているからではありません。何もわからないからです。「目を閉じて」言葉に逆らえなくて、目を閉じるしかなくなって、肩に掛けられた両手が体の後ろ側に滑り込むのを感じて、心臓がばくばくと言うのを聞きました。先生の気配が近付いて、真っ暗な視界の中、心臓の音の中、唇にとても柔らかくて温かくて、人生で一度も触ったことのないような、優しいものが触れました。それはとてもゆっくりウスルの唇を圧迫して、それは、息をしていて、湿っていて、それは先生の唇だとしか思えませんが、それが先生の唇だとだけは思えませんでした。だから、目を開けることもできません。何が起こっているかは、理解すべきじゃなくて、理解してしまえば自分が、今動かないのは、自分がこれを、心のどこかで望んでいて、今、喜んでいるのかもしれないこと、理解してしまいます。体の後ろ側に回り込んだ先生の手が、腰を引き寄せました。息が止まりそうで、わけがわからなくて、幸せな気がして、恐ろしくなって、じぶんがどうなってしまうのか、わかりませんでした。

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