二つの館
目覚まし時計は朝4時半に鳴る。それが同時に始業の合図でもあった。クローゼットから新品の黒のワンピースに袖を通し、対照的に真っ白なエプロンを身に着ける。規程で定められた髪型についてはモニカが指導した通りに結い上げることができた。仕上げに識別香を2,3回吹きかけ、三角巾を被れば身だしなみは完璧だ。
5時に点呼があり、それから作業が始められた。想像以上にハードなのは、お菓子の材料——砂糖、小麦粉、卵、牛乳など――を倉庫から厨房まで大量に運ばないといけないことだった。台車に載せていくものの、粉末の類は一袋5kgもあるので、積み込みだけでも負担は大きい。
オーブンに火が入り、厨房は一気に香ばしい空気に覆われていった。調理の工程は先輩従業員がやってくれるので、今度は清掃だ。天井からつり下がっているメニュー表にまで手が届かないので踏み台を用意してもらったが、入り口からカフェスペースの隅々まで埃を払い落とし、テーブルと床を拭いてモップ掛けをする。ベーアヴァルトと違ってテラス席がないので、楽なものだ。ショーウィンドーも塵一つなく拭き上げると、頃合いよく出来立てのお菓子が続々と納められていった。パンの切れ端を朝食代わりにいただきながら、開店の時を待つ。店先にはすでに何人か並んでいる姿が見えた。そして朝7時、ナタリエは扉を開けて、かけてあった看板を「
「いらっしゃいませ!製菓インゼルンへようこそ、どうぞ心ゆくまでお楽しみください!」
「……おはようございます?」
「ん?んん……」
勤務を終え、部屋で寝ていたナタリエが目を覚ますと、隣のベッドの上でモニカがぐったりと横たわっていた。開け放たれた窓から風が入ってきて、カーテンを揺らす。外はまだ日が照っていた。
「なんだか酷く疲れているようにみえて……。その、大丈夫でしたか?」
「ほんとよまったく。……ああ、まだきついかも」
と、枕もとの缶からドロップを一粒振り出して口に含んだ。多少楽になったのか、上体を起こしてベッドの淵に腰掛ける。この日、モニカはアルベルトとともにミューニヒ市郊外、ダッハウという小さな町を訪れていた。この地に保安隊が取得したばかりの土地がある。本作戦のための打ち合わせと称して呼び出されたわけだが、目下建設工事が進められている最中であった。暗い色のスレート屋根と白い壁、窓がついているだけの無骨なバラックが等間隔に建ち並んでいたが、その奥に一つ明らかに雰囲気の異なる洋館があった。
地上2階、地下1階建てとなっていて、東に向いた玄関には車寄をかねたバルコニーとなっている。北面は駐車スペースと搬出入口を持ち、西は別館に通じる通路となっていた。南面は大きく窓が開いており、広い中庭に面している。また特徴的な半円筒状の構造物が付属している。ライヒェンバウ・ハレ、その単語が咄嗟にモニカの脳裏をよぎったが、その予想は間違いではなかった。
「我々の工務班は優秀でしてね。お察しの通りこれはライヒェンバウ・ハレの一分の一サイズのモデルです。当日の動きはこれでシミュレートしてください」
などと案内役の男がのたまっていたが、一回きりの作戦の準備にしては正気の沙汰ではない。一体どれだけの金と資源を投下しているのか……それほどまでに躍起になっているということか。保安隊、略称NSSは中々おかしな組織だ。国家によって正当化された暴力を司る2つの組織、軍隊と警察のどちらにも属さず、NSPとそのイデオロギーに奉仕する。似たようなものだが、レーテ戦争前後に設立されたSEKが敵対グループに対する粗野な攻撃心をあからさまにする一方で、新進気鋭の彼らは規律と秩序だった行動を好む傾向にある。そうであるからこそ、NSPの内紛にFoLVを噛ませたのだ。ツオガルテンでの衝突だけではなく、FoLVのバックにいる国軍との関係を加味してのことだろう。SEKが国軍の地位を襲おうという話は公然と広まっていた。
「敷地は広いし暑いし日陰もないし、もうクタクタな訳。刑務所予定地って言ってたけど、あんなところにぶち込まれちゃたまったものじゃないわね。そうそう、今度はアンタも来るように言われたわ。次の定休日、ついて来てよね……それじゃ」
そう言い残して再び横になると、顔を背けて寝息をたててしまった。というわけで水曜日、ナタリエもダッハウを訪れた。ミューニヒ市街中心部のFoLV事務局からアルベルトと合流し、自動車を走らせて40分、木立に囲われて敷地の外からは見えないが、その先には数基のバラックが並んでいる。その前に山高帽を被った案内役の男が待ち構えていた。
「皆様こんにちは、今日もよろしくお願いします。ああ、あの建物でしたらまた好きに見に行ってください。さっき内装を変えたばかりなんです。丁度SEKの発注書が回ってきたものでしてね」
そう言って手渡した図面のコピーには丁度昨日の日付が記されていた。建物の中に入るとなるほどその通りになっている。そして彼らの外にもNSSの服を着た人間がいた。
「紹介します。こちらは本作戦の先遣隊長を務めるヴィルヘルム。そして作戦立案担当のエスターです」
ヴィルヘルムが立ち上がって、アルベルトに向かって敬礼する。
「NSS所属、ヴィルヘルム・シュピーナーであります!」
彼はまっすぐとアルベルトを見据え、脇に控えていたモニカとナタリエにはぴくりとも視線を向けない……と思っていたが、彼の右頬の上、黒っぽい玉のようなものがやたらと目に付いた。それは瑞々しさを湛えて半ば皮膚に埋まっていたが、次の瞬間には完全に隠れてしまったのでギョッとした。
「アイツ異形よ。あれも眼球。あたし達のこともしっかり視てる」
モニカが口添えしてくれたおかげで少し落ち着きを取り戻したところで、もう一人いた女も立ち上がる。
「エスター・コールです。よろしくお願いいたします。」
「アルベルト・シュヴァルツだ。こっちが潜行するモニカ・ケッヒェルとナオミ・シュタープ」
「どうも。モニカです」
ナタリエはちょこんと頭を下げただけにとどめた。アルベルトが紹介した名前は無論偽名である。接触する際、なるべく特定される要素は省いた方がいいとの判断からだ。念のため、インゼルンでの名前もそちらで通っていることは付け加えておこう。閑話休題、彼らが着いていた机の上には、これまたミニチュアサイズのライヒェンバウ・ハレの模型が置いてあった。ヴィルヘルムが口を開く。
「今我々のいるこの部屋、大客室と隣接する食堂、大広間が主な会場となります。庭に面したテラスと玄関、両方から攻勢をかける手筈です。敷地に侵入する門には警備が詰めています。制圧は容易いですが、本館との連絡は早めに潰しておきたい点ですね」
彼がジオラマの上に駒を並べると、するすると盤上を滑って移動しだした。よくみると、細いワイヤーが張ってあって、人為的に動かされている。操っているのはヴィルヘルムだろう、彼の説明に合致するようにミニチュアの周りを取り囲んでいく。
「最重要目標はSEKの首領リヒャルト・ガッツ、彼が会場に現れたタイミングで突入を仕掛けます。エスター、説明を」
丸眼鏡をかけ、いかにもインテリ然としたエスターは、棍棒のようなものを手に持っていた。持ち手は木製で、先端には缶のような金属製の物体が取り付けられている。
「これは閃光弾です。持ち手のキャップを外すと紐がぶら下がってますので、強く引っ張ってください。カチッと音がしてから5秒で破裂するので、どうにかしてこの大客室で起動してください。それが突入の合図になります」
「そう、これをうちの商品の中に紛れ込ませて持ち込めってことね。なるほどよく考えてらっしゃる」
「それについてはご協力いただけて何よりです。我々も、まさか彼らの発注先の菓子店がFoLVと関係していたとは、中々分かるものではありませんでしたから」
菓子店……その単語を聞いて、モニカの表情に陰りが出た。だが、エスターの説明は続く。
「問題は出る時です。脱出経路として、一階は使い物になりません。なので、二階のバルコニーから外に出ます。そこはヴィルヘルムともう一人が手引しますが……」
実際に大広間から続く階段で二階に上がると、一本の廊下の左右に客室が並ぶ構造になっている。どれも使う用事はないらしい。
「突き当りを曲がった先、北面の窓から外に出るようにしてください。後は我々とアルベルト氏で対応します。脱出後、ミューニヒの街までお送りします……何か聞きたいことは?」
「警備員の装備と配置は?それと自衛用に銃持っときたいんだけど」
と、モニカ。
「ええと、基本的には警棒と拳銃ですね。配置場所は玄関と通用口脇に一組ずつ、それに巡回もいます。貴方がたの武装についてはお任せしますが……せいぜいばれないように気を付けてください。問題が発生しても、我々にはどうにもできませんので」
それで十分と彼女は両手を挙げ、話はそこでお開きとなった。館の中に残ったのは潜行するナタリエ、モニカとヴィルヘルムだけとなった。するとモニカは彼が屯する客室を抜け出し、ナタリエの手を引っ張って館の中を物色し始めた。2階に上がればカーテンやカーペットの類を片っ端から引っぺがし、床を踏み鳴らして階下に降りてきたと思えば廊下を駆けまわる。挙句には、守衛室のある地下で煙を焚いていく始末。
「何をやっている!」
と、能う限りの傍若無人ぶりを発揮したところで、臭いを嗅ぎつけたヴィルヘルムが怒鳴り込むのも道理だった。……それも異形の目を6つも見開きながら。
「何って、ちょっとでも成功するために色々と見て回ってるんじゃないの。その為にここを造ったんでしょう?問題あるかしら、クモの人?」
「それは、そうだが……」
モニカは先程お菓子屋呼ばわりされたことを根に持ってか、異形のヴィルヘルムに対しても物怖じすることなくずけずけと突っかかっていく。よくもまあ怖い物知らずだとナタリエはみていた。一理あると考えたのか、意外にもヴィルヘルムは言葉を詰まらせている。
「ふん……好きにしろ」
結局モニカが押し切る形で話は進み、しばらく留まって必要な情報をかき集めた。決行の日まで二人はインゼルンとダッハウを行ったり来たりしながら、とにかく立ち居振る舞いが自然に見えるまで仕事に心血を注ぎ続けた。
そして当日がやってきた。二人はインゼルンの制服に身を包んで準備に取り掛かっていた。厚手で、ものを隠すにはうってつけの格好だ。そして注文を受けた商品を満載した箱を二人がかりでトラックに積み込む。
「では、行ってきます。父さん」
「うむ。モニカ、それにナオミくん、短い間だったが今日までよく努めてくれたな。おかげでラウラさんからのお願いを果たせそうだが……やっぱり心配だな」
「もう……そんなのはいいから、普通のお仕事と同じよ」
「そうか?ならいいんだが。それとナオミ君、君は筋がいい。よければまた働きに来てくれたまえ」
「ちょっと父さん、こんな時に勧誘?ラウラおばさんに怒られても知らないよ」
さて、出発の直前に彼女たちの前に一台の車が向かってくる。ライトを点滅させ、続けて軽くクラクションを鳴らしてくる。見ると、乗っていたのはエミーだった。
「やあ、やっぱり車で来ると遠いねー。しかもこの辺交通規制すごいことになってるし、日中ずっと運転して今着いたとこ。間に合ってよかったよかった」
彼女は助手席に置いていた薬局の紙袋に手を伸ばし、モニカに向けて掲げた。
「ほらこれ。必要だと思うから持ってきたの。列車に持ち込むのは無理だったから……」
その中身を覗いて、モニカの口元が緩んだ。さしずめいたずらっ子が楽しいオモチャを見つけた時みたいに。
「ふふっ。……いや、ありがとう。すごく助かる、これ」
「喜んでもらえてなにより。二人ともいってらっしゃい。頑張ってね!」
温かい見送りに対してモニカは軽く手を振って、ついにトラックを発進させた。
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