11.騒擾 -Der Zeiger hat rechts ausgeschlagen.
すでに日付は変わり、この国は新しい2月を迎えていた。屋根裏部屋の出張教室はいつも通りの時が過ぎていた。
『では、クヴァーディにおける帝国の租界地があったのは次のうちどれ?』
『……これ?』
『いいえ。
『むぅ……』
ナタリエとしては、何故世界の裏側についてそんなに細かく学ばなくてはならないのか、いまいち理解できていない。しかしこのことについて考えあぐねている間に、一本の呼び鈴が静寂を破った。時刻は午前1時ごろだったろう、家主はとっくに眠っている時間だった。
『はぁ……仕方ありませんね』
友人の代わりにパウラが応対する。
『はい、こちらジークボルトでございます。……あら、貴方でしたか。ええ、ええ……かしこまりました』
彼女は受話器から耳を離すと、通話を切らないままナタリエの方を振り向いた。
『シュヴァルツ様から貴女に替るようにと仰せです、こちらへ。私はご当主の元へ参ります』
『へ?』
突然の呼び出し、それもアルベルトからだ。まだいつもの訓練時間ではないはずだったが……
『はい…… もしもし?』
『ナタリエか? 緊急事態でな。お前もすぐに着替えてFoLVに来い!』
『えっ? わ、分かりました! すぐ行きます!』
『そうだ、あのケースも忘れず持ってこいよ』
『了解しました!』
唐突なことだが、アルベルトの語気に圧倒されて反論する間もなく切られてしまった。ナタリエは無人になった部屋の鞄に詰められていた厚手の服と壁に掛けていた上着の袖に腕を通した。デスクの隣に目立たず置かれていた金属のケースを手に取り、慌ただしく玄関から飛び出した彼女だったが、季節はいまだ冬、夜道にはまた新雪が積もり始めていた。
『うぅ、寒い……』
独り言は湯気の中に消え、彼女は庭先を駆けだした。FoLV本部に辿り着くと、門前には見慣れないトラックが正面を煌々と照らしており、雪に交じって漂う排ガスが異質な雰囲気を漂わせていた。色々と載せられている荷台に天蓋はなく、代わりに被せてある麻布の端が風に揺らめいていた。
歩幅を緩めてそれに近付くと、車窓からこちらを窺う人影が揺れ動いた。アルベルトだ。
『ナタリエか? 乗れ! すぐに出るぞ!』
ハンドルはアルベルトに握られ、彼女は助手席に座らされた。存外広く、暖房が効いているせいで、サイドガラスは一面結露で覆われている。
『こういうのに乗ったのは初めてか?』
落ち着きない様子で辺りを見回すナタリエを尻目に、アルベルトはアクセルを踏みこんだ。
『あはは……わかります?』
『まあな。それはその辺に置いておけよ』
トラックはスピードを速め、ようやく本調子になったところであった。ナタリエは初日に彼から手渡された物を足下に置くと、
『でも、そんなに切羽詰まって、一体どうしたんですか?』
『ああ、……そうだな、実に厄介な問題だよ』
アルベルトは数分前に起きたことを話し始めた。
その電話が鳴った時、FoLVで待機していたのはアルベルトだけであった。深夜帯に掛かってくることは特段珍しいことではなく、彼は普段通りにデスクの上にあった受話器を取って応対に当たった。
『こちらFoLV、どうぞ』
『こちらベーアヴァルト保安局、危急の事態につきFoLVにも通
達!』
だがその口上、久しく聞いてなかったが、間違いなく数年前の大テロル期に散々聞いたものと同じだった。嫌な予感があった。電話越しとはいえ、その声には背筋を凍らせるだけの凄味を含まれていた。
『共和国広場において暴動発生!各ユニットは首都圏一帯への展開を要請する!』
ふと時計に目をやると、午前1時を指していた。
『状況は理解した。こちらはどうすれば? 』
『ツォーガルデン公園を割り当てるので、避難者の保護と騒擾の拡大を抑止せよ』
『了解した。直ちに全隊員に通達し、行動に入る』
そう告げて電話を切ると、彼はジークボルト家の番号に電話を掛けたのであった。
『今ツォーガルデン公園にはFoLVのメンバーが集まって来ているところだ。だから俺達もこうして出動させられているってわけだな』
彼の言動にはあからさまに不満を含めていた。
『それじゃあ、私たちは何をするんですか?』
『ツォーガルデンはだだっ広い公園だが、そこに検問を用意して通ろうとする人間全員を調べ上げる。話は単純だが途方もない、朝まで終わるか分からないな……』
彼が言うには、ターク・デア・レプブリークに面した公園東側の大通り5ヵ所が封鎖対象となっているらしい。しかし、その間に広がる森林地帯から内部に侵入する輩がいないとも限らないので、即応できるようまばらに配置しているとのことであった。
『そいつらは組織の中でも若い方でな、お前の先輩にあたるやつらだ。失礼のないようにしろよ』
そこまで言うと、アルベルトはダッシュボードの中のものを取るようナタリエに指示した。
『これですか?』
見てみると、一つは羽毛の入った断熱性の高い上着だった。黒地の胸のあたりにFoLVを象徴する錨型の小さな徽章が縫い付けられており、背中側には白い糸で「警戒」を意味する文字が縫い付けられていた。
そしてもう一つのものは、手提げのランタンであった。だが、彼女はコレがあることに疑問を抱いた。アルベルトも承知しているように、明かりなどなくとも暗闇の中で問題なく行動することが可能なのだから。しかし、そのような疑義を挟む間もなくアルベルトは答えた。
『この作戦に参加するのは俺たちみたいに暗がりで行動できるのばかりじゃないからな。自分が不審者に間違われたくなきゃきちんと持っておけ』
ツォーガルデンは鬱蒼とした木々と湖沼に覆われた、いわば都心のオアシスであり、死角が多く逃走にはうってつけの場所でもある。その入り口のアスファルト面には仮設のテントが並び立ち、規制線が張られ始めていた。
『来ましたね、シュヴァルツさん。もう皆準備できてます』
『分かった、全員を集めてくれ。』
アルベルトが招集をかけている間、ナタリエは真っ暗な公園の中からターク・デア・レプブリークの方向に目をやった。道中と比べ、そちらはかなり明るく騷がしい様に思えた。彼女はあの先で何が起きているのか、まだ想像することもできなかった。
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