9. 日常の変わり目 -Veränderung des Lebens

 ナタリエの起床はあれでも早かった。通常午後5時、毎夕庭先での体操がその日一日の始まりとなった。冷えた空気の中、垂れ流されるラジオ音声に従うだけだが、身体を動かすのと動かさないのでは大違いだ。


『では最後に深呼吸~……では、今日も一日頑張りましょう!』


 丁度放送が終わる頃に、庭先の門扉が開け放たれる音がする。


『おかえりなさい、ミチさん』


 その方向に駆けよれば、ミチが帰ってきているところだった。両腕いっぱいに麻の買い物袋を抱えているのを一部取り上げ、ナタリエは彼女の横に並んで軒先まで歩いて行った。


『おはようナタリエちゃん、ありがとうね。でも、重たくないの?』


『これくらい平気です。それより、今日はどうします?』


『んーそうね、今日はサラダ作るのを手伝ってもらおうかしら……じゃあキャベツとタマネギ、キュウリも切ってくれる?』


 料理の手伝いをするにしても、包丁の手ほどきをきちんと受けたのはこの時が初めてだった。厨房で野菜を刻んでいる隣でミチは挽肉をこねている。太陽が完全に沈み切ってからその日初めての食事を摂るが、大抵はミチの作った夕餉だ。医師の助言通り高タンパク、高カロリーのものが多く、1か月も経てば彼女の体形に改善の調子がみられた。ラウラもたまに同席するが、初日以降アルブレヒトの姿はなかった。聞けば海外出張の準備の為仕事場に寝泊まりしているらしい。歩くのも不自由なのによくやる、と思う一方で、初日に父親のことを聞かなかったことを早くも悔やんでいたが仕方がない。


 さて、いくら学校というしがらみから解放されたとはいえ、同級生と同等の勉学は修めなければならないと皆はいう。あわよくばやらなくて済むという期待は淡くも崩れ去ってしまった。ラウラもミチも、暇さえあればナタリエに勉強を教えていたが、夜遅くまで起きていられないことから、新しく家庭教師がつくことになった。日付を跨いだところで今日も部屋の扉を叩く音が響く。


『ああ、いらっしゃいますね。では本日もよろしくお願いいたします、トート様』


 彼女の名はパウラ、大戦でロイテが喪失した東部の旧ヴァイセン州生まれで、ジークボルト家の元使用人であった。その経歴よろしく、ラウラに近しい帝国党である。大戦後に一度は故郷に帰って地元の子供達に読み書きを教えていたものの、占領当局に目を付けられてロイテに戻ってこざるを得なかったのだとか。


 彼女は手にしていたランタンの火を消すと、代わりに屋根裏部屋の電灯で明かりを確保した。暗い色のワンピースが白い光に映えている。


『では、始めましょうか』


 彼女の講義の大抵は国語や社会科目について教えることになっているのだが、その内容に関して、ここで少し記しておこう。


戦前、ロイテの隣国はケルターニュ、ディーフランド、アルーシャ帝国とハウプトハウゼン帝国の他は、北の海峡王国と南のヘルヴェティアの6カ国だった。しかし、戦後は二つの帝国が地図の上から消え去り、その跡に新たな国が興った。その一つがロイテの東隣の国、通称第2コモンウェルスである。パウラの祖語はロイテ語だが、向こうではレンギル語を話させられた。それはこの国の公用語である。


大戦後の国際秩序は敗北したロイテの伸長を抑えつけるためにあらゆる策を講じた。まずロイテが保持していた全ての植民地と辺縁の5州が削られ、旧ハウプトハウゼン帝国のロイテ人領を独立したエスタート共和国としてロイテとの合併を禁じた。また莫大な賠償金と、抑止力としてのレンギル人国家の創設を大々的に支援したのである。


目下のところ、経済的にも軍事的にもロイテ最大の脅威はこの第2コモンウェルスであり、その地から逃れてきたパウラはロイテ当局にとって格好の宣伝材料であった。その過程で彼女にレンギル人の血が入っていることが意図的に無視された。厳密にいえば、パウラもナタリエと同じ“帝国の遺児”である。しかしNSにしてもロイテの本土と見做した旧5州出身者に限ってはその扱いが異なっていたのである。


 話を聞いたナタリエにしてみれば、あまりにいい加減なように思えた。自分と似たような立場にありながら、迫害される恐怖に苛まれることなくむしろ同情と安寧を享受しているパウラに対する羨望と嫉妬の情念が心の底に溜まっていくのを自覚していた。


『いや……それは私にはどうしようもできないので……』


『ですよねー……』


 休憩中に互いの出自について雑談し、ふとナタリエはその気持ちを吐露してしまった。パウラに云ってもどうしようもないことくらいわかっていたのに。


『ですが、今の私の立場もそんなに気持ちのいいものではありませんよ。結局、引退して故郷でのんびり暮らしたかっただけなのに、もう叶いそうにないのですから』


『そんなものなんですか、先生?』


『ええ、そういうものです。なのでこれは宿題です。次のテストに出しますから、きちんと呼んできてくださいね』


 パウラはナタリエの目の前にいくつもの本の山を築き出した。


『あ……』


『他人の思いを知るには読書が最も手っ取り早いですからね。では、今期も頑張っていきましょう!』


余計な一言のせいで余計なことが増えてしまった。とりあえず五冊、この一月で読み終わらなければならなくなったのだ。一冊目の表紙はソフトカバーで軽く、持ち運びに便利な本だった。彼女の読書嫌いは主に文字の複雑さに起因するものであったが、こちらは簡潔な書体だったので負担は少ない。


 こうして家庭教師の時間が終わると、次いでFoLVの方へ向かった。先程の本のページをめくりながら待っていると、アルベルトがやってきた。


『何読んでんだ?』


『あ、お疲れさまです。これは……えと、そう、課題です、課題……!』


『……?まあいい、とっとと行くぞ』


 しかし、彼女はあえてその中身を明かそうとはしなかった。何せそこに綴られていたのはあからさまな恋愛話だったからだ。その情緒を共有するには、まだ幾許かの距離を感じていた。


 さて、ナタリエはアルベルトに連れられ、建物の地下へ向かう階段を下りていった。華やかな絨毯や壁紙に彩られた地上部とは打って変わって、打ちっ放しのコンクリートの壁は冷たい印象を与える。


『ここは……?』


 廊下の突き当たりには一枚の鉄扉が設えてある。見るからに重そうな、赤く彩られた扉だ。


『俺たちのような夜型専門の訓練場所だ。中を見てみよう』


 アルベルトに言われるままに、ナタリエはドアノブに手をかけた。


『うわっ、暗い……それに臭いもちょっと変?』


『ああ、この部屋は外からの光と音を徹底的に塞ぎ、障害物と臭いのある塗料をばらまいた、一種の迷路だ。どこも汚れることなく出口まで行ければ晴れて一人前ってことだな。試してみるか?』


 そう尋ねられると、彼女は前向きに頷いた。実際のところ、ちょっとした遊び感覚であったことには違いない。アルベルトは隣のロッカールームを指し示し、その鍵をナタリエに手渡した。元の衣服を汚さないよう無地のシャツに着替えて戻ってくると、閉じてゆく扉は微かに差し込んでいた光を完全に奪い、再び闇に包まれていく。だがナタリエからすれば、そのようなことは何の恐怖にも値しないものであった。


 さて、状況を知るにはどうすればいいか?あちこちから漂うペンキの臭いを嗅ぐだけでルートを特定することは不可能だった。順応が済むまで待ち、とりあえず床を蹴ってみたものの、靴の構造から大して響くことはなかった。


『わっ!!』


 次の策として大声で叫んでみた。するとどうだろう、先程とは打って変わってよく通り、一瞬だけではあるが目の前の一帯にどのようなものがあるのか認識することができた。


 だが、それだけではこの迷路を突破することはできない。どうにかして断続的に音を出し続けなければ、すぐに何かにつまずいてしまいかねないのである。


なら歌いながらならどうだろう? これだと独りでも自然な振る舞いのようにみえるだろう。それは街角で使い古された歌謡曲の一節であった。その歌を聴く者はいなかったが、彼女はそんなことを気にせず歩みだした。


『♪~♪~』


声が発せられるたびに道が拓けていく感覚は快いものであった。明確にモノが何かとは判断できないが、大まかな形やら配置やらは把握することは容易いことであった。が、


『あ痛っ?!』


 ただ、存在を認知することと上手く避けられることは話が別である。結局のところ、このような躓きがその後いくつか続くこととなった。


 すでに溶剤の嫌な臭いが漂っていたが、いざ出口の扉に手を掛けた時、その様相が明らかになった。すなわち、彼女の足回りは虹をぶちまけたように鮮やかで、その他手や顔の周辺にも飛び散っていたのである。


『……派手にやったな』


『うぅ……もっと上手くいくと思ったのに……』


 悔しさと恥ずかしさのあまり、ナタリエは両手で顔を覆い隠してしまっていた。しかしアルベルトに曰く、初日に賜ったケースの解錠のためにはこの試練の突破が必要なのだ、と。今後この部屋とは長い付き合いになりそうだった。



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