5. ジークボルトの一族 -Die Frau, der Mann, die Tochter und anderes.

『おかえりなさい、お母さん!今日もお仕事お疲れ様!……って、あれ?』


ナタリエにとっては意外なことに、勝手口の先にはすでに人がいた。その女性は彼女から見て多少年上で、ラフな服装からこの家に馴染んでいるように見えた。


『ミチ……まさか私が帰ってくるまでずっとそこにいたの?』


『まさか!さっき大きな鞄が来たからそろそろだと思ってたの』


 その言葉を裏付けるように、彼女の後ろにはナタリエの荷物が置いてあった。これから部屋に運ぶつもりだという。視線を彼女に戻すと、向こうもこっちをじっと見つめていた。


『アナタがナタリエちゃんね?私はミヒャエラ。みんなはミチって呼んでるの。よろしくね』


『はい……よろしくお願いします、ミチさん』


 差し伸べられた手を握り返し、ナタリエは本格的にこの家に招かれていることを実感した。


『さあさあ、まずはあなたの部屋に行きましょう。ミチ、トラウゴットは今日も来ているでしょう?手伝ってもらいなさい』


『オッケー、じゃあ呼んでくるね』


 そうして奥へ引っ込んでいった彼女にナタリエは既視感を覚えていた。特にあの目元は……すぐ隣を見ると、簡単にその感覚の正体に突き当たった。同じ双眸がそこに見出されたからだ。


『私の娘よ。仲良くしてやって?』


 やっぱりそうだった。髪型を変えて皺を加えればラウラそっくりの容貌に仕上がるだろう。頷いて再びミチの方を見遣ると、もう扉の先に消えてしまっていた。そこに最もナタリエ好みの香りを置き去りにして。


『この匂い、もしかして……』


『ふふ、楽しみにしておきましょうか』


 そして足を踏み込んだ時に、その家屋にまたしても違和感があった。廊下の幅が広く、どの扉も両開きになっている。手摺の量も尋常ではなかった。おまけに玄関から居間まで段差が一つもないときている。これでは家というより、まるで病院のようだ、というナタリエの抱いた印象はあながち間違いではなかった。実のところ、ここには患者がいるのだ。


『おかえり、ラウラ……それと、君がジギスムントの娘さんだね?』


 居間の暖炉に薪をくべていた男がふらつきながら立ち上がる。

杖を支えにして何とか歩み寄ろうと試みているが、擦る足がぎこちなくて痛々しい。


『こんな格好で申し訳ない。僕はアルブレヒト。君のお父さんとは戦場で遇ったことがあるんだ』


彼の傍らには車椅子が控えている。自力で歩行することは困難なのだろう。足下は原形を保っているが、まともに機能していないのは明らかだ。


 彼、アルブレヒト・クルーゲ・フォン・ジークボルトは、一人の傷病兵であった。この建物も、元はロイテ各地に建設された療養所を改装したものである。


 ナタリエは言葉を失った。傷病兵自体はそれほど珍しいものでもなかったが、目の前の彼が一人の父親であり、また一人の夫でもあることはショックなことだった。


『もう!来たばかりなんだからあんまり驚かせないでよ、お父さん!』


『そうですよ、先生、あまり無茶なさらないで下さい!』 


 剣呑な雰囲気を打破したのは、ミチともう一人の男性だった。アルブレヒトを「先生」と呼ぶ彼は、先生の体重を支えてどうにか車椅子に座らせることに成功した。


『ああ、済まないトラウゴット。そうだね、話したいことは多いけど、それは後にしよう。……改めてようこそ、自宅だと思って寛いでいってくれ』


 さて、ナタリエの部屋には、屋根裏の広いスペースがあてがわれた。南面に窓が一つ、その傍らにベッドとデスクが設置されている。光源はその上にあるランプと天井から吊り下げられた白熱電球、昼には窓から差し込む陽光も視界を確保するのに役立つだろう。床材は木のフローリング、壁紙は貼られておらず、梁も剥き出しのままだ。暖房が通っているのは安心できる。


 この部屋の内装は好きにしていいとのことだが、彼女の私物は旅行鞄と、FoLVからずっと手にしていたケースだけである。それをデスクの上に置いた後、重荷からようやく解放された彼女は再び階下へ降りていった。先程から例の匂いがこちらにも漂ってきていたからだ。



『……~~ッ!』


 夢でも見てるんじゃないかというくらい、目の前の皿にはヴルストやベーコンなどの肉料理が山盛りになっていた。これほどの量は長い間食べてないのだから、手を付けるなという方が無理な話だ。


 一つ、フォークで突き刺しては口の中に運び込み、噛み締めると漏れ出す肉汁が喉を潤していく。舌全体を旨味で満たし、また一つ肉を放り込んでは鼻を突きぬけるバターの芳香に彼女は思わず涙を流した。


『まだまだいっぱい残ってるから、遠慮しないでたべていってね』


 ミチは穏やかにナタリエに声をかけた。

それを聞いた彼女は強欲に委ねていたままの腕に気付き、自制しようとその手を引っ込めた。というのも彼女の前の席ではラウラが彼女の様子を具に見ていたからだ。しかしそれでも、だ。どうしてもこの抗し切れない右腕が再びヴルストを捉え、自然とそれを腹の中に収めてしまうのだった。それもとびっきり幸せそうな顔で……


 大人たちは輸入品のワインの瓶を開け、歓談を始めてしまったので、この家の住人たちについて振りかえってみよう。ジークボルト家はロイテ南部ビオラント州出身の小貴族の家系だという。領地は小さくても地位と財は十全に保持していたのは大戦までの話だ。なけなしの土地をほとんど売り払い、以前よりも狭い一区画を家族3人で慎ましやかに暮らしている……ただし、郷里の本邸は健在のままで、維持管理に人を雇うくらいの力を有していることは留意しておきたい。


 この家の当主はラウラの方だ。元はロイテ海外領土の官吏として勤めていたが、戦後、植民地体制が完全に崩壊したことで引き揚げてきた何万ものロイテ人の一人。


 アルブレヒトはロイテでもうだつの上がらない学者だったのが婿養子としてジークボルト家に入った経緯から、さらに肩身の狭い思いをしてきたらしい。一時別居まで至ったものの大戦が勃発、半ば自暴自棄で従軍した結果歩くことが出来なくなった。そうした体験を経てようやく周囲と和することが出来たというのだから壮絶だ。先程のトラウゴットは彼の教え子にあたるが、進んで介助に当たっている。


 この料理を作ったミチはその一人娘であり、歳は二十代半ばになる、戦前生まれだ。家事などでの器量の良さは、戦後すぐの困難な時代を乗り越えるがために身についたものだ。その腕はどこに出しても認められるのではないかと思うほどに。しかし彼女は結婚についてあまり乗り気ではないとか。


 その家族の団欒の中にナタリエも混ざっていた。それは彼女にとってはあまりにも眩しい光景だった。晩餐の後、皆が寝静まった中、彼女は明かりもつけず独り目を覚まして自室の窓辺に寄りかかっていた。暗闇にいる方が彼女の好みだった。外からは点描画のようにぽつぽつと街の明かりが浮かび上がる。ベーアヴァルト市は眠ることはない。


 視界が狭くなっていく代わりに耳と鼻の感覚が否応に増していく。薪が焼ける匂い、部屋の隅に積もったままの埃の臭いも、ガラスに当たり、溶けていく雪の音や時計の秒針を刻む声、遠くから聞こえてくる汽笛の音、そのすべてが心地よかった。時間が過ぎるのも忘れ、ナタリエはずっとこの闇に親しんでいた。


『そういえばアルブレヒトさんに、父さんにこと聞けなかったな……』

 

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