4. 帝国の遺児 -Hinterlassene Kinder des Reichs
かつてロイテが帝国と称されていた頃、夥しい数の人々がその国を発ち、また同じだけの人々が国の外からやって来た。その目的は様々であったが、それだけの移動と接触が繰り返されれば、必然的に数多くのロマンスが生み出される。その結果、帝国にはロイテ30州以外にもルーツを持つ臣民が数多く共存してきた。
状況が一変したのは、やはり戦争のせいだった。およそ20年前、ロイテは西隣のケルターニュ、ディーフランド、そして東に隣接するアルーシャの地に侵出し、4年間にわたる膠着の末に敗れた。しかし、終戦直後からその敗北に疑義を挟む者が数多く存在していた。
曰く、戦場においてロイテ軍は負けてはいない、……実際は極度の物資欠乏によりベーアヴァルト民ですら慢性的な飢餓と凍傷に苛まれていたにもかかわらず、休戦するには早すぎた、あと少し続けていたら勝てた、等々、と。この早期講話を糾弾し、戦後秩序の打倒を掲げて波乱を巻き起こしたのが、新国家運動(NS)という政治結社であった。
では彼らはロイテが敗れた理由を何に求めたか?その矛先は、次第に国内の団結を妨げる要因だと目された非ロイテ系住民に向けられるようになった。そこに戦前からあった蔑視が込められているかどうか定かではないが、“汚れた血”、“寄生虫”、“国の癌”などというタームは、NSが好んで用いた彼らの代名詞である。
『何だって?じゃあお前は……』
『……』
アルベルトの問いかけに、ナタリエは沈黙したまま首肯する。
『正確には、この子の母親が外国人との混血よ。いわば
どちらにしても、NSの攻撃対象には変わりない。
『……お母さんは、わざと言わなかったんだと思います。私を心配してましたから』
しかし、それが逆に悲劇を呼んだ。1958年の議会選挙で第一党に躍り出たNSは、公教育の場にも手をつけ始めた。性急なカリキュラム変更は体育を筆頭に音楽、図画、歴史、文学、生物など多岐にわたった。党はこの介入により、将来に渡って支持基盤を確立しようと画策しているのだ。殊の外親の目が届かない全寮制学校において、この企みは効果を上げていた。
意外なことに、ナタリエも当初はNSとの親和性が高かった。理由は単純、彼女は自身を完全なロイテ人であることを疑っていなかったからであった。だから、何の悪気もなくNSの思想を吸収し、躊躇いもなく口にした。
『だけど私は、お母さんの前で言ってしまったんです。そんなこと知らなかったから……』
あの時の表情は、鮮明に覚えていた。それまでの接し方すべてが過ちだったと悟った、あの物悲しい顔。要領を得ないナタリエに縋り寄って、涙を零しながら謝罪する母から、ナタリエは初めて自分が、何度も口にしていた “汚れた血”、“寄生虫”、“国の癌”と同じ存在だと知らされたのだった。
ナタリエの培ってきた価値観はここにおいて完全に崩壊した。彼女はまさに自分の信奉した思想そのものを恐怖し、母への罪悪感に駆られ、やがて外へ出なくなった。学友やNSの講師たちがそれまでどうしてきたか?今度は自分に向けられるのは明らかだからだ。
『もうあの場にいるのは耐えられなかったんです。この半年、ずっと自分の正体がばれたらどうしようって、それで……』
残酷な思い出を語る内に、遂に言葉が出なくなる。その代わり、湧き出てくるのは荒い息と冷や汗、加えて次第に目の前が潤んで焦点も合わなくなってきた。そんな時、彼女の片目が急に塞がれ、温かい感触に覆われる。
『大丈夫、大丈夫よ。落ち着いて……』
視界が晴れると、目線のすぐ先にラウラの姿があった。その手には湿ったハンカチが握られている。恥ずかしいことに、初対面の人の前で泣きかけてしまったらしい。赤く腫れた目元がひりついている。
『すみません、こんなことで……』
『いいのよ、きっと疲れていたのね。ほら、食べれば気分が落ち着くわ』
テーブルの上にはまだ手の付けていないチョコレートケーキが残っていた。ナタリエはそれに手を伸ばし、徐にフォークを突き立てる。口に入れるとすぐに生地が綻び始め、甘味が口いっぱいに広がった。ふんだんに使われたカカオバター特有の香りが内外から鼻腔を包みこんでいく。気付けば、その手は皿の上を平らげるまで止まらなかった。
『私はNSとは違う。少なくとも、あなた達みたいな帝国の遺児は敵じゃないと考えているわ。それはFoLVも仲間達も同じよ。だからここにいる間は安心して過ごしてほしいの。でも、もしあなたがお母様への発言を後悔しているというのなら、ここで働いて贖うのでも構わないけど……』
『やります』
間髪入れずナタリエは返す。
『私が……してしまったことは、取り返しがつかないのは分かっているんです。それでずっと嫌な思いをして……そのことでもう苦しみたく無いんです』
だからどれだけ過酷な事であろうとも、受け容れるつもりではあった。後から考えれば、そこに年齢故の思慮不足があったことは否めない。この時点で彼女は仕事の内容をほとんど聞かされていなかったのだから。
その様子を見て、ラウラは勝ち誇ったようにアルベルトの方を一瞥する。
『その意気込みがあれば十分ね。改めて歓迎するわ』
その言葉を聞いてナタリエは緊張の緒が切れ、溜息が口から漏れ出した。
『じゃあアルベルト、あれを』
『ああ……』
アルベルトはデスクの上に置いてあったケースを持ち、ナタリエに差し出した。
『これは?』
『餞別よ。今後あなたに必要となるものだけど、鍵は彼に預けているわ。後は彼の判断次第ね』
確かにその側面には目立った鍵穴が取り付けてあった。おまけにゆとりが一切なく、いくら揺さぶったところで音一つたたない代物である。分かるのは、見た目に比して重量があるということくらいだ。
『では、今日はここまでにしましょう、詳しいことはまた次の日にね。じゃあナタリエ、行きましょうか』
皿とカップが空になった頃合いを見計らって、ラウラは席を立つ。
『行くって、どちらへ?』
『あなたの新しい住まいよ。案内するから、後のことはよろしく、アルベルト』
『了解だ、ボス』
そう言い残して、彼女はナタリエを連れて部屋を後にした。再び廊下に出て階段を下り、今度は二人で受付まで戻ってきた。
『済んでるかしら、マルティン?』
『はい、預かったものはもう送ってますよ、ボス』
『了解、助かるわ』
コートだけを受け取って、彼女たちは正面口から表に出た。FoLVの敷地内を表門とは反対方向に進むと、垣根の中に小さな扉が設置されていた。そこをくぐり、小径に沿って進むともう一つの建物が姿を現す。
『あそこが今日からあなたの住む家よ。私達の家でもあるのだけど』
FoLVの離れに位置するその建物にはすでに明かりが灯っていた。陽は傾き始めていて、降りしきる雪の合間に暖かな光が揺れている。ラウラはポケットから裏口の鍵を取り出し、ナタリエに手渡した。
『あなたもここの一員になるのだから、まずは自分の手で開けてみて』
『はい……』
やや緊張した面持ちでナタリエはそれを差し込み、左右に手をひねった。カチリと開いた音が鳴る。それが彼女を迎え入れる徴であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます