3. 対面 -Der erste Kontakt
『どうぞ、お入りください』
扉の先から女性の声が響く。少女はその言葉のままにドアノブを握りしめる。そっと一息、間をおいて右腕を押し出した。
『失礼します!』
視界が開ける。格子窓から差し込む光が目に染み、徐々に鮮明となっていく。はじめに二人の影が浮かび、次いで部屋全体が彼女の網膜に投影された。自然光と天井から降りしきる電灯の明かりが混じりあい、色彩ははっきりとしている。正面のデスクに座っている女性が先程の声の主のようだ。
『初めましてっ、私、今日からこちらでお世話になるナタリエ・トートと申します!』
開口一番名乗りを上げて、ナタリエは一歩踏み出した。再び頭を下げたことで、結っていない髪の毛が肩をすり抜けて垂れ下がる。
『初めましてナタリエ、ようこそ。FoLV会長のラウラ・ジークボルトよ、よろしく。立ったままでは何だし、こっちへいらっしゃい』
彼女はナタリエに呼びかけ、席を立って左脇にあるソファに案内した。それと同時に小さなベルを鳴らすと、奥にあった別の扉からエプロン姿の若い女性が現れた。
『外は寒かったでしょう?お茶を用意してあるから、よかったら召し上がって?』
ラウラの言葉の通り、部屋に運ばれたカートには大きなポットやティーカップなどが整然と積み込まれている。給仕の女性は仕事が早く、ナタリエがソファに着いたときには、丁度淹れ立ての紅茶が目の前に置かれるところだった。
『ではお二方、ごゆっくり』
それぞれの席にチョコレートケーキを配したのを最後に彼女は部屋を後にした。部屋にいたもう一人の人物は彼女の後を追って行ってしまい、ナタリエとラウラの二人だけがその場に取り残された。
『遠慮はいいのよ。好きに召し上がりなさい』
『はい、それでは……』
しかしナタリエにはこの手の作法はてんで分からない。角砂糖の一片を丸々溶かし込むと、震える手でカップを顔の近くまで持ち上げた。香りが心地いい。すっきりと目が覚めるような感覚に脳を誘うかのようだった。まだ砂糖の粒子が陽炎のように紅い液体の中をゆらめいていたが、構わず一口の内に飲み込んだ。仄かな渋味と甘味が口の中に広がり、身体の内側に熱が染み渡るのを感じる。
『……美味しい』
『気に入ってもらえたようね。やっぱりあの子に頼んで正解だったわ』
“あの子”というのは先程の給仕の人のことなのだろうか、などと思いながら半分になったカップをテーブルに戻す。その時、目の前の女性が自分のことをじっと見ていることに気が付いた。
『あの……?』
『ああ、ごめんなさい。よく似ていたものですから……』
あなたのお父上に。後に続いたその言葉にナタリエは縛り付けられる。彼女はそこでようやく相手の顔を具に見ることとなった。白色の交じった頭髪と眦に刻まれた皺が年月を思わせる。
『父の事、知ってるんですか?!』
お母さんからだって、そのようなことを言われたのは一度もなかったというのに、この人はどうして、私の父親のことを知っているのか……?
『それは元々私の家に伝わってきた物よ』
そうした疑問に答えるかのように、ラウラはナタリエの首からぶら下がっていた宝玉を指し示す。確かに、これは自分の家の物にしては不釣り合いな程豪華な代物であることに違いなかった。
『あなたのお父上に譲ったの。戦時中、あの人には随分助けられましたからね。それと……』
しかしラウラが述懐していた最中、奥の扉から先程出ていったもう一人の人物が戻ってきた。その男は体格ががっしりして、服の上からも鍛え抜かれている様子がはっきりとわかる。中でも目を引くのが眉毛のみ残したスキンヘッドだ。眼力にも凄味がある。
『待て待て、思い出話よりも先に説明することがあるだろうが?』
彼の口ぶりはどこか苛立ちのようなものが混じっていた。自分に対して向けられたものではないと分かってはいたものの、ナタリエは彼の形相に軽く恐怖心を抱いてしまった。それに対し、ラウラの方も不機嫌な様子を隠そうともしない。
『アルベルト、そう話の腰を折るのは止めてもらいたいのだけど?……まあいいわ』
改めて彼女は目の前の少女の顔を見やった。その表情からは先程の剣幕が嘘のように消えていた。むしろ憐憫の含んでいるかのように、その眼は穏やかだった。
『さて、紹介しましょう。こちらはアルベルト、あなたの上官……いえ、教官と言った方がいいわね。ここからは彼も同席させてもらうわ』
『アルベルト・シュヴァルツだ。よろしく頼む』
彼は頷いて隣のソファに腰掛けた。対してナタリエの方は未だ強張ったままだ。
『よ、よろしくお願いします……』
恐る恐る、差し出された手を握り返して儀礼的な挨拶を交わす。
『では始める前に、いくつか確認事項があるから質問させてもらいましょう。あなたの事情については把握しています。大っぴらに言えないことも承知ですが、彼とは共有させていただきます。よろしいですね』
ラウラが言うと、ナタリエは緊張した顔つきで承諾した。ラウラはそんな彼女を解きほぐすように笑みを浮かべ、手元の書類に目を通していく。
『ナタリエ・トート。1944年11月11日生まれ、出身はベーアヴァルトのツェントラール区で間違いはない?』
『はい、その通りです』
ラウラはさらに深く聞きこんでいく。
『マリーは息災かしら?彼女、夫と死に分かれてからは気苦労が絶えなかったことでしょう?』
『はい、でもお母さんは元気にやってますよ』
この時代、寡婦が家庭を切り盛りすることは何も珍しいことではない。先の戦争で夫や息子を亡くした者が多く、ナタリエの母マリーもその一人だ。尤も、自分が去ってしまってはどうなってしまうか、想像だにできないが。それにしても、ラウラは父だけでなく、自分の母親のことも知っているようだった。
『あとは兄と姉が一人ずつ……ね。今どうしてるか知ってる?』
『姉さんは父方の祖父母のところにいます。兄さんはリニーエンフェルト で働いてて、あまり会うこともありません』
だから、働きに出れると判断された子供は積極的に親元を離れ、身銭を稼ぎにあちこちへ出ていった。ロイテ随一の工業地帯を擁するリニーエンフェルト州は首都ベーアヴァルトよりもはるかに人を寄せ付ける土地となっている。
『よし、では次……少し配慮に欠けることかもしれないけど、聞かせてもらいましょうか』
ラウラはアルベルトに目配せして、手元の紙をめくる。
『昨年7月の初等学校卒業 から、本来の進学先に一度も行っていないようですね。理由は……私の想像通りかしら』
ふと、ナタリエは目を背けた。まさしく図星をつかれたからだ。黙って首を縦に振ることが、彼女にとって唯一可能な返答だった。
『あなたがそのことを知ったのはいつ?』
『……5月です』
バツの悪い返事、ナタリエの脳裏に嫌な思い出が細波のように反芻される。
『私が、』
そして一度口に出してしまったことで、その記憶は濁流のごとく迸った。
『汚れた血だって知ったのは』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます