第1章 歪んだ少女と歪んだ国 -CC.1959-1962
第1話 はじまりの日 -Am 5. Januar, 1959
1. 馬車に乗って -In einer Kutsche
――あの長く苦しかった青春の歳月を語ろうとするならば、この時から始めるのが適切な事でしょう。私だけではなく、国も、世界も、この時から完全に風向きが変わったのだと確信しています。――
薄く埃の掛かった姿見を前にして、彼女は立っていた。栗色の円らな瞳で自分の顔を捉え、かつてないほどの丁寧さでブロンドの髪の毛を梳いていた。加減が分からないのでともすれば永遠に格闘する羽目になっていたところだったが、階下からの一声ですぐに決着がつけられた。
「ナタリエ!いつまでやってるの?もうすぐ馬車の時間よ!」
「はーいママ、もうちょっとだからー!」
慌てて駆け下りると、古い床板がギイギイと悲鳴のように音を立てていて、かなり年季の入っていることが分かる。玄関先にはすでに荷物の入った大きな旅行鞄がまとめられており、雪の降りしきる中、母と、この寒さにもかかわらず律儀に客を待ち続ける馬車の姿も認められた。
「ほら、充分かわいく出来てるじゃない。後はこれだけね」
母は娘を抱き寄せると、翠色に煌めく石に飾られたネックレスをかけてくれた。
「ごめんね、こんな日なのに私一人だけで見送るだなんて……」
「しょうがないよ。お姉ちゃんもお兄ちゃんも、急には帰って来れないもん。ママだけで大丈夫よ」
「本当?嬉しいこと言ってくれるじゃないの」
再び母は娘を抱きしめるが、今度はその表情に陰りがみえた。
「母さんがいなくても平気ね?さあいってらっゃい、時々でも手紙を送ってね」
「うん、あっちでも頑張るよ。ママも元気でね」
そして娘が乗り込んだ馬車の扉が閉まると、足早に走り去っていった。彼女は車窓から身を乗り出し後方へしきりに手を振っていたが、街路を折れ曲がると寒さに耐えかねてすぐに締め切ってしまった。内心では、どこかこの別れに安堵のようなものを覚えている。
その少女、ナタリエ・トートの暮らしは豊かとはいえなかった。食事は安いパンや缶詰が定番で、肉や牛乳、サラダなどは偶にしか食べられない贅沢なものだった。持っている服も少なく、おしゃれやきらびやかな生活は街頭広告の中のことでしかない。水道は共用、室温も満足に調整できないような古い住宅で育ってきた。
父親の声を聴いたことはない。彼女の生まれた年に戦争で亡くなったからだ。年の離れた兄姉らがいるものの、早くから働きに出ていったので、ここ最近顔を合わせていない。この家に残っていたのは母とこの娘だけになっていたが、実のところその二人の関係にもヒビが入り始めていた。その原因は、初等学校を卒業してからそのまま娘が通学を拒むようになった理由でもある。
一方、馬車は賑やかな街区の目抜き通りを過ぎ、
降りた位置から少し歩く必要があり、懐中から封筒に入った一束を漁った。黄地の紙の表には彼女自身の名前とこれから向かう先の住所が記されている。今いる地点から一本道をまっすぐ進めばそこへたどり着きそうだ。また、封筒の裏には錨をあしらったマークを背景に、F・o・L・Vの4文字が印刷され、封蝋にも似たような錨のマークが刻印されていた。これを目印にしろということなのだろう、白い吐息を宙に溶かしながら、彼女は薄っすら積もりかけている雪を踏み鳴らしながら歩を進めていった。
かつてロイテは巨大な国だった。いや、今も大国であることには変わりないのでこの書き方では語弊があるだろう。とにかく、今の規模を軽く超える程度には繁栄した国であったことには間違いない。それは領域的にも経済的にも当てはまる。人々は、はち切れんばかりに膨張した富で欲望を満たし続け、いつしか海を越えた先にも進み、際限なく望むものを享受することができると信じきっていた。そう、あの時までは。
その国の位置するラウレンティアの大地が戦乱の渦に飲み込まれたのはわずか10余年前のことであった。人は多くを喪った。過酷な状況で、命だけでなく尊厳も、人間性も……過剰なまでに盛り立てられた報復心と敵対心だけを増やし、戦争は終わった。
当時のロイテは滅び、新しくなった体制は常に矛盾と不安を抱えながら舵を取ってきた。しかし10年をかけたその航海もやがて限界を迎え、操舵手は邪な者共にとって替わられようとしていた。その煽りを真っ先に受けた一人がナタリエという少女だった。
彼女が今歩んでいる道は、他でもない、この不遇から脱するための僅かな希望の道だと云いたかったことだろう。たとえそれが、血塗られた地獄へと通じていたとしても。
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