第10話

まずいことになってしまった。

目の前で人が死にかけている。


本日何回目のわけの分からない出来事だろう。

もはや、なにがあっても驚くことなどそうそう無いと思っていたが、そもそも分けが分からないことに慣れるなど有りえない。


「社長!大丈夫ですか!?社長?」


美奈子は、今日会った人間に対して律儀に”社長”と呼び続けている。

後にして思えば、ここで逃げ出していたら自分は晴れて自由の身では無かったのか、と思うが、この時はそんなことなど考える余地も無かった。


天子が自分の膝の上で今、死にかけている。


いや、正確には死にかけているかどうかも美奈子には分からない。

ただ、腹部右わき腹辺りから大量に出血しているのが衣類の上からも分かった。

かすかに呼吸をしているのは分かるが、意識は無い。



天子が突然叫んでこちらに駆けてきた時、自分が何をしでかしたのか分からなかった。

今でもよくわかっていない。

美奈子に獣のように飛び掛かってきたかと思うと、そのまま抱きかかえられた。


その瞬間、今朝幸子が部屋に入ってきた時の物とは、異質の轟音が部屋に響いたのだ。

何かが破裂した音、ではあるのだろうがあのような音は聞いたことが無い。

子どもの頃、縁日で兄が買ってきた爆竹。

兄は度胸試しと言ってそれを靴の上から踏んで破裂させていたのを子供ながらにハラハラしながら見ていたが、あの時の爆竹の連続した破裂音を1つに集約させても足りぬような音。

度胸試しどころではない、生命が試されているような危険な音だった。


天子にきつく抱きしめられ、その豊満な胸に顔を押しつけられていた美奈子は、さなぎがから羽化する虫の様にもぞもぞと天子の束縛から這い出た。


火薬が焼けたような臭いと密閉された事務所に広がる煙、そしてそれらに混じる埃っぽさが辺りを漂う。


手元もおぼつかない中で、床を探るとすぐに天子の柔らかい体に手が触れた。

天子の体から、その柔らかい体には不釣り合いな、なめらかなシルク生地に泥を付着させたような、粘っこい不快な違和感を感じた。


美奈子はその不快な感触を、胸のざわつきを押さえつつブラインドから漏れる灯りを便りに確かめた。


美奈子の手のひらいっぱいに、赤黒い粘膜の様な血が付いていた。


悲鳴を上げる事すらままならない程の驚きで、歯が上手く噛みあわない。

何をどうすれば良いかもまともに判断できず、その震える口と手を使って無我夢中で必死に天子の名前を呼びかけていた。


呼びかけてても返事が無く、小さく呼吸をするばかりの天子。

美奈子はようやくこの時に少し冷静になり、こういったときには止血する必要性があるのを思い出し自身の羽織っていた白いカーディガンを脱ごうとした。


すると何かが美奈子の白く細い手を掴んだ。


「……アンタは私を生かしたいのか、殺したいのかどっちだい」


小さく天子の呟く声。

美奈子はその声を聞いて抑えていた感情の堰が切れたかのように泣き始め、天子の胸に顔を伏した。


「馬鹿!生きてるけど怪我人なんだ、押さえられたら傷口からケチャップみたいに血が出ちまう……」


痛々しそうに声を荒げる天子。


「すいません!どうしよ、体起こした方が良いですか?」


美奈子は驚いたように顔を上げると天子の体を起こそうとした。

その途端に、天子の顔が苦悶に歪む。


「痛っだだだ、どうも右っ腹がやられてるみたいだ、すまないけどこのまま右上に起こしてくれないかい?」


美奈子は自分の膝の上で仰向けになっている天子の身体をゆっくりと右わき腹が上になるように起こしてゆく。

身体を少し動かすたびに、天子から糸を切る様な小さな喘ぎが聞こえてくる。

ようやく身体を起こしきった、天子は息も絶え絶えだった。


「すまないね、それと救急車頼まれてくれるかい?」


「あ!?」


美奈子は一番大事な何かを思い出したのか、天子に気を使うのももどかしい程の勢いで立ち上がると、応接セットのソファ近くに置いてある自身のハンドバッグへと駆け足で近寄って行く。

その割りを食う様な形で、天子はコンクリートの床に再び放り出され頭を強かにぶつけた。

天子から、腹の中に溜まった濁りを吐き出した様な声が出る。



「アンタ、良い加減にしなよ!どうせ番号は119なんだ、携帯なら私の……⁉︎」



天子は自分が身体を起こしていることに気がついた。


先程は少し身体を動かすのですら、息もできない痛みが伴ったはずである。


天子は自分の身体を弄った。


美奈子を庇って背中で爆発を受けたため、Gジャンは背中の辺りがパンクロッカーの衣装の様なボロ切れとなっている。

その下のスキニーパンツもGジャンと変わらない状態であり、天子の素足があらわになっているところもある。

天子は、スキニーパンツから覗く素足の血痕を爪で掻いてみた。

血液は乾き始めており、その下にはかすり傷などの痕跡も無い。

一応、痛みのある箇所がないか身体をさすってみたが、別段痛むところも無かった。


そして、特に酷かった右脇腹。。

インナーの裂かれた部分に指を入れても天子の柔らかな脇腹に何かを突き立てた様な痕跡が無い。

厳密に言えば、まだ乾ききっていない浅黒い血が手に付着した。

確実に自分から、それもそれなりの致命傷を食らって出血をしたはずである。


天子は、ブラインドから漏れる月明かりに照らされる一際残忍な形と醜悪な赤黒の模様を付着させた金属片を目にする。


「なるほどねぇ……」



天子は緩慢に立ち上がると、そばに落ちていたコルトを拾いあげる。

そして船をこぎ出す様にゆっくりと美奈子に近寄って行く。


「あ、はい、救急です、え?じゅ、住所?えっと……島根県の、ここって出雲?松江?あの社長、ここの住所って……」


美奈子が天子が寝ていた方を振り返ると、天子が不健康な青い表情で立っている。



美奈子は白目と黒目を反転させてしまったかの様に驚いて、その場で固まってしまっていた。

電話の向こうからは反応の無い電話先を訝しむように何度も「もしもし?」と繰り返されている。


天子は美奈子の持っていた携帯を取り上げた。


「あー、もしもし?いや、すいませんね、実はこの時間から近所の学校のグラウンドで妖怪たちが水木しげるプレゼンツで野球大会おっぱじめましてね、いや、運動会も野球も墓場でやれって話なんですが、気が動転したツレが110と間違えてどうもそちらにかけてしまったみたいで、どうもすいません、お忙しいところ、それじゃ」


電話を切った天子は「ほらよ」と、美奈子に携帯を返した。


美奈子は目を皿にしてひっくり返してしまった様に呆然と立ち尽くしていた。


「あの、社長の幽霊とか、お化けとかじゃ無いですよね……」


「お生憎様、野球大会にはご招待されてないみたいだよ」


そこで、美奈子の最後の緊張の糸が切れてしまった。

操り人形の全ての糸が断ち切れたかの様に膝から崩れ落ちる美奈子。


最後に見たのは、天子の慌てふためく表情だった。

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