第2話
はじめてのおしごとから遡ること2週間程前
朝から彼に暴力を振るわれた。
たまの休みに散々な日だな、と思う。
彼が、明日から2〜3日ほど地方に行くから金が必要だ、と言ったので、今すぐに渡せる分は無いから代わりに立替えておいてほしい、明日か明後日には彼の口座に振り込むからというと、突然癇癪を起こし金銭管理や生活態度について散々罵倒され殴られた挙句、彼は出て行った。
出会ったころの彼に今の私を見せたなら、彼は私に同情してくれるのだろうか。
するのだろう、そして優しく耳触りの良い言葉で私を肯定し、容易く安っぽい約束を交わすのだ。
「いっそ別れちゃおっかな……」
言葉にした後、加藤美奈子は自嘲気味に笑った。
出来るわけがない。
九州から大学入学と同時に上京したは良いものの、東京の空気にも大学にも馴染めず孤立していた美奈子にとって、唯一心を許せたのが彼なのだ。
美奈子は、彼無しでは東京の人達と会話もままならないだろうと思った。
東京で就職を決め、つらい仕事の毎日だって彼に依存する事で耐えている。
自分が今こうして生きているのは彼のおかげなのだ、だから、私が働いて得たお金だって彼の為に使うのはもっともな事だし、その金銭管理が出来ていなくて彼が怒るのはもっとも……
最初は、どこかで事故が起こったのだと思った。
突然、周辺に車が壁にぶつかったような衝突音が響き渡る。
車の自損事故と違うのは、ぶつかる直前に鳴るけたたましいブレーキ音が無く、突然衝突音と肌に響く振動が伝わって来た。
突然の衝撃音にしばらく耳鳴りを起こした美奈子から、音の遠近や平衡感覚が失われる。
とりあえず、事故の起こった場所を把握しようと部屋を出ようとしたその時、部屋を出る必要が無くなった。
「……」
美奈子は口を開けて放心していた。
美奈子のアパートは玄関の扉が、部屋に対して外側に開くようになっている。
それが、内側に開いていた、魔法でも使わない限り本来絶対に開くはずが無い方向に開いているのだ。
無理やりに開けた扉周りの外壁にひびが入っている。
事故現場は美奈子の家だった。
しかし、美奈子の家はアパートの2Fであり、車もしばらく空を走る予定も無い現代、魔法でも使わない限り車がアパートの2Fに突撃してくることなどあり得ない。
扉の外には、一人の女性、いや少女が足を上げて立っていた。
年のころは高校生くらいか、整った顔立ちにパーマを当てたパールグレージュの長い髪が良く似合う美少女で、キャミソールの上から黒いパーカーを羽織り、下はデニムのショートパンツというラフながらも色気のある”遊んでそう”な雰囲気を醸し出していた。
「おじゃましまーす」
にこやかに入ってきた少女の肩には、何かが担がれていた。
どうぞ、と美奈子が声を掛ける前に土足のまま部屋に上がり込む少女、そしておもむろに肩に担いでいたそれを地面に投げた。
「……うぅ」
投げられた物体は彼だった。顔を見ると目には青く痣が出来て腫れており、口には血の跡が固まっている。
理解の追いつかない状況が続き、美奈子の四察能力は限界に達してしまった。
「えーと、貴女が加藤美奈子ちゃん?とりあえず立って」
部屋に侵入してきた少女は、ぶしつけに美奈子に注文を付けてきた。
「……ひょっとして、コレとアレ見て腰ぬけちゃってる?ごめんねー、突然押しかけて」
少女は、彼と扉を指差すと申し訳なさそうに美奈子に手を貸した。
自失していた美奈子は、ほぼ無意識に差し出された手を取った。
「ちょっと写真撮らせてもらうからね」
と言うと、少女は美奈子を立ち上がらせると矢継ぎ早に携帯のカメラ機能で写真を撮り始める。
様々な角度からいくらかの写真を少女が撮っている間も美奈子は成されるがままだったが、それでも時間が経つに連れ色々と状況を認識できるようになってきた。
理由や方法は分からないが目の前に入る少女は鍵のかかっている扉を無理やり開け、これも理由は方法は分からないが彼を痛めつけた。
そして、何の目的があってか分からないが、今はこうして自分の写真を撮っている。
なんらかの手段で扉を壊し、男性である彼を痛めつける方法を持っている少女に対応するには、逆らわない方が良い、というのが一番懸命だろうと美奈子は判断した。
つまり、今この状況がベストなのだ。
半ば自発的な行動による事態の解決を放棄した美奈子だったが、しかし、気がかりな点が一つあった。
美奈子は床に視線を落とした。
今も床に寝て起き上がらない彼の容態である、うめき声は聞こえているので、恐らく生きているのだろうとは思う。
それでも、もし叶うなら何とか介抱できない物かと思案していると、少女が美奈子の視線気付いた。
「あーコレね、死んではないと思うよ、多分」
と言って、寝ている彼を足で小突いた。
無様に足で小突かれうめき声を上げる彼が見るに絶えず、美奈子は視線を彼から外す。
「あの……彼が何か……」
美奈子は恐る恐る尋ねる、と言っても、何かをしたからこのような目にあっているのだろう。
「んー、何かしようとはしてたんじゃない?何かする前にあたしがぶん殴って蹴り上げちゃったけど」
彼が彼女に何をしようとしていたのか、彼女のメリハリのあるボディラインを見ればよくわかる。
自分の貧相な体つきと比べるのはおこがましいという物だ。別に彼のそういった癖は今に始まったことではなかったが、やはり事実を知るというのは堪える。
そんな伏し目がちな美奈子を尻目に、少女は携帯を取りだしてどこかへ電話を繋いだ。
「あーもしもし、あたしだけど、うん、写真送ったけど見た?うん、実際は写真で見るよりも白かったよ、ただねぇ……うん、そのことについては信用できないんだよなぁ、言ってた奴があんなだし……」
少女は困った顔を美奈子に向けた。
「ん?いや聞けるわけないでしょ、馬鹿じゃないの?いや、無理無理無理無理、そんなん聞いたらあたしの第一印象最悪じゃん」
アパートの扉を壊して中に侵入してきた時点で第一印象などほぼ決まったようなものだろう、と思ったが美奈子はあえて口にしなかった。
頭の中でツッコミを入れられる程度には自分の周囲を取り巻く空気に順応してきた事に、美奈子は少しばかり驚いた。
「えー……んー…‥分かったよ、うん、嫌だなぁ」
少女はそういうと、一旦携帯から耳を離す。
「あのさ、美奈子ちゃん」
「はい?」
「処女?」
「は?」
「ごめん、マジでごめん、あたしじゃないからね、電話の先の人が聞けって言っただけだから、あたしじゃないけどごめん、マジでごめん」
少女は慌てて再び携帯に耳を預けた。
「怒ってるよ!だから言ったじゃん、これどーすんの⁉︎あたし嫌だからね、女の子殴る真似なんてするの!」
少女は電話口で何か揉めているようだが、彼女が慌てるほど美奈子は腹を立ててもいなかった。
と言うより、先の騒動からようやく周りの空気に順応してきた矢先、一転して斜め上の質問に理解が追いつかなったので、間抜けな返答をしてしまった。
そういえば、彼にそんな話をしたかも知れない。九州にいたころはほとんど異性との関わりも無く、上京してからも彼に出会うまでは異性と接点は無かった。
彼と出会った時にその話をしたところ、それは私の美点であり、彼はそれを尊重し大切にする、と言って、彼と即物的且つフィジカルな意味での男女の関係にはなったことが無い。
だが、彼にしかそのことを言った記憶には無く、それを初対面の少女が知っているとなると、つまりは彼がそれを彼女に伝えたことに他ならない。
目の前の彼女に話してしまえるほどの美奈子の乙女な部分について、彼は何人の人間にそのことを喋ったのか。彼が尊重し大切にしていたのは渡しの何であったのだろう、
美奈子は段々と恥ずかしさと空しさに身悶えしたくなった。
「いや、あの、怒っては無いです、はい、けど、その、先ほど仰られた事については、お答えしずらいというか、タイミングとか諸々の事情で……」
自分は何を取り繕っているのだろうか……年下であろう少女に対して侮られたくないという抵抗か、彼にとって都合の良い女だった事を認めたくないゆえの悪足掻きか。
「多分、ホントっぽいよ」
一人慌ててる美奈子を見て、少女は電話の相手に告げた。
「うん、じゃあまた夜に」
そう言って少女電話を切ると、改めて美奈子に向き直った。
「そんじゃ行くか」
「行くって、もう帰られるんですか?」
少女の言葉に美奈子は安堵感と同時に、先のことを考えて少し憂鬱になった。
ドアのことをアパートへの管理会社へどう説明したら良いのか、それに彼のことも心配だったが、何回目か分からない浮気の事を聞くと多分また不機嫌になるだろうし、今回はこんな状態になっているのだ、自分への当たりの強さも並ではないだろう。
「飛行機の時間もあるしねー」
この少女については、何考えているのかよく分からなかったし、彼への仕打ちや何故か壊れたドアの件も含め正直恐かったが、しかし嫌な感じはしなかった。
話の通じないタイプの危ない人間というわけでなさそうであり、ちゃんと話せば、あるいは違う場面で出会っていたなら、案外仲良くなれる人なのかもしれない。
別段無理に今から仲良くなる理由も無く、それに飛行機に乗って帰るような場所なら、もう会う事も無いだろうが。
「ほい、これ美奈子ちゃんのチケット」
「!?」
美奈子が渡されたのは飛行機のチケットだった。本日18:30出発、到着場所は出雲、搭乗者には美奈子の名前が記載してある。
出雲と言えば島根の出雲だろうか?そこになんで私が行くことになっているのだろう。
「この馬鹿さ、昨日そのチケット目敏く見つけやがって、自分も一緒に行く、なんて言い始めてさぁ……今日もなんかゴチャゴチャ言ってきたからあんまり腹立ってついね」
少女は彼を足で転がしながらケラケラ笑っていた。
「とりあえず、1時間半後くらいに迎えに行くから、ってそうそう」
少女は美奈子に手を差し出す。
「あたし、鹿野幸子、バンビって呼んで」
無垢な笑顔で自分を連れ去るつもりの少女、美奈子は彼女の手を何の疑いも無く取っていた
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