2.あるアパートの一室にて

 彼は越してきたその日に、あたしの所に顔を見せた。あたしより六つ七つ年下に見えたね。一目で感じの良い男だと思ったよ。服こそくたびれた感じだったけど、丁寧な話し方だし、顔も悪くなかったしね。


 彼は丁寧にあいさつして、あたしと二言三言話すと、部屋へ帰っていった。あっと言う間のことだったけど、それだけであたしは、彼の顔も声も忘れることができなくなってた。


 彼は週の初めの朝――仕事だろうね、必ず外へ出かけた。それに気づいたあたしは、そろそろ彼が出かけるっていう時間になると、決まって散歩にでも行くようなふりをして部屋を出た。すると、彼が階段を下りてくるのが見えるのさ。


 彼は必ず笑顔で礼儀正しくあいさつしてきた。格好はいつも白いシャツに深いベージュのズボン。片手には書類を入れるような紙袋を抱えてた。


 あたしは微笑んであいさつを返し、彼の後について階段を下りる。努めて淑やかにね。目の前に彼がいることと、純真な女の仮面を被ることと、両方があたしを息苦しくさせた。でも苦なんかじゃなかった。むしろ心地よかった。それに、彼と偶然会うことなんて滅多になかったから、こうしないと彼の顔を見ることもできなかったんだよ。


 例によって彼と会ったある日の、夕方頃のことさ。あたしは窓際の椅子に座って縫い物をしてた。そして何気なく外に目をやった時、娘が通りをアパートの方へ歩いてくるのを見つけた。


 娘っていうのは、彼の恋人さ。名前は知らない。清楚を絵に描いたような見た目だけど、話したことなんてないから、人となりは分からない。年は彼と同じぐらいだろうけど、顔がいやに幼い。それが時々、彼の元にやって来てたのさ。


 娘を窓越しに見ていたある瞬間、あたしは、あたしの胸に巣食ってたものが何なのか分かった。いや、前から分かっちゃいたけど、その時はっきり面と向かわせられたのさ。年下の娘に嫉妬だなんて、みっともない――そう思ったけど、どうにも収まらなくなってね。


 あたしはじっと椅子に座ってた。針を持つ手を動かそうにも無理だった……手が震えて、ともすれば指を突き刺しちまいそうでさ。結局、縫いかけの布の端を噛んで、じいっと窓を睨んでたよ。


 どれくらい経ったろうかね。上の階……そうさ、彼の部屋から、騒がしい音が聞こえてきた。動き回ってるような足音、それに、物を落としたような鈍い音。言葉は聞き取れなかったけど、怒鳴ってるような、悲鳴のような声も聞こえた。ただ事じゃないって一瞬で分かったよ。二人の喧嘩なんて、ほとんど聞いたことがなかったからね。


 数分ぐらい経って、急に静かになった。声も足音も、いつもと変わらないぐらいに小さく小さくね。ああ、落ち着いたか――そう思ったけど、あたしはなぜか恐ろしくなった。嫌な予感とでも云うのかね、何かが心を落ち着かなくさせたのさ。布を持つ手に、いつの間にか力がこもってた。恐いもの見たさに似た気持ちで、あたしはぴくりともせずに耳をすませた。


 長い長い、と云っても実際は一分も経ってなかったぐらいだろうね。静けさを破ったのは、彼の叫び声だった。


「やめてくれぇ!」


 今までとは違って、言葉がはっきりあたしの耳に届いた。


 はっとして立ち上がると、今度は娘の金切り声。なんて叫んだのかを聞き取る前に、足音が慌ただしく、あたしの頭の上……彼の部屋から飛び出して、転げ落ちるように階段を下りてった。あたしはただ、どうすることもできずにその場に立ちつくしてた。


 窓の外、路地を足音の主が――娘が逃げるように走ってくのを見た時、あたしは全てを悟った。


 ――あの娘が彼を。


 そう思うだけで体が熱く震えた。震えだすと止まらなかったよ。どうにも抑えられなくなって、持っていた針を力任せに壁へ突き立てた。ぎりぎりぎり、と背中の毛の怖気立つ音がして、針が真ん中から曲がった。


 ――あの娘が……あの憎い娘が、彼を殺したのさ。

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