第24話 琴のビワイチ 前編

 梅雨が明け、夏休みに入った。琴はショップからカワセミ号に乗ってマンションに帰って来た。駐輪場で、すずらん号と並べてみる。


 ゆりがずっと乗って来たロードバイク。颯爽とエイドステーションを後にした姿が今でも目の前に浮かんでくる。まさか、その一年後に私が乗ることになるなんて、思ってもみなかった。チェレステカラーは、駐輪場の電灯を受けて輝き、しかし琴をじっと値踏みしている様だった。私も全力で頑張るから、キミも全力で応えてね。ゆりはきっとそれを望んでいる。そう思ってキミを送り出したんだ。断腸の思いで送り出したんだよ。頑張ろうね一緒に。それが終われば、ちゃんとゆりの所に帰って、ゆりを支えてね。Good Night.


 そしてその日がやって来た。早朝、爺様の車で出発した琴とカワセミ号は、琵琶湖大橋が眺められる駐車場にいた。間もなく一台の車が到着し、コウヘイさんとシンザン号が降りてきた。ヨシノさんとゆりは、後から来る。


「コウヘイさん、先頭お願いしますね。琴はその次だよ」


 爺様が言った。


「判りました。無理ないペースで行きますけど、琴ちゃんきつかったら声掛けて下さい」


 よし、いくよ、カワセミちゃん。琴はビアンキに声を掛けた。


 時刻は午前七時、出発。ビワイチは基本、琵琶湖を左に見て走る反時計回りが多い。コースは[ぐるっとびわ湖サイクルライン]という名称で、所々に標識が設けられている。自転車は歩道の中を走る事が多いが、区間によってはその保証はない。とは言え、湖東地方の道路は単純で迷わず走れる。コウヘイさんを先頭にした三台は、リゾートホテルの横を走り抜け、松林やビーチを横目に守山市、野洲市と走ってゆく。朝の空気は涼しく、道は平坦で気持ちいい。水門を過ぎると近江八幡市。日野川の橋を渡るとやがて道路は右にカーブし、次いで左にカーブ、ちょっとした坂を上って下る。長命寺川を渡ると内陸部に旋回、水郷とスイカの有名な場所だ。ここら辺の道路脇には黄色の草花がたくさん咲いていた。


「なんか、きれーい。コスモスみたい」


 琴が言った。


「きれいなんだけど、外来種で増えすぎて困ってるんだよ。キンケイギクって言うんだ」


 爺様が解説してくれた。


「ふうん、可愛いのにねえ」

「やっぱり外来種ってのは繁殖力が強いのかな、すぐに広まっちゃって、他の花が咲けないんだよ」

「ああー、それは微妙な話だー」

「それからここの左の山の向こうにはねー、沖島っていう琵琶湖で一番大きな島があるんだ。島が見える道もあるんだけど、少しアップダウンのある山道だから、今回は外したんだよ」

「へえ、島があるんだー」

「人が住んでる琵琶湖で唯一の島だよ」

「へえー」


 三台は愛知川を渡って彦根市に入る。湖岸がまた近づいて来た。途中でコースは幹線道路から外れ、集落の中を走る。コウヘイさんが減速のハンドサインを出した。


「一度、ここで休憩しまーす」


 三台は左手の湖岸沿い緑地に停車した。湖岸の緑地の向こうには穏やかな湖面が広がっている。


「うわー、広いなー。琵琶湖って海みたい」


 琴は目を瞠った。


「普段、海のない生活してると羨ましい気がしますね」

「コウヘイさんも、是非滋賀県に引っ越してらっしゃい。湖も山もあるよ滋賀には」 

 

 爺様が微笑んだ。


「なんかその気になっちゃうなあ」


 休憩後、三台は再び湖岸の道を、朝日を浴びながら走り出した。


「次の交差点、左折しまーす」


 コウヘイさんが左手を出す。


「間もなく、右に彦根城がちらっと見えますよー、左は彦根港でーす」

「えー港があるの?」


 琴はたまげた。


「そうだよ、琵琶湖には定期船がたくさん走ってるからね」

「やっぱ海だー」


 次第に交通量が増えてきた。


「もうすぐ長浜でーす」


 大きなY字路を左に入ってゆくと正面にお城らしきが見える。コウヘイさんがブレーキのハンドサインを出した。


「公園になってるから、押し歩きますね。トイレ休憩します」


 出発から2時間半。お城のある豊公園に到着した。お城は本当は博物館なのだが、立派な天守閣に見える。


「琴ちゃん、どうですか。カワセミ号の乗り心地は」

「よく走る子で快適でーす。坂道ないし、琵琶湖見えて気持ちいいし。ゆりにLINEしなくちゃ」


 爺様もニコニコして言った。


「琴、これから少しずつ風景が変わってゆくよ。今度は琵琶湖を縦に見ることになる」

「へえー縦? 見当つかない」


 豊公園を出発した三台は少しペースを落として湖岸を走る。1時間ほどで道の駅に到着した。[湖北みずどりステーション]とある。


「えっと、ちょっと早いけど、ここでお昼にします」


 道の駅の自転車ラックには既に数台のロードバイクが掛かっていた。琴は丁寧にカワセミ号をラックに掛け、厳重にロープ錠を回した。カワセミちゃん、ちょっと待っててね。


「お昼って言うよりブランチだよね」


 琴は爺様に言った。

「まあね、この先は店が少なくなるし、段々山あいに入っていくからちょっと長めに休憩するよ」

「うん、あー でも気持ちいい場所だあ」


 琴は思いっきり背伸びした。まだ半分も走ってないけど、凄く遠くに来た気がする。だってほら、琵琶湖なのに島が重なって見えるんだもん。こりゃ瀬戸内海だよ。琴は密かに思った。


 お昼前に三台は出発した。ここから少しの間、湖が見えない道になる。暫く単調な道を走って、国道との交差を過ぎて左折、集落の中の長閑な道は、ずっと先で山に吸い込まれていた。


「琴ちゃん、ここから登りです。ゆっくりでいいですよ、唯一の山ですからのんびり行きましょう」


 コウヘイさんが声を掛けた。


「はーい、坂、久し振り」

「楽しみですかー?」

「いえ、全然!」


 [賤ケ岳⇒] の看板を過ぎると本格的な坂になった。


「うわー、きつい…ですっ」

「琴、ギア落としな。ローでいいよ」


 爺様が並んで走ってくれる。くねくねと何度か曲がって上がってゆくと、前方にぽっかりトンネルが口を開けていた。コウヘイさんがブレーキサインを出す。


「このトンネルは結構暗いので、サングラス外して、ライト点灯して下さい。テールランプも忘れないように」

「はーい」

「じゃ、行きますよ。ゆっくりでいいですからね」


 コウヘイさんを先頭に三台はトンネルに進入した。琴はコウヘイさんのテールランプの点滅を追いかけて走る。先に出口が小さく見えるのだが、中は本当に真っ暗だった。わずかに天井にオレンジの灯りがあるものの、路面までは届かず、そして前方の出口は一向に近づいてこない。路面は上がってるのか下がっているのか判らなかった。


「なんか、怖いですー」


 琴の声が反響した。

「大丈夫ですよーちゃんと出ますからー」


 暗いだけでなく、時折水滴が落ちて来る。うわー、お化け屋敷だよーこれ。


「段々出口が近づいてるでしょう?」


 コウヘイさんが叫ぶが実感は湧かない。路面を照らすヘッドライトは儚げで、真っ黒な凸凹を不気味に浮き上がらせるだけだった。


「琴、もう少しだよ、大丈夫」


 爺様が後ろから声を掛けてくれた直後にそれは起こった。


ブニュンブニュン・・・。 

え?なにこれ? 何か後ろが変。カワセミちゃん、どうしちゃったの?


「爺様、後ろが変だよ~。お化けかな~?」


 琴は叫んだ。コウヘイさんも緊急停止する。ゆっくり近づいて来た爺様が、ヘッドライトで照らすと、後輪が見事にパンクしていた。


 なんでここでパンク?真っ暗な所で。しかも多分一番遠いところで。琴にとっては初めてのパンクだった。パンク修理習ったけど、こんな暗い所では修理できないよー。何か恐いのがいるかも知れないし、どうしたらいいんだ。琴は頭の中が真っ白になった。


「トンネル出てから治しますよ。そこまで押してゆきましょ」


 戻って来たコウヘイさんが明るく言った。


「え?大丈夫なんですか? カワセミちゃんごめんね。真っ暗で判んなかったよ」

「誰にでもありますよ。気にしないで下さい。今日はパーツも取り揃えて持ってきてますから大丈夫です」


 コウヘイさんの言葉に琴は救われた。少し脱力した琴は、カワセミ号を押し歩いてトンネルを出た。

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