第25話 琴のビワイチ 後編

 そこで琴が見たものはまさに絶景だった。青い空の下にさざ波寄せる湖。重なる島々。本当は半島なのだが、その奥には縦になった琵琶湖がずっと見渡せた。パンクのことなど忘れそうだった。

「いい眺めでしょ」コウヘイさんが言った。

「これを見ると疲れを忘れるね」爺様も言った。

本当に。琴は頷くことしかできなかった。

「さ、パンク修理しますよ。暫く景色を堪能してて下さい」

「本当にごめんなさい。よろしくお願いします」琴はカワセミ号を差し出した。

「この下の湖面をね」爺様が言った。

「カヤックで漕ぐでしょ。陸側から入れない浜辺があってね、野生のお猿さんがたくさんそこで遊んでるんだ。彼らは人が来ないと思ってるからカヤックで近づいて 

おーい とか言うとびっくりして逃げちゃうんだ」

「えー、それ…可哀想じゃないの?」

「まあねえ、せっかく遊んでるのにね。まさか湖から人が来るとは思ってないから焦るんだろうなー」

「でも、なんか、見てみたい気もする」

琴は想像した。慌てるおサルさん。うわっ何じゃコイツ、人間じゃん、それも年寄!

結構、遊ばれてるのは爺様かもしれない。コイツきっと おーい とか言うよ。ほら言ったー、俺の勝ちー、とか。


「できましたよー。小さな尖った石がたまたまあったんでしょうね。タイヤはダメージ殆どないから大丈夫です」

コウヘイさんが声を掛けた。

「有難うございます。本当にすみませんでした。カワセミちゃん、治って良かった」

「コウヘイさん、早いねー。さすがはプロメカニックだ」


 三台は続いて絶景ロードをダウンヒル。道路は国道に合流する。

国道はトンネルに突入するが、自転車はその手前で左折し、半島を周回する。入江が見渡せる快適な道だ。再び国道に合流すると近江塩津の集落がある。コンビニが見えたら左折、道は畑の中を真っ直ぐに伸びていた。突き当りの集落を抜けるとまた国道に出た。

「もうすぐトンネルがありますけど、今度のトンネルは明るいですよ。歩道を走って下さいね」

コウヘイさんは左折し、国道の歩道を走り始めた。慌てて琴も後を追う。

トンネルはナトリウムランプのオレンジ色で明るかった。トンネルを出てコウヘイさんはブレーキングサイン。

「ここから下ります。車道を走るので、スピードとトラックに注意して下さい」

「はーい」

後ろで爺様も同じように返事している。下りは爽快だった。交通量も少ない。

「線路を潜ったら左折しまーす」

コウヘイさんが叫ぶ。はーいの返事は風と共に後ろにすっ飛んでいった。

[大浦口]の標識を左折、再び線路を潜って小学校の脇を抜け、体育館の角をを右折すると小さな川沿いの道に出る。のどかな田園地帯だ。突き当たりを右折すると、半島周回道路に入る。左手に湖面が見えるこれまた絶景サイクリングコースだった。

爺様が並走してきて

「ここらは桜の名所でね、春には船からお花見するんだよ。それと左の半島の向こうに見えるのが竹生島。神社しかない島で観光地なんだ。足大丈夫かい?」

「うん、結構足に来てるけど、頑張らない訳にはいかないから頑張る」

事実、琴の足は既に悲鳴を上げていた。そろそろ百キロになろうかと言う地点だ。

「回り込んだらマキノだから、そこのビーチで休憩するからね」

爺様は言ってコウヘイさんと並び、そして下がって後に付いた。

半島の先端付近に短いトンネルが続いたが、今回は何も起こらず、マキノの街並みが見えてきた。道は少し広がり桜並木は続いている。そしてようやく道路標識が見えて、古い家屋の並ぶマキノ・海津に到着した。ゆっくりと街中を進むと、造り酒屋やお寺も居並ぶ。暫く走ってようやく休憩ポイント:サニービーチに到着した。コウヘイさんがハンドサインを出して入って行ったのはキャンプ場受付のある一角だった。

「はい、お疲れ様でした。トイレもありますし、喫茶も一応あるんだけど、やってるのかな。ま、とにかく休憩しまーす」

夏休みに入ったビーチはパラソルやテントで賑わっていた。三人は空いているベンチを探し腰を下ろした。

「あー、まったりする浜だなあ」

爺様が伸びをする。賑わいの割に水浴する人は少なく、子供連れが波打ち際で浮輪につかまっている程度だった。琴はその波打ち際まで行ってみた。意外にも水は透きとおっている。へえ、琵琶湖の水ってこんなにきれいなんだ。爺様がやって来て

「秋口になるとね、落アユが水際まで来るんだよ。湖面でも小さな魚が跳ねてるしね。でも今は藻とか水草が伸びて水中は結構ごちゃごちゃしてる。みんな一所懸命やってるんだけど、自然のバランスって難しいねえ」

「泳いでる人、意外に少ないね」

「うん、遠浅って感じじゃないし、少し行くと水草が多くて海のビーチとは勝手が違うからね。砂浜掘ったらミミズが出て来たりして、あーやっぱ巨大な池みたいなもんだって思うよ」

「え?ミミズ?砂のお城、恐くて作れないね」

「はは、確かにそういう人は見掛けない」


 三十分程休憩し、走行再開。幾つかのビーチやキャンプ場、漁港を過ぎると左は湖、右は畑の単調な道が続く。島や半島の影は薄くなり広々とした湖面が見渡せる。琴は少々飽きてきた。だって、ずっと同じ風景だよ。本当に進んでいるのか判りゃしない。

コウヘイさんのサインが出た。「休憩しまーす」 

三台は湖岸沿いの緑地公園に入る。

「そろそろ疲れが出てくるので、休憩の間隔を狭めますね。この次は高島の駅近くで休みます」

そろそろ陽も傾いてきている。夕方までに着くのかな。琴は思ったのだが、でもこの足じゃ突っ走りましょうとも言えない。百キロを超えるって言うのはやっぱり大変だ。カワセミちゃんは大丈夫かな。琴はフレームを撫でてみた。それを見ていたコウヘイさんは

「アルミバイクはフレームが固いですから、振動が多いと疲れちゃいますね。琴ちゃんももう少し大人になったらカーボンバイクにしたらいいと思いますよ」

「へ、カーボン…ですか?」

琴には何の事やら判らない。

「そうです、炭素繊維を板みたいにして作った材料でね、金属より強度があって軽いんで、飛行機の翼にも使われてるんですよ。ロードバイクもカーボン製が多くて、このビアンキや琴ちゃんのルイガノも前のここ、フォーク部分はカーボンなんです」

飛行機の翼? ここと一緒? 何やら不思議な気がしたが、それでロードバイクって魔法の絨毯みたいに軽かったのか。

「すみません、今は処理能力がないので、今度また教えて下さい」

「はいはい、そうでしょうねえ。と言っておきながら酷ですが出発します」


 湖周の道路は暫くすると右にカーブし、高島市街地に入って行った。駅前のコンビニでドリンクを補充し、そしてロードバイクと相性が良いとゆりが言っていたソフトクリームを食べて元気を充電。また湖沿いを走る。まもなく湖中から鳥居が出ている観光ポイントに着いた。道路の反対側にある白髭神社の鳥居だという。

「元々は地面の上にあったんだけど、水没してああなっちゃったみたい」

爺様が解説してくれた。水没って、そんな恐ろしい。そう言えばいつだったか琵琶湖の湖底で遺跡が見つかったってニュースでやってたな。琵琶湖にはきれいだけでない歴史が隠れているんだ。琴は少しぞくっとしながら漕ぎ出した。国道は次第に交通量が増え、三人は一列になって黙々と走った。

北小松を過ぎると段々と住宅が増えてきて、[ぐるっとびわ湖サイクルライン]は赤色のペインティングが地面に施されている。JR線の高架にまとわりつくように、サイクルラインは右に曲がって左に曲がってと忙しい。名称もいつの間にか[びわ湖レイクサイド自転車道]に変わっていた。並行するJR線の駅を二つ三つと過ぎ、コウヘイさんが左折を示した。

「コースからは外れますけど、少し湖沿いを走ります。琴ちゃん、もうすぐですよ」

小さな川沿いの道を走ると終点には水泳場があった。三人は看板に自転車をもたせ掛けた。少し風が出てきたようだ。琴は周囲を見渡し浜辺まで歩いてゆく。


砂浜には波が繰返し打ち寄せていた。湖面の向こうには沖島と対岸が重なって見える。

あそこを通ってきたんだ。琴は小さく溜息をついた。

まだ終わってないけど、あと少しだって言ってたし、あー、ここまで来れたんだ。

「琴、左見てごらん。湖北が霞んでるよ」

「うわー本当に遠くになってる」

「あそこ走って来たんだよ。本当によく頑張った」 後ろで爺様が微笑んだ。

「始めて一年目の高校生にしては上出来ですね」 コウヘイさんも言った。

真っ暗なトンネルでパンクした時は泣きそうになったけど、コウヘイさんが手早くチューブ交換してくれたから、気持ちが切れなかった。実は長浜までは余裕じゃんと思ってたんだ。でも余呉を過ぎたあたりから足が棒になって漕いでる感覚もなくなってきたのだ。ここでパンクって、私呪われてるん?と真面目に思った。一人じゃないって素敵な事だった。

「よーし、琵琶湖大橋はすぐそこだよ。ラスト行くよ」 爺様が声を掛ける。

三台のロードバイクは路地裏をゆっくり走り、道の駅の脇を抜けて琵琶湖大橋の袂に着いた。


「さ、この橋は琴ちゃんのWinning runだよ。だから先頭行って」 

コウヘイさんが笑う。

琴はゆっくりと、ギアを落として坂を登り始める。弓なりの橋を上がって下ればゴールだ。

ゆりも一緒に来たかったな。棒の足を忘れて琴は回した。いつの間にか頬が濡れて、下りの加速で涙が吹き飛ぶ。ゆり、私が引いてあげるよ。だから一緒に来よう。一人じゃないって素敵なんだから。


下り切った先の料金所。琴はハンドサインを出して減速した。

その向こうでヨシノさんとビアンキの車椅子が待っていた。何だかぼやけて見える。

涙じゃないよ。きっと虹がかかってるんだ。琴はそう言い聞かせ、最後のブレーキを引いた。

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