第8話
女子100メートル平泳ぎ第7予選
1レーン・木下佳穂。2レーン以降は会場のざわつきで聞き取れなかった。
「あれが世界新を3秒も更新して大会優勝した木下佳穂か!」「あれが水泳部に魔女と呼ばれている伝説の木下佳穂か!」等々。
例えるなら……「歌自慢」に一般参加として福○雅治が参加していた時の黄色い声が青い声へと変わったときみたいな感じ。
それらは、もはや叫び声に近い。
会場の誰もが彼女に注目しているのが分かった。たぶんほかのレーンを見ている人はそのレーンの人の親くらいなのではなかろうか。
佳穂以外の9人、彼女らはもう負けが決まったかのような試合だ。世界記録を持つ佳穂には手も足も出ないだろう。
なんだか同情してしまうのは俺だけではないはずだ。
会場のざわつきが抑ままないまま開始の合図が鳴る。
短い合図を聞き、一斉に飛び込む選手たち。しばらくの後、潜りから顔を出す。ここまではほぼ互角だった。
しかし、次の瞬間、あれほどうるさかった会場が静かになった。息をのんだのだ。
佳穂の平泳ぎは平泳ぎの形で泳いでいるが、それは全く動きが違った。
説明するのはすごく難しい。そうだな……よく市民プールとかにある流れるプールを想像してみてほしい。
そのプールが彼女が泳いでいる1レーンにだけ存在している感じだ。見る見るうちに他の人との距離は遠ざかっていき、十数メートル近く差をつけてゴールした。
結果……1.03.15
もちろん大会新である。彼女の自己ベストにはまだまだ到達していない所を見ると、どうやら本気ではないようだ。
もはやすごいしか言いようがない。いや、ヤバいとも言えるな。それくらいの語彙力になってしまうくらい俺は驚いていた。
こうして中村先輩と佳穂の勝負はあっけなく終わってしまった。
勝敗は最初から分かってはいたが、数字で見るのと実際に見るのとでは、まったく感じ方が違うのだと思い知った。
ちなみに、午後になって、女子100メートル平泳ぎ決勝があった。結果は大まか想像できると思うけど、一応説明しておこう。
予選の佳穂の泳ぎを見ていたであろう中村先輩は、「私が、1.02.00くらいとってやる」
と意気込んでいたが、水泳の世界において0.1秒も縮めるだけでも困難なのに、ましてや5秒ほど縮めるなんて不可能なことは、水泳初心者の俺にも分かった。
中村先輩も分かっているはずだ。佳穂との差は圧倒的であり、今の自分がどうあがこうが、到底彼女に到達できないということを。
それでも中村先輩は諦めなかった。
「諦めたら、そこで試合終了だ」とどこかのマンガでいっていた。
彼女はそれもきっと分かっていたであろう。俺には彼女の眼が燃えているように感じた。
しかし、現実は現実である。
彼女がどれだけ夢のようなことを望んでも、ここは漫画の世界でも、アニメの世界でもない。
結果は惨敗だった。中村先輩は実に0.3秒もタイムを縮ませてきたが、佳穂はそれ以上だった。
会場が唖然としている中、悔しそうに佳穂を睨む中村小百合と、それに気づき申し訳なさそうに身を縮める木下佳穂の姿があった。
これが水泳の世界かと思う一方で、ただ単純にこうも思った。
どっちもバケモノだよ。怖いよ。
時刻は変わり、午後8時。高校生の財布にやさしいファミリーレストランにて、俺は松田凛と向かい合って座っていた。
忘れている人もいるかもしれないが、今日は松田凛とディナーをする約束をしていたのだ。
告白してからわずか4日後、2人きりでディナーというのは早すぎると思う人がいるかもしれない。
俺もそう思う。
珍しく神様が俺に幸運をくれたのかなと思った。ついさっきまでは。
でも忘れてはいけない。俺は「不幸を背負っている男」というかっこいい異名が付いているくらい運が悪いのだ。
そう簡単に2人きりのディナーになどたどりつけるわけがない。
俺の隣には佳穂と中村先輩がいた。そして凛の隣には由衣がいる。なんでみんな来るんだよ!俺の気持ちを少しは考えてくれ!
どうしてこうなったのか……それは約3時間ほど前にさかのぼる。
大会も終わり、中村先輩との勝負に勝ってしまった佳穂はめんどそうに中村先輩を見ていた。
勝負のルール上俺たちが何か佳穂の頼みを聞かないといけないらしい。
ただ佳穂には頼み事などないらしくて困っている様子だった。というかルール上とはいえ、先輩である彼女に頼みごとという名の命令をするのはやりにくいだろう。
俺にもその経験はあるからその気持ちはよく分かった。
ただ中村先輩は「勝手に勝負を押し付けて負けたのは私なのだから何かしないと気が済まない!」という意味不明なことを繰り返している。意外とMなのかな?
佳穂はしばらく考えたのち、こういった。
「…一緒に…ご飯食べたい……」
きっと友達の少ない佳穂なりの「友達になって」なのだろう。しかし、佳穂とは違い友達が多い先輩には伝わるはずがなく、
「なるほど!私にご飯をおごれというのか!」
とどこかしら嬉しそうな顔を頷かせながら納得していた。
「え、それって俺もですか?」
「もちろんだよ!なんでも奢ってやる!」
「いや、でも俺、今から他の人と食べる約束をしていて……」
「それならば問題ない。その人の分まで私が奢ればいいだけの話だ。みんなで食べたほうが楽しいだろう?」
「いや、でも、しかし……」
「何だ?私と食べたくないというのか?」
「いや、別にそんなわけでは……」
「ならいいじゃないか!由衣ちゃんどこに行きたい?」
ダメだ。断れねー。というかテンポが速すぎる。そして妹に聞くなよ。そこは佳穂に聞くべきだろ!
「え?え?私も行くのですか?」
「当たり前だろう!むしろ私から頼みたいくらいだ。浅野君の妹さんと仲良くなれば、浅野君に会える機会が増えるはず!」
えぇ……。それ言ったらだめだろう。ほら、由衣だってドン引きしているぞ。
「じゃ、じゃあ。ジョ○フルで」
え、行くの?なんで?俺が混乱しているのを待ってくれるはずもなく、中村先輩は嬉しそうに高々と拳をあげる。
「では早速行こうではないか!」
ま、まずい……。展開が速すぎる……!せめて凛にジョ○フルになったことだけでも教えないと!この人絶対直行でジョ○フルにいくつもりだ!
俺は素早くスマホを取り出す。ラインの凛のトーク画面を開き、ふと指が止まる。これ、どう伝えればいいんだ?
全部説明していたら長くなるし、かといって皆でジョ○フルに行くことになったっていうと、勝手に決めるなといわれ怒られてしまうかもしれない……。
「何をやっているのだ?浅野君。そうやってすぐスマホをいじったりするから、君は皆に置いて行かれるんだ」
「いや、あの、約束していた人に教えておかないといけないと思いまして…」
「貸せ。私がやってあげよう。私のせいでこんな事態になってしまったのだ。責任を取らせてくれ」
そう言って中村先輩は俺のスマホを奪う。
「ちょ、そんな勝手にやらないでくださいよ!」
「まぁ、待ちたまえ。すぐに終わる」
俺は取り返そうとしたが、さすがはアスリート、文化部の俺にはついていけないような身のこなしで避けられた。
「ほれ、終わったぞ。完璧だ」
投げ返されたスマホにはこう書かれていた。
『急遽ジョ○フルで食事をとることになった。悪いがここに来てくれ→(URL)』
「な、な、なんだこりゃー!!」
すげー上から目線じゃん!こんなん機嫌悪くするに決まっているだろ!
「そういうのは事実のみを伝えておけばいいのだよ。謝罪は活字ではなく相手の目を見て言ったほうがいい。それくらい常識だろう?」
「そうだけども……そうだけども…」
これはひどい。もう、来てくれるだけでも奇跡に近いぞ。
そして奇跡はおきた。凛は俺たちよりも早くジョ○フルに来ていた。
そしてこの状況に一同(凛も含めて)戸惑いながら、それぞれとりあえず座ったところである。それぞれの前には水が置かれている。
しばらく重い沈黙の後。この中で1番年長に見える中村先輩が口を開いた。
「おい、智樹君。小学生と食事の約束があったのか?」
ですよねー。そうなりますよね。
今日の松田凛はもちろんの事ながら制服ではない。
なぜかフリフリがたくさんついた全体的に黄色のゴスロリファッションである。
セーラー服だったためにギリギリ小学生ではないことが分かったのに、こんな格好をしていたら完全に小学生である。
中村先輩が勘違いするのも無理はない。
本人は相当気にしているらしく、眉をピクピクとわずかに動かし、中村先輩を睨む。
「失礼ね!私は立派な高3よ!見た目だけで決めないでよね!」
「えぇ!?私より1つ年上だというのか……。ありえん…。嬢ちゃん、嘘はつくのはよくないよ?」
それでも信じようとしない中村先輩。どこかしら子供を扱うような優しさが入っている。
「いったい何なのよ!そもそもね、急にジョ○フルでご飯となったと思ったら、なんでこんなに人を連れてくるの!?おかしいでしょ!?聞いてないわよ!?」
いつの間にか怒りの矛先は完全に俺に向かっていた。たぶん中村先輩が一向に分かってくれそうにないから、諦めて話題を変えたのだろう。
「いや、別に悪気はなかったのですが、カクカクシカジカで大変申し訳ないのですがそうなってしまったんです。ま、まぁ、みんなで食事がしたほうが楽しいですし、いいんじゃないんですか。ね?ね?」
「そんなことあるわけないでしょ!私は2人きりのデートだと思って一生懸命オシャレしてし来たのにバカみたいじゃない!」
そんなの俺だってそうだよ!でも先輩の前でそんなこと言えないでしょ!あの人なんか楽しそうなんだもん!というか、あのゴスロリの服はオシャレなのか……。
「しーかーもー、なんで連れがよりによって美少女ばっかりなの?ハーレムかよ!つーかだれなの?」
「え、えーと。妹の由衣と幼馴染の佳穂と1つ上の先輩の小百合です」
「へ、へー。じゃあ、堂々と3又しているわけではないんだね?」
「そんなわけあるわけないですよ!」
というか、まだ付き合ってもないのに3又も何もないと思うんだが。まぁ、いっか。
「まぁ、まぁ、凛さん。そんなに怒らなくてもいいじゃないですか。2人きりはまた別の機会を作ればいいですし、今日は今日でみんなで楽しみましょうよ!」
一生懸命なだめる妹。
「そ、それもそうね。私としたことが些細なことで取り乱してしまったわ。ごめんなさい」
なんかあっさり解決したぞ!すげーな我が妹!
「じゃ、じゃあ、今度私の家に遊びに来なさい!」
「「「………え?」」」
俺と由衣と中村先輩はひどく困惑したが、佳穂だけは1人黙々と本を読んでいた。
すげーな。
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