第7話

 土曜日 告白の返事期限まで 3日


 俺は朝早くから電車に乗り、大きなスポーツ施設に来ていた。


 ここでは夏は50メートルプールが解放され、冬にはスケートリングになる。


 俺も何度かスケートをしに来たことがあるので、だいたいの間取りはわかる。ほかにもバレーボールやバトミントンができるような大きな体育館もあるそうだ。


 左にはスポーツバックを持った佳穂が亡霊のように立っている。


 どうやら、大会に出場するようだ。そのわりにはあまり緊張感が伝わってこない。


 まぁ、県大会だし優勝は間違いないからだろう。


 そして、右にはなぜか我が妹由衣がいた。


 いつものように満面なスマイルで、大きな建物を興味深そうに見ている。


「なぁ、由衣。お前が来るなんて聞いてないんだが?」


「えー、いいじゃん。由衣も佳穂さんの泳ぐとこ見てみたいもん!それに、小百合さんがどういう人かも、お兄ちゃんの妹として確認しないといけないしね!」


「お、おう。そりゃどうも」


 由衣が俺の恋愛事情に首を突っ込むのはいまいち理解できないが、協力してくれるなら素直にありがたく思うことにしよう。


「で、佳穂。俺たちはどこで観戦すればいいんだ?こういうの初めてだからまったく分からないんだ」


「由衣も初めて!」


「……大丈夫…私も……観戦する…」


「え、でもお前、アップとかあるんじゃないの?ほら、本番の前に体動かして水に慣れとくみたいな」


「…アップ…?」

「………………」

「………………」


 いっきに場が凍り付く。


 知らないのかよ。そういえば前に練習したら下手になるとか馬鹿げたこと言っていたな。


「じゃ、じゃあ、佳穂の番になるまで一緒に観戦するか」


「ち、ちなみに佳穂さんは何を泳ぐんですか?」


「…平泳ぎ……」


「…だけ?」


「…わからない……」

「「えぇ!?」」


 本当に大丈夫なのかこの人!不安で仕方ない……。


 まぁ、とりあえず中に入ることにした。



 観客席はプールを左右から見えるように設けられている。ただし、2階席のため斜め上から見下ろすような形である。


 50メートルプールは全部で10レーンあり、それぞれの飛び込み台の近くにはいすが置かれていた。きっと選手が待っている間に座る椅子だろう。


 まだ、大会は始まってもいないのに保護者らしき人は散らほらとおり、場所取りに励んでいた。


 正直、どこの席でもあんまり変わらないと佳穂が言うので俺たちは、適当に座ることにした。


「始まるまであと1時間かー。その間何するの?」


 由衣はどこから持ってきたのか大会のパンフレットを眺めていた。


「……読書…」

「「!?」」


 さ、さすがである。ここまで空気を読めないなんて!すでに佳穂は文庫本を取り出して読み始めている。


 驚きのあまりツッコミを入れることさえできない俺と由衣。そんな時、背後から聞き覚えのあるクールな声が聞こえた。


「やあ、浅野君と…えっと…誰だっけ?も、もしかしてその美少女は浅野君の彼女か!?私に見せびらかしに来たのか!」


「ち、違いますよ!中村先輩。彼女は俺の妹の由衣です」


「あぁ、なんだ妹さんか。まったく、びっくりしたぞ」


 彼女はどこかホッとした感じで額の汗をぬぐう。青色のジャージを着た彼女は制服姿とは別のカッコよさがある。


 こっちのほうが彼女らしいとなぜか感じた。ちなみにツインテールの結び紐も青色である。


「お兄ちゃん、お兄ちゃん。彼女が小百合先輩?」


「そうだ。彼女こそ中村小百合先輩だ」


 そういえば妹とは初対面か。


「ふーん。あ、私は浅野由衣っていいます。気軽に由衣って呼んでください!」


「おう!よろしくな由衣ちゃん!」


 そういって由衣と中村先輩は固く握手を交わす。


「で、隣に座って本を読んでいるもう一人の美少女は誰かな?浅野君」


「先輩知らないんですか?同じ水泳部のはずなんですが」


「……?いや、私は見たことないぞ」


 まぁ、だと思ったよ。たぶん彼女は入部以降一度も学校のプールに行っていない。


「えーと、彼女は木下佳穂です。俺の幼馴染で…」


「き、木下、か、佳穂だとーー!」


 中村先輩は2歩ほど後ずさりをする。


「こ、このか弱そうな美少女があの伝説の木下佳穂だというのか!」


「そんなに驚かなくても……」


「驚くに決まっているだろう!急に競泳界に現れたと思ったら、初大会で当時の平泳ぎ世界記録を3秒も上回る記録で優勝した伝説の木下佳穂だぞ!」


「さ、3秒!?」


 俺はまじまじと佳穂を見る。


 日本記録を塗り替えたとは聞いたが3秒も上回ったなんて聞いてないぞ……。


 というか、人間の身体能力超えてないか?


「ま、まさか、あの木下佳穂が同じ学校の水泳部だったなんて……。なんで今まで気が付かなかったんだ!私は!」


 頭を抱えて嘆く中村先輩。


「えーと、それはたぶん佳穂が練習に参加してなかったからだと思いますよ。中村先輩」


「なに!?ということはどっかのクラブに入っているということか!」


「いえ、クラブには入ってないはずです」


「ええ!?じゃ、じゃあ、まさか…独学…?」


「た、たぶん」


「……!天才だと思っていたが、まさかここまでとは!」


 なんか興奮しているご様子で叫ぶ中村先輩。どうやら水泳のことになると相当燃えるタイプらしい。


 いままでわき目を触れずに本を読んでいた佳穂が、自分の話をされていることに気が付いたのか、本をぱたんと閉じ顔をあげた。


「……誰?……この人…」


「えーとこの人は、前に話したことがある…」


「私は中村小百合だ!」


 紹介しようとしてるところに割り込まれる。彼女はどこか必死な顔で佳穂の肩をつかんでこういった。



「私を君の弟子にしてくれないか!?」



「やだ」


 即答だった。なんというか容赦ないな。


「な、なぜだ!同じ学校の水泳部員として君の泳ぎが知りたいのだ!もっと上達したいのだ!なぜ断る!」


「…………弟子は…とらない主義…」


 絶対嘘だろ!なんかいつもより間が大きかったぞ!めんどうくさいだけだろ!


「せ、せめて練習だけでも一緒にさせてくれ!」


 諦めない中村先輩。だけど、先輩、それも無理だと思いますよ。なぜなら……


「……練習なんて…しない…」


「………………………………」


 長い沈黙が続く。中村先輩は混乱しているようだ。そりゃそうだ。まさか、練習しないという回答が返ってくるとはだれも思わないからな。


「い、今、なんて?」


「……練習なんて…しない…」


「お、おい。浅野君、彼女は私をバカにしているのか?」


「いいえ。彼女はマジで練習しませんよ。それどころか練習したら下手になるとも言ってますし」


「!?つ、つまり君は、練習もしていないのに大会に臨み、そして優勝したと言うのか!」


 無言でコクンと頷く佳穂。


「…………」


 中村先輩は再び言葉も出ないくらい衝撃を受けている。きっと悔しいのだろう。


 その気持ちはスポーツをやったことのない俺にだって分かった。


 一生懸命に練習してもなお届かない大台に、練習もしていない後輩にすんなりと到達されたのだ。誰だって悔しいだろう。


 そして中村先輩はこの現実を受け入れられなかった。練習もしていない佳穂に負けるなんてありえないと思ったのだろう。


「今日の試合で勝負しろ!今日は地方大会だから本気でいかないつもりでいたが、気が変わった。本気で臨ませてもらうぞ!」


 勝負を申し込まれた佳穂はひどく困惑していた。今まで水泳で争ったことなどなかったのだろう。


「もし、私が勝ったら、私の願いを1つ聞いてくれ。そして私が負けたら、そうだな……私たちが何かお前の要望を聞いてやろう」


 私?なんかさりげなく俺を巻き込もうとしていない?なんか怖い。というかやめてほしいんですけど。


「ねぇ、それってもしかして由衣も?」


 今まで黙っていた由衣が俺の代弁をしてくれる。


「ま、まぁ、いいじゃないか。安心しろ必ず私が勝って見せる!」


 自信満々に言い切って、逃げる様に去っていく中村先輩を止められるものはいなかった。



 時刻は午前8時。ようやく開会式が始まった。


 ただ会場の騒がしさはそのままである。静まるどころか、挨拶をしている水泳協会の会長の悪口すら聞こえる。


「あのハゲ話長いんだよ」「あのデブ絶対女子の競泳水着見て興奮しているだろ。気持ち悪」等々。


 どうやら会長の評判は良くないらしい。


 観客席にはすでに選手はほとんどいなかった。きっとすでに控室へ移動しいたのだろう。


 試合前にはやることがたくさんあるはずだ(知らんけど)。


 そんな中、いまだに俺の横に座っている選手が1名。そう、木下佳穂である。


「なぁ、佳穂。お前まだ行かなくて大丈夫なのか?」


「…大丈夫。……私の出番は…30分先…」


「ん?30分しかないんじゃないの?本当に大丈夫?」


「…大丈夫。…すでに…着替えているし…」


 そういってジャージのチャックを少し下げる。そこにはTシャツではなくて競泳水着があった。青一色というなんとも佳穂らしい水着だ。


「…あまり…じろじろ…見ないで。……恥ずかしい」


「えぇ!?自分から見せてきたくせに!?」


「…うん…」


「何それ!?理不尽にもほどがあるだろ!」


「…智君の……エッチ…」


「えぇ……」


 こういう場面で男性はなんて言えばいいのだろうか。本当に教えてほしい。


「あ、お兄ちゃん、あれ小百合じゃない?」


 由衣が指さす方向……3レーンには水着姿の中村先輩がいた。


 女子100メートル平泳ぎ第1予選。これが本大会初めての試合だ。


 一人ひとり選手の紹介がされる。それぞれの選手に歓声があるが、中村先輩への歓声はひときわ大きかった。それだけ人気が高いのだろう。


 すべての選手の紹介が終わり、笛の合図とともに飛び込み台に上る。ところどころから応援の声が聞こえる。


 短くスタートの合図――電子音が鳴った。静かに吹き上がる水しぶき。10人がほぼ同時に潜水から顔を出し、前へ前へと手をうがしていく。


 平泳ぎは比較的静かなイメージがあったが、近くでトップレベルの競技を見るとそれはただ単に俺たちを妄想でしかないということを思い知らされた。


 100メートル……50メートルプールを1往復するだけの短い試合。その中で中村先輩は圧倒的な強さを見せていた。


 「今日は本気でいく」と言っていた中村先輩を思い出す。


 去年中村先輩が出したと言われる大会新記録1.07.63は1年たった今でも堂々と電光掲示板に乗っている。彼女はそれを上回るようなスピードで泳いでいた。


 結果……1.06.13。去年よりも1秒以上も縮めた大会新記録だ。それを見た中村先輩は驚いた顔をしていた。何も知らない観客のみんなはそう思っただろう。


 だが、俺にはそれが驚きではなく、悔しみだとわかった。きっと先輩はこのタイムでは木下佳穂に勝てないことが分かっているのだろう。


 大会新記録を出して悔しがるというのもおかしいとおもうだろう。


 もともと、先輩にとってこの大会など全国大会に行くためのただの過程でしかなく、どうでもよかったに違いない。


 しかし今回は佳穂との直接対決があった。先輩のプライドをかけた大事な大会になってしまったのだ。


 佳穂の去年のタイムに全く届かない現実を見て悔しがるのも無理はない。


 会場はざわついていた。それもそのはず、最初の試合から大会新が出たのだ。しかし、いまだに俺の隣に座っている佳穂は平然としていた。


「…じゃあ……そろそろ…行ってくる」


「お、おう。がんばれよ」


「……ん…」



 10分後



 女子100メートル平泳ぎ第7予選。


 そこに佳穂がいた。おい、30分後ではなくね?嘘つくなよ。

 

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