ひびけ

 3月とは思えない寒い日になってしまって、私たちは震えながらイスに座っていた。歪みのないようきれいに並べられたパイプ椅子。味気ない簡易的なイスだけれど、後輩たちが協力して並べてくれたのだと思うと、淡い感謝の気持ちが心の中からあふれるのを感じた。それはとても言い尽くせない幸せな気持ち、私たちの別れにふさわしい、胸のあたたかさだった。

 意味のある3年間だったと思う。

 この学校で過ごした高校生活は、私の人生で最良の時間だった。

 「ありがとう」という言葉をどんなに重ねても足りることなんてない。どれだけ口にしたって、感謝したって、足りるはずなんてない。それほどに、幸せな日々だった。

 ああ、それなのに、もう全部終わってしまうんだな。


 「卒業生起立」の声が体育館のなかに響いて、私たちは一斉に立ち上がった。同級生の弾くピアノの音が聞こえてきて、いつのまにか卒業式も最後、別れの歌まで進んでしまったことに胸が痛んだ。

 どんなに願ったところで、時間は未来へと進んでいく。私が立ち止っても、時間は止まることはない。

 3年間一緒に過ごして、今この瞬間に同じ歌を歌っている友人たち、その多くは、もう一生出会うこともないのだろう。これから先の人生で、ただの一度も、もう、会うこともないんだ。当たり前のように、3年間も一緒に過ごしてきたのに、その日々はまるで夢やまぼろしだったみたいに薄れて、淡く思い出されるだけになってしまうんだ。

 教室に差し込む朝の光が、机に反射して眩しかったことも。廊下を歩くみんなのスリッパの音も、机を囲んで食べたお弁当、購買のたまごサンド、お昼の放送で流れたアイドルの歌声、午後の授業のゆったりとした時間、教科書を立ててまどろんだこと、西日に目がくらみながらボールを追いかけて、市内大会で負けてあんなに泣いて、アイスを食べながら駅まで歩いたり、教室にお菓子を持ち込んだり、文化祭の準備で揉めて、休みの日に家に集まって劇の練習をしたり、リレーのバトンを落としてしまったり、応援合戦の振り付けを考えたり、横一列になって階段に腰掛けて、先生に怒られるまでなんでもない話をして、校門をくぐったときに見上げた空が、見たこともないくらい真っ赤で声をあげたことも。

 みんなと一緒だった時間は、この語り切れないほどの時間は、ここで終わりだ。

 「別れるためにここにいたんじゃない。けれども一緒にいられる時間はやはり限られていて、私たちは離れ離れになってしまう。それは悲しい、とても寂しい。たとえば、美しい記憶として残るとか、意味があることだったんだよとか、どんなに言葉を尽くして取り繕っても、偽ることなんてできない。素直に、当たり前に、寂しい。だからこんなに幸せな気持ちになれる」


 練習で何度も歌ってきた別れの歌は、実感がわかない言葉の羅列だったはずなのに、いまこの瞬間から言葉のひとつひとつが真実に変わっていって、私たちの本当に最後の歌だった。聴きなれたメロディラインは体育館の中を隅々まで反響し、こらえきれない涙があふれて、頬が熱くなった。それはとても3月とは思えない寒い日に、心地よい3年間の温もりだと、そう思った。

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