ロングストレート

 そんなに大切なものならば、一度だって手を離してはいけなかったんだ。

 わかるだろう。

 この世界に不変的なものなどないのだから。

 まして人の心なんて変わらないでいられるはずがないのだから。


 リビングからは相変わらず、キーボードをたたく不規則な音が聞こえていた。

 深夜2時。彼女は未だその手を休めることなく執筆をつづけているのだ。いや、厳密に言えば、それは執筆と呼べるほどの行為ではなかった。ただ、頭に浮かぶ止めどない思考を、キーに叩きつけているにすぎない、今の自分の気持ちをどうにかして消化しようとする終わりの見えない行為だ。

「くやしい、くやしくて私、この世界そのものを憎んでしまいそうよ」

 家に帰ってきたとき、彼女はそう言って2in1のタブレットPCを立ち上げた。ブルーのキーボードカバーが付いたそれは、憎しみを吸い取る魔法の窓だった。

 気持ちはほっておけば内へ籠るばかりだ。ちゃんと言葉に変えて外へ吐き出してやらなければいけない。

「まるで、そのために言葉が生まれたように。言葉の存在価値がそれしかないかのように、乱暴に、激しく」

 そんな哀しいことは他にないかもしれない、けれど、そうでなければ生きていくことなんてできないのだから。

「言葉にすべて託して、言葉にすべて押し付けて、言葉に乗せて憎しみを放つんだ」

 きっと人は、それを呪いと呼ぶのだろう。


 彼女の仕事中になにがあったのか、僕は聞かなかった。「くやしい」という彼女の気持ちを、共感という安い行為で増幅させたくなかった。きっと、その先にいいことなんてなにもないから。

 リビングで憎しみをまき散らす彼女をほっぽって、僕は自室に籠った。キーボードのカチカチという音が、静寂の上に乗って家中を駆け巡っていた。明日になれば、少しは治まっているだろうか。

 治まるということがどういうことか、深く考えるつもりもなく、僕はベッドで目を閉じた。

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