彼女の生まれた町

 私たちにとって本当に必要だったものは、単なる「きれいごと」で。どうしても許せなかったものも、やはりその「きれいごと」だった。


 川村彩夏が生まれた町は、県外の小さな田舎町で、四方を山に囲まれていた。

「小さい頃は、森の中に入ってよく遊んだわ。特別に何かをするわけではないの、ただ、森の中をみんなで歩くだけで、いつもと同じ場所なのに初めてのにおいがして、見知らぬ世界を旅しているような気持ちになれたの」

 昔を思い出す彼女は、遠い目をしていた。それはもう失われた場所に想いを馳せるような、そんな目だった。事実、彼女の生まれた町は、その後の大きな事件のために、人の住むことができない場所になってしまった。人為的なものだった。その人たちが移り住んできて、よくわからない共同生活を始めたとき、誰かが声をあげていれば未来は変わっていたかもしれない。

「でも、その時はみんな傍観してしまったのよ。何か妙な予感を感じていたとしても、その人たちを悪い人だと決めつけるわけにはいかなかったの。だってそのときは、ただ畑を耕して質素な生活をしていただけだったのだから」

 しかし、その人たちは大きな事件を起こして、たくさんの人を殺してしまった。単純に言えば怨恨なのかもしれない。けれど、それはただの自己保身で、許されることではなかった。連日、たくさんのメディアに報道されて、彼女の生まれた町の名前をテレビや新聞で見ないことはなかった。繰り返し繰り返し刷り込まれて、全国の人の記憶に焼き付いていった。いつのまにか、彼女の生まれた町とその人たちはイコールで結ばれていた。

「事件が起きた時から、そうなってしまうのはわかっていた。だって、事実その人たちは、あの町に暮らしていたのだから。私たちは、その人たちが暮らすのを受け入れてしまったのだから。だけど、あのときは、その人たちが町にやってきたときは、どうやったってその人たちを拒絶することはできなかったのよ。仕方のないことだったの」

”人を疑ってかかるなんて”そんなきれいごとを、彼女は信じてしまったのだ。

「その人たちは、みんなやさしくて、いい人たちだと思っていたの。そんなことになるなんて思っていなかったの。だから、私だって。不幸になるために入信したのではないわ」


 アクリル板の向こう側、彼女は大粒の涙を流した。もう、面会時間も終わるころだった。私は彼女にひとつの言葉もかけられないまま、涙の行方を見ていた。ひとつ、ふたつ、滴は彼女の固く握られた手の甲に落ちていった。それはまぎれもない彼女の後悔の証だった。きっと彼女はしっかり更生をして、その手でまっとうな未来をつかむだろう。


しかし同時に、私は思う。彼女のその手は、たしかにあの事件の日、人を殺した手なのだ、と。

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