Esクラリネット一Ⅲ

「あすかさん、大変なんです!ミキちゃんが…!」

「はい…?」


 なんて事ない、心太くんに着いていくだけの仕事だと思っていた私は、思わず耳を疑った。社長さんにもメールで『絶対に演奏はしないように』って言われたし。

 だけどどうやら、考えが甘かったみたい。


 月曜日、時間は4時半。バカみたいに大きい囃子台中学の校門の前。

 サッカー部の叫び声や、野球部のキン!とバットとボールがぶつかる音がグラウンドに響いている。


「ミキちゃんが、昨日からおうちに帰っていないみたいなんです…」

「昨日から…って、誘拐かなにか!?」


 身代金?それはまあこんなすごいお金持ち中学校だし…。


「いえ、昨日、お抱えの運転手さんが学校まで送って、そこから迎えの時間になっても帰って来なかったらしいので、たぶん…」


 お抱えって。

 …真剣味に欠けた思考なことは許して欲しいです。


「旧校舎の中に入り、何らかの事故に巻き込まれて出てこれなくなった、ってことか」

「はい、その可能性は高いです。…もっくん!」


 ぬるりともっくんが現れて、そのまま弾かれたように3人は走り出した。


「ちょ、ま、待って!!!」


 *✻*


 旧校舎の中はカビ臭くて、木の床が歩く度にギイギイ鳴って、そこらに蜘蛛の巣が掛かっていて、もんの凄く不気味。

 私が今まで通った学校には“旧校舎”なんて無かったんだよなぁ。


「………………………心太…真新しい足跡、あるな」

「…うん、女の子のローファーだね」


 心太くんの顔からは先週はじめて会ってからずーっと浮かんでいた、のほほんとした表情が消えている。

 口をキュッと結んで、つぶらな瞳を光らせて。ホコリだらけの床に残った足跡を追って行く。

 足跡はそのまま、階段を上っていた。

 汚れた窓から見える空は真っ赤で、さらにこの旧校舎に不気味な要素を追加しているみたい。


 初めにもっくんが前に出て、階段を登り始める。その後に心太くん、イナリ、私と続く―――はずだった。


 バキャン!!と音を立てて、足をかけた5段目が崩れる。視界が落ちる。


「え―――」


 やばい。

「あすか!!」


 誰かが私の右手を掴んだ。

 グン、と下向きに重力がかかる。


 私の落下を止めたのは、優しい心太くんでも、1番背の高いもっくんでも無くて。

 小さな小さなイナリだった。

 イナリの手が伸び、細い腕が私の手首を掴で、想像もつかない力で私を支えている…。


「この…ドジが」


 私にしか聞こえないくらいの小さな声で囁いた。


 あああかっこいいぃはわあああ!!!!!やば、ちょ……眩しい!!


「…なぁににやけてんだよ、バカ…!」

「えへ…つい、うっか、り」


「……………………力、抜け」


 スル、と脇の下に手が入り、私はもっくんに持ち上げられた。

 魂楽器ソーリントゆえなのか、イナリももっくんも細い見た目に反してすごい力持ちみたい。

 そのまま2階に運ばれる。体をニューっと伸ばして抱っこされてるウサギはこんな気分なんだろうか…。


「おおお…」

「あっ、あすかさん!よかった〜!」


 ふにゃりと笑う心太くん。癒される…。

 イナリにお礼を言おうとした時、今度はピーーーともキーーーンも言い難い、甲高いEsエスクラの音が旧校舎に鳴り響いた。


「…!」

「っ…!うあ…っ!」


 鼓膜が破れそうな高い高い音。耳を塞いでも、髪の毛や爪先までこじ開けて、脳に無理やり侵入してくるような音。


「……っ」


 そのとき、突然心太くんが楽器ケースを開いた。


「し、心太くん…!?」

「と、とりあえず、相殺…というか、返事します!」


 塞ぐのをやめた心太くんの耳からは血が流れ出していた。


「ちょ、心太くん…血が!!」


 もっくんが壁になってくれてはいるけど、ほとんど効果は無さそう。見かねたもっくんが心太くんの耳を塞ごうとするけど、


「コラもっくん!」


 と心太くんが制した。


「…もっくんが怪我したら誰が戦えるの?ダメだよ、“優先順位”があるんだ」

「………………………またそれか」

「うん、ありがとね、もっくん」


 話している間に、心太くんはマウスピースにリードとリガチャー、そしてネックを組み立てていた。

 そのまま咥えて、息を吹き込む。

 このEsクラの甲高い強い音には到底かなわないような、普通の音量だった。けど、柔らかく、まあるく、音を馴染ませる。

 そして、Esクラの音が、ふわりと消えた。


「き、消えた?」

「……………………心太が、『音』を通して話しかけた。………まだ、話が通じるやつだったみたいだ」

「音を…通じて?…って心太くん、耳大丈夫!?」


「………え、すみません、何て言いました?」


 重症じゃないですかあああああ!!!


「うわあ、鼓膜が破れたのは初めてです…みんなの声が遠くに聞こえますね」

「……………、…!」


 もっくんが声を出さずにオロオロ慌てている。心太くん、冷静に解説しないで!!


「こ、鼓膜ってどうすれば…?絆創膏はダメだよね、とりあえず止血…!」

「…………………し、死ぬな……心太…!」

「チッ」


 突然の舌打ちに慌ててイナリの顔を見ると、「落ち着けこのバカ」と書いてありました。もっくんに見られたときにはパッと正しい顔に戻りました。


「ふーーー…。と、とりあえず止血だよね」

「……そうだ、な」


 タオルハンカチを割いて、心太くんの耳にそっと押し込んでみた。


「こんな感じでいいのかな?…心太くん!聞こえる!?」

「あ、聞こえますよ〜なんか、ボアーッと」

「………………………」


 もっくんが安心したように、ぎゅ、と心太くんを抱きしめた。この2人、和むなあ…。

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