Esクラリネット一Ⅰ

 幸い特に必要な授業も無かったので、私は翌日の朝から七宮相談所に向かう、つもりだった。


「……ん…?朝……?」



 焦点が合い、部屋の様子が見えてくる。

 いつの間に寝たのか。食べかけのカップ麺にやかん、片方落ちた箸、脱ぎ捨てられた服。

 …服!?


 ガバッと起き上がって見ると、ちゃんとTシャツとジャージの寝巻きに着替えられていた。


 ……着替えた記憶、ない。


「………静かに起きられないのかよ」


 昨日同様、横からイナリの声がした。


「ふっ…ふふ、ふ」

「こわっ、なんか愉快な夢でも見たか?」

「ふ、服…」

「…ああ、着替えさせといた」

「なっ…!」

「いいだろ…ふわぁあ。おれ、子どもだし」

「――っせ、精神年齢ぃ!」


 複雑…っ!あぁもっとまともな下着着ておけばよかった!


 声にならない叫びを上げたその時、時計が視界に入った。時計の針は、なんと、11時26分を指していた。


「えっ」

「あ?」

「お昼…?」

「そうだな」

「ええーなんでこんなに寝ちゃったんだろ…」

「ああ…まあそれは…うん悪かった」

「…………はい?」


 *✻*


「えっ」


 イナリの話を要約すると。


 私のここ数週間のダルさと昨日の異常な眠さは全部イナリの影響だという。


「あ、そういえば昨日の社長さんが言って『準備期間』って…」

「まあ『奏者プレイヤー』の生命力を食べておれたちは活動するわけだからな」

「た、食べっ!?」

「で、まあ目覚める直前には1番たくさん食べたくなるわけで…特に上質なのがエネルギーなわけでだな」


 ……待って。

 じゃあつまり?私を散々悩ませた原因不明のスランプは?


「おれが原因だな」


「っは、はぁあああ!?」


 思わずイナリの細い肩を掴んで揺らす。金髪が前後にサラサラと流れた。


「〜〜っ、ひどい!返して!私の追い詰められた気持ち!悩んだ時間ー!!」

「……だから、悪かったって」


 はっ。


「言ってるのに」


 形のいい眉根を寄せて、薄い唇を尖らし、拗ねたように俯く、その顔。


「許すっ!!」


 たまらんです。


 ああ私ってなんてチョロい女なの。


 *✻*


「こ…こんにちは…」


 気を取り直して昼食を取り、七宮相談所の扉をくぐった私は、中の様子を見て思わず固まってしまった。


 もうまさに、『てんてこ舞い』って感じで。

 壁から資料を山ほど取り出す円谷さんにそれを支えるフロルちゃん、昨日は見なかった社員らしき人が3、4人電話やら昨日のガラスの修繕をしてるやらでもうカオス。

 社長さんはお客さんらしき人と話し込んでいる。


「えーっと…これは…」

「あ〜、あすかさん!それにイナリくん!」


 振り向くと、階段を上ってきた心太くんがいた。スクールバッグを肩にかけ、黒いアルトクラのソフトケースを背負っている。


「こんにちは〜」

「こんにちは…あれ?心太くん学校は?」

「今日は土曜なので、午前中だけ部活やってきました!」


 中学生だな〜。懐かしい。


「ところで、なんか中がすごいんだけど…」

「すごいんですか?」


 そう言って中を覗く心太くん。


「おお…珍しく色んな用事が重なってるみたいですね〜。……どうしよう?もっくん」


 ユラ、と心太くんの影が一瞬揺らめいて、黒い男の人――もっくんが現れた。心臓に悪い。


「こ、こんにちは」

「…………………………どうも」


 すんごい隈。

 頭頂部は黒、下に行くに連れて銀色になる前髪は目にかかっていて、正直、暗い印象を受ける。

 けどよく見ると鼻筋が通っていて、肌も白いし、眠たげな目は色っぽいような。気だるげイケメンな雰囲気を醸し出してるような。そんな気もしなくもない…。おそるべし魂楽器ソーリント


「……………見てこよう」


 その言葉が聞こえると同時に、もっくんはまた揺らめいて消えた。


「あれ?」

「…あ、あそこ」


 イナリが指差す先をよーく見ると、室内にもっくんがいた。みんなの手元を見てる。

 社長さんと依頼人の人の書類もありえない近さで見てる。

 けど、だれも怒らないし、気にも止めていない。


「………?」

「ふふー、すごいでしょう!もっくんのチカラの1つ、tranquilloトランクイッロです!」

「とら…ああ、『静かにtranquillo』ね」


 音楽用語の1つだ。

 そんなことを話している間に、もっくんが帰ってきた。


「……笑子とフロルは夜に来る依頼人の資料準備………仲田と芦原はそれぞれ鼓区つづみく琴川町きんせんちょうの騒音被害の相談電話。……あと…小野山は、ガラス修理の業者に謝罪中だ」

「ふんふん、ありがとうもっくん!」


 ボソボソと低い声で報告して、ちょっと満足げに頷く。


「…とりあえず、お茶しませんか?あすかさん」

「えっ」

「と言っても、相談所の給湯室で、ですが」

「……仕事は、しなくていいの?」

「ああ言うのは大人の仕事ですから。ぼくはまだ書類作成も仕事の商談もできません!と言うか、しちゃダメなので…」


 みんなと一緒に働きたいのか、寂しげな心太くん。


「心太くん……」

「だから堂々とサボれます!ふふ〜」


 えへんと胸を張って笑う心太くん。ハイ、さっきのは私の勘違いでした。


「じゃあせっかくなので、あすかさんとイナリくんの初仕事の相談でもしましょうか?なんて…」


 そう言いながらドアを開けた心太くんと、依頼人の女の子の目がバッチリ合った。


「あれ、ミキちゃんじゃないですか〜!」

「の、野森くん!?なんでここに?」


 その瞬間、もっくんが凄まじい勢いで心太くんの影の中に飛び込んで消えた。イナリのはっぴがブワッとめくれ上がるくらい。

 …わぁお、ラッキースケベみたい。


 ごめんて。

 ああそんな凄まじい顔で睨まないで。

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