Episode20 永訣
視線を戻した瞬間、車に撥ねられたレイが、宙を舞っていた。
銃撃で破砕したフロントガラス、穴が開いたボンネット。レイを轢いた車の内部より噴き上がる黒煙が、いずれ爆発する可能性を漂わす。
「レイっ!」
精一杯叫んだ。駆け抜ける車より斜方に吹っ飛んだレイは、柱に衝突。鈍い音と共に落下し、動かなくなった。
「レイ! 起きて、レイっ!」
動きはない。柱によりかかって俯き、沈黙だけが彼女の状態を語る――深刻であると。
代わりに、彼女を轢いた車のドアが開く。
マテバを手にしたオスカーだった。彼にしては珍しく、眉をひそめている。
わたしが、動かないと。レイから渡されたスプリングフィールドXD。懐から取り出し立ち上がる。わたしは射撃が得意な方ではない。これまでやってきたことは、すべてトリガーハッピーだ。だが、今は、この銃を通してレイが支えてくれる。
刹那、銃声。わたしの手は深く抉られた。
離すな。強く意志を持て。あいつを殺して、わたしとレイは先に進む。進むんだ。グリップを握る手に力を込める。叫び出したい衝動を唇を噛んで抑える。耐えろ。歯が唇を裂いた。耐えろ。手、口から垂れ落ちる血液。腕を上げて、銃口を、ターゲットに。撃った。反響する銃声、弾はあらぬ方向へと駆けて壁を抉る。
「っ……ぁ、ああ……」
痛覚が唸りを上げ、これ以上の駆動を許さない。噴出する血液はさながら動力源。したたり落ちるのに合わせ、腕の感覚は無へと進みゆく。
音を立てて転がりゆくハンドガン。脚にまで力が入らない。崩れ落ちる身体と、落ちていく視界。
「トリガーハッピーというやつですか」
「っ……オスカーぁぁ!」
ゆっくりと、こちらへ向かい来るオスカー。レイを通り過ぎ、燃える車たちを通りすぎ、マフィアどもの死体を通り過ぎ。リボルバーに、弾を込めながら。
そのとき、レイの腕がピクリと動いた。そこに、まだ希望がある。純然たる事実
オスカーは、わたしの顔をよく見ていた。レイが動き出したことに希望を見出したわたしの表情変化も、見逃さない。リボルバーの銃口が、レイに向けられる。
「やめてっ!」
「素朴な願いが叶うような世界で生きていないでしょう、あなたは」
わたしの反応を楽しむためか、こちらを見据えながら、オスカーは撃った。全弾撃った。レイの身体が弾着のショックで跳ねた。
「いやあああああっ!」
涙がにじむ。直視したくない現実が目の前で展開する。わたしの瞳から零れ落ちる熱。レイの額から、したたり落ちる鮮血。
悠然と歩いて来る姿が憎らしい。キツネ顔が恨めしい。こいつを殺したのち、世界中のキツネをぶち殺してやりたい。でも、叶わない。
顔を上げた時、少し手を伸ばせば届くところに、ハンドガンが見えた。情報量に圧倒され、前すら見えていなかった。手を伸ばす――しかし、黒服に包まれた足が、蹴飛ばした。
「やっと、落ち着いて話ができそうですね」
そう言いながら、オスカーはマテバに弾を込める。
なにも言う言葉が見つからない。否、こいつと話す言葉などない。
「目が怖いですよ」
「……呪ってやるわよ」
「どうせ地獄で会えますよ。私もあなたもシュライクも、煉獄に行かせてもらう暇すらない。お嬢、先ほど、私に質問しましたね?」
打開策を探す。しかし、なにも見つからない。もう、ここで、終わっていた。
「私が、お嬢のお目付け役だからですよ」
「……は?」
あまりにも文脈を破壊する言葉に、思わず振り向いてしまう。しかし、自分のした質問がなんであったか、ふと思い出した。
『……どうして、わたしにここまでしてくれるの?』
だが、思い出したことで、逆に混乱した。ついぞ最近、オスカーは言った気がするのだ。わたしのお目付け役だったのは、もう過去の話だと。
「あなたが幼いころから、私はお嬢を任されてきた。私の上司であった幹部が子守りは嫌だと言いましてね。順繰りに、私に回って来たというわけです」
「なに、言ってんの?」
「最初は戸惑いましたよ。古い掟に縛られていながら、一人娘を後継ぎにするなど。正直、私はいずれ、この組織を抜けるものだと思っていました」
およそ、銃口を向けながらする話ではない。しかし、あまりにも現実感がないためか、彼の言葉はするすると頭に入って来た。
「しかし、あなたは若くしてその才能を開花させていた。私がどれだけ死体を見て吐いて来たことか。それをあなたは、ハイスクールの時点で情を切り捨てられている。女というのは、もっと感情をごちゃごちゃさせているものだと思っていましたから」
「殺す相手に、そんな話聞かせるの」
「……そうですね。これは私のエゴです」
話すうちに、やや逸れていた銃口。すぐさま向きが修正される。銃口の中の死神と、再度の対面。目を合わせたくなくて、視線を逸らしてしまいそうになる。
「女性と付き合いだしたときは驚きましたが、まあ誰も娯楽なしには生きられないものです。あとはあなたに、恋人をこの世界に連れてくる覚悟はあるか。それだけが気がかりでしたが」
「バカにしてる?」
「していません。私は……私は、あなたに敬服していたくらいですよ」
「それなら、わたしを殺すのはどうして?」
「言わずともわかるでしょう。私は今、銃を向けている」
「わからないよ。ハッキリ言ってもらわないと」
「……ボスに志願したんですよ。お嬢の始末は私に、と。私は──」
その瞬間、わたしの視線がレイの方へ。それに倣うように、オスカーの首がレイの方向を向く。
左腕に力を込めて身体を起こす。止まらないためには、目の前の男を乗り越えていくほかないんだ。どうにでもなれ――ポケットのコンバットナイフを抜剣。咆哮と共に躍りかかる。
瞬間、革靴が視界に飛び込んできた。顔面で痛打が爆裂し、固いコンクリと再度の対面。リボルバーに潜む死神とも、視線が重なり合う。
「シュライクが蘇ったかと思いましたよ」
「あなたでもこんなブラフに引っかかるのね」
「それだけ警戒しているんです。あなたは、私の人生に現れた、最大の輝きでしたから」
「……それならオスカー、あなたは、わたしの……」
「なんですか? 気の利いた答えが聞きたいものです」
「……ごめん。ここ一番で気の利いたこと、言うの苦手なんだ」
響き渡る銃声。
オスカーの手が、肉片をまき散らしてはじけ飛んだ。マテバは地に落ち、鮮血の雨に打たれる。
「……お嬢」
「あんたのこと、嫌いじゃなかったよ」
優位と悲哀をまぜこぜにした表情を浮かべていたオスカーだったが、一瞬のうちに情が溶け落ちていく。
「お嬢と共に見る地平を、楽しみにしていました」
「オスカー……もっと早く、それを言ってくれてたら」
既に成し得ることのない、人生の分岐先。言葉にしなかった想い。
レイが言葉にした想いが、それを隔てた。
再度の銃声。
レイは、目覚めていた。車に轢かれ、ベストの上から何発も撃たれる。流れた血は、銃弾がおでこを浅く抉ったゆえのもの。とはいえ、痛みはわたしの幾倍もあるだろうに、彼女は動いたのだ。
そこに、希望を見てしまった。あの視線はブラフなんかじゃない。動き出したレイに、一度視線を向けてしまったのだ。
重傷のレイは、狙いを定めるのにも一苦労。時間的猶予は必須。それゆえ、無我夢中でオスカーにとびかかった。言うなれば、それこそがブラフ。
キツネの死に顔は、笑顔のようにも見えた。長年を共にした男だったが、その胸中を見透かすことは難度が高く。現に、彼の意志を知ったのは、今日が最初で最後となった。
なんとか立ち上がって、レイの元へと向かう。あたたかい感覚が、肩と手から流れていくのを感じる。わたしの進んだ後の床には、真っ赤な血が尾を引いていた。
戦場の臭いは、未だ色濃く辺りに漂う。どこから銃弾が飛んでくるかわからないが、辺りは静寂に包まれていた。なんでもいい。今は、レイのそばにいたい。
わたしがまっすぐ見据えていた彼女は、銃撃のあと、駆動を停止していた。しかし、腕がゆっくりと再可動を始める。ベストの中に手を突っ込み、携帯――オスカーの銃撃によってまっぷたつ――の破片を取り出した。
その頃には、随分とレイのそばに進むことができていた。ここなら、声も届く。
「どこかに電話するの?」
「……ソフィアに。クソ。壊された。買い替えた、ばっかなのに」
左手で画面の割れた携帯を取り出す。奇跡的に、まだ動くようだ。レイのそばで腰を下ろし、電話の画面を開いてからレイに手渡した。痛む身体は重く感じて、わたしはそのまま床に寝転がった。
レイの身体は、服のボロボロ具合が目立つが、怪我の具合は判然としない。しかし、殺し屋の女に見られる動きのキレは、既に立ち消えていた、
左手は比較的動くようで、すぐに手に取って通話を始めた。通話が始まったとたん、レイの表情が少しだけ和らぐ。
「あー、ソフィア? まだ駐車場。……うん、助けて。てか、拾ってほしい。うん……ごめん、ダメな弟子で」
レイにとってのソフィア。それを考えたとき、そこで死んでいるキツネ顔が、どうしても脳裏をよぎる。それと、マリーの顔も。
彼はわたしに、犯罪のいろはを教えてくれた……というわけでもない。だが、ここ一番では助けてもらった。マリーは、ハイスクールのときに、死んでしまったけれど、大事な家族みたいな人だった。父と暮らした日々よりも、マリーやオスカーと過ごしてきた日々の方が、彩りがあった。
みんな、死んでしまった。もう、ローレル・ファミリーは、わたしの家族ですらない。
「ソフィア、来てくれるって。お説教されそうだけど」
「そう。なんとか生き残れそう?」
「ソフィア次第」
「もう、わたしたち次第でもないんだね」
「こんな身体じゃ、なんにもできやしない。あたしらは、やりきっちゃったんだよ」
重傷を負い、マフィアの女でもなくなったクラリッサ・ローレル。殺し屋として戦える状態にもあらず、引退を決意したライリー・マクスウェル。
もうわたしには、レイしかいない。それが、成り行きの運命としても。
「ねえ、レイ」
「なに?」
「わたしを見つけてくれて、ありがとう」
そう言うと、レイは目を見張った。なにか言いたげだ。しかし、言葉が出てこない様子。
「リサ、あー、えっと……」
「ふふっ、締まらないなぁ」
「……あたしの生きる理由になってくれて、ありがとう」
どういう意味か聞きたかったけど、野暮な気がして。過ぎゆくわたしたちの時間が続く限り、いつか意味は聞けるだろう。でも、今は必要ない。
「どういたしまして」
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