Episode15 誓約
わたしの瞳からも、生あたたかい涙が、流れ落ちた。ザラのハンドガン──FNブローニング・ハイパワーを握る手は、震えている。
「信じさせて」
そこに浮かんだ絶望を、見逃さない。見逃せない。レイの心は今、バキバキにヒビが入って今にも割れそうになっている。軽い言葉のジャブでも浴びせかけたら、もう壊れてしまうだろう。
それでもレイは、強い女だった。立ち上がり、涙を拭いて。ひとしきり雨を浴びた後は、平生みたいな姿でわたしと向き合っていた。
「立て……ない、よね。でも、見せたいものがあるんだ」
「いいよ。ついていく」
「ありがとう」
交わされるのは、情の有無すらはっきりしないわずかな言葉。かつてのわたしたちと比較すれば、確実に欠けたものが存在する。わたしは、その情が、とてつもなく欲しかった。
自分がわがままな女であることは、十分にわかっている。それでも、欲求は止まらない。痛みの対価として、これくらいの要求は許してほしかった。
わたしはレイに抱え上げられ、バイクの後ろに乗っかった。雨の冷たさが、なぜだか心地よい。
「しっかり掴まって。……出すよ」
レイのお腹に腕を回す。服の上からでは、彼女のぬくもりはあまり感じられない。わたしの体温が伝播して、濡れた衣服にささやかな熱を与えるのみ。
アクセルが踏まれ、バイクはたちまち唸りを上げて走り出す。前に回した手に風を感じながら、わたしはレイの髪に顔をうずめた。首すじに鼻をつけてたっぷり息を吸うと、レイの匂いとシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐる。レイの身体がぴくりと震えた。
やっぱり好きだ。こんなにも愛しい彼女を信じきれない自分が嫌になって、目を閉じた。
視界情報がカットされ、他の感覚が研ぎ澄まされる。雨の音と、わたしの鼓動だけが聞こえる。
降りやまない雨の中で、バイクは停止した。
「ついたよ」
その言葉に、目を開く。視界に広がったのは、見覚えのある光景――もう戻って来るとは思っていなかった場所。テイラーの家であった。わたしが門をぶち破った車は、どうやったのか、敷地内にどかされていた。
レイにおんぶされて、わたしたちは家へと向かう。殴られたお腹が未だじわじわと痛みの根を張っている。揺さぶられるたびに、痛みはやってきた。
「痛いよね。これから手当てする」
「見せたいものは?」
レイは、答えなかった。沈黙が答えだというのか。問いただすことは、あえて避けることにした。雨でぐずついた芝生を、進み続ける。
玄関前に到着。長いこと雨に濡れていたので、屋根のある環境は新鮮に感じられた。銃弾で穴あきになった白いドア。レイの手がドアノブに伸びる。
だが、そこで、手は止まった。明らかな躊躇。
「この先?」
やはり、答えない。その代わりに、ドアが開かれた。
赤い海の中で、テイラーが、天を仰いでいた。
レイの背を下り、自分の足で立つ。右足が痛むので、壁に寄りかかりつつ左足だけで立った。
「レイがやったの?」
「見せたいもの」
額に空いた深淵より、流れ出る鮮血。開いたままの瞳が、驚きと恐怖と、この世への怨嗟を乗せてなお余りある感情を叫んでいた。
こんなにも痛ましい死体を見たのは初めてで。目を奪われていたわたしは、レイに銃を向けられていることにも気付けなかった。
濡れた髪から頬を伝い、雨粒がしたたり落ちる。雨に濡れたレイの姿は美しさを有しながら、いつにもまして生気が薄れて見えた。それが雨のせいではないことは、わたしたちのせいであることは、十分に理解している。
「……ここが、最後なの?」
問うと、レイの視線はテイラーを捉え、すぐにわたしに戻った。意志の光を感じる。しかし、それを表に出せず、感情がわだかまりになっている。そんな、瞳。
「リサ次第って、言ったでしょ」
「わたしはもう、どうにもならないよ。こんな身体じゃ」
こんな身体。ザラがつけてくれた傷はこれまでの人生で最も苦痛を伴ったが、今はこの傷がキーだ。ハンディを抱えたわたしは、なにもままならない。レイの行動を、待つほかない。
レイが構えるスプリングフィールドXD。テイラーの命を穿ったであろう武器。握る手から力が抜けて、取り落とされる――血だまりに浸かる。
「みんな死ぬのも御免だ。誰か一人生き残るなんてもっと嫌だ」
今すぐ駆け寄って、ずぶぬれのこの子を抱きしめてあげたい。救ってあげたい。でも、待った。心を鬼にして、彼女を待った。
一歩。また一歩、近づいて来るレイ。長き時を離れて過ごしたわたしたちがやっと向き合って、本気の想いで、ぶつかり合おうとしている。あの出会いが運命なら、この再会も運命。顔と顔は、すでに吐息がかかる距離。
「二人で生きたい」
戦いの決意。愛し合う誓い。わたしたちの、本当の始まり。
「最後まで行きたい、レイと」
互いの身体が割れ物にでも変わったかと錯覚したみたいに、相手へ伸ばす手が震える。触れた瞬間、磁石のように引き合った。殴られたところが痛むけれど、この抱擁の尊さには代えられない。
ここが、たくさん遠回りして、やっとたどり着いた場所。血の臭いが漂う廊下。その不快さすらも、想い合うための供物であったと割り切って甘受することができる。
雨でびしょびしょの身体で、いつまでも抱き合っていた。そうしていると、すぐそばから聞こえてくる嗚咽。レイはさっきから何度も泣いている。わたしが、泣かせてしまった。子供みたいに泣きじゃくる彼女の背中を、ゆっくりとさすってあげる。
「ごめんね、レイ」
「あたしが、言葉足らずで、役立たずで。守るって決めたのに」
レイはとても強い女だ。そんな彼女の口からこぼれる懺悔の言葉は、あまり心地の良いものではなかった。
「ダメだよ。わたしの好きな人を、そんな風に貶しちゃ」
抱擁を放して、眼を腫らしたレイと目を合わせる。ああ、やっとわたしたちは、心の奥底まで繋がれる。
その無防備な唇に、六年間誰にも与えてこなかった、彼女のための唇を明け渡す。もう一方的な感情の押し付けじゃない。深部まで繋がる口づけを。
その時、なにかの気配を感じて、キスを続けながら視線を下方へやった。そこにあるのは、テイラーの遺体。彼女の目が、廊下の電灯の光を反射し、まるで意志があるような素振りでこちらを見ているのだ。
そうと知った瞬間、身体中が震えあがるほどの快感が走り抜ける。思わず、レイの口腔に舌を割り込ませ、熱でいっぱいの彼女の中へと侵入した。今、もっと繋がっていたくて。この六年間の空白を埋めたくて。
舌と舌。それだけではない。様々な因果が複雑に絡み合って、わたしをめちゃくちゃにしようとしている。行為の当事者であるレイも、これほど感じてはいないだろう。直感でわかるのだ。ああ、なんという背徳の悦楽。わたしはこの女に、鮮血の泉で嘆くこの非業の女に、メッセージをくれてやる必要がある。
見ているかテイラー。この女は、ずっと前からわたしのだ。
息が苦しくなるまで、むさぼり合う。快楽の奔流に、今だけは溺れていたい。
「はっくしゅん!」
唇を放し、廊下にへたりこむ。すると、待ってましたと言わんばかりにくしゃみが。おそらくツバがテイラーの死体にかかった。
「あたしもさすがに寒ひ……くしゅん!」
レイのツバも、おそらくテイラーにかかったろう。顔を見合わせて、笑うしかなかった。
とはいえ、いつまでも濡れた身体でいるのはマズい。風邪でもひいたら、今後の逃避行に支障が出かねない。わたしたちは鼻水を垂らしながら急いでシャワーを浴びた。
脱ぎついでに足の傷を診てもらうと、それほど深くはないという。ただ、しばらくは激しい運動は控えるべきらしい。
「これからどうするの?」
タオルで身体を拭きつつ、おもむろに聞いてみる。ふわふわのタオルは、レイの服と同じ匂いがした。
「どうするもなにも、まずは休息。それから先は……車もある。武器もある。だから、二人で」
一瞬言い淀むレイ。彼女の言葉を紡ぐみたいに、言い連ねた。
「逃げよう。どこまでも、どこまででも。わたしたち二人が生きていけるところまで」
「……ありがとう」
「それはわたしのセリフ」
タオルをその辺に放り捨てて髪を乾かし、わたし達は夫婦の寝室へ。寝間着になりそうな服はそっちの部屋の方が揃っているとのこと。他人の家を全裸で歩き回るというのは不思議な感覚だが、家主はもう死んでいるのでおかまいなし。
「このまま寝るの?」
「仮眠取らないとリサもしんどいでしょ」
「わたしたちここまででたっぷり寝てるじゃない」
「寝る度にハプニング続き。疲れ取れてると思う? いくらあたしが殺し屋でも、こんな立て続けに色々起きたのは初めて……いや、そうでもないかな?」
「どっちでもいいわ。休むなら休みましょ」
部屋に入った瞬間、眼に入るのは、やはりあの大きなベッド――レイとテイラーの行為を目撃してしまったベッド。あのときの驚愕は、今もハッキリと思い出せる。涙を飲むほどの、巨大な屈辱。
そうか、わたしにはまだ、やり残したことがある。
次の瞬間、わたしはレイをベッドに押し倒していた。
「ちょ、リサ……」
そのまま、彼女の上にのしかかった。身体の至るところが密着して、生まれたままのぬくもりが共有されていく。わたしたち二人の、心からのぬくもりが。
「服着ないで寝るの?」
返事の代わりに、レイの肢体を手でなぞり始めた。いつも銃を握る手。引き締まった二の腕。昔より大きくなった肩回り。しなやかな腰。六つに割れた腹筋。そして――
「リサ! 激しい運動は」
「ねえ、レイ」
左手を重ね合わせる――恋人繋ぎ。レイの頬が紅潮していく。その目は眼前のものから逸らそうと努力しているが、逸らせない。
突如、わたしの目から熱い涙が溢れだした。それは雨となって、懐疑的な彼女の顔に降りかかる。これは演技でもなんでもない。制御できない、落涙だった。
「あー……ごめん、こんな時なのに。たぶん、嬉し涙だから」
「……そっか。なら心配いらないか」
なんの作為もない。心からの涙が、レイの心を動かした。なんだか、上手くいきすぎだ。やれやれというレイの表情が、涙でぼやけだす。
「ねえ。レイプしていい?」
「同意のあるセックスは、レイプとは言わないよ」
こんなに嬉しいことがあるのだ。泣いてしまうのも、仕方がない。
時間が許す限りの蜜月。六年分の愛とぬくもりを、力尽きるまで、全身全霊でわかちあった。
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