Episode14 舌禍
オスカーは二人の部下を連れていた。トゲトゲしい金髪をそのままにした妙齢の女と、強面の男。二人ともまともなスーツに身を包んではいるが、内に秘めた暴力性は隠しきれていない。そういえば、オスカーの連れていた部下がこんな顔だったか。
「オラ、立てよ」
酒やけだろうか、しゃがれた女の声が飛んでくる。女は、わたしを値踏みするようにねめつけた。こいつも、ついぞ最近まではわたしより下の地位だったろうに。
彼女は、足の切り傷を見た上で起立を促していた。三人に囲まれた状況に勝機を見出せるわけもなく、わたしは立ち上がった。痛む右足は、つま先立ちで。
「手ェ上げな。お嬢ちゃん」
いちいち癪に障る声音。渋々手を上げると、ボディチェックが始まった。ポケットに入った空のスプリングフィールドXDを発見され、抜き取られ――次の瞬間、足裏に激痛が走った。
女が、右の足裏をつま先で擦り、蹴りつけた。衝撃で体幹がグラつき、四つん這いになってしまう。地面に膝を打ち、さらなる痛みに襲われた。女を睨むと、そこには嘲笑が。さらに怒りを覚えることとなる。
「やめろザラ。万が一のことがあったらどうする」
「はーい、申し訳ございませんオスカー様」
この女、名をザラと言うらしい。仕草や表情から、暴力に悦を感じる、典型的なチンピラタイプの人間であることが伺える。
オスカーに支えられて立ち上がると、腕を後ろに回され、手錠をはめられた。結束バンドとは違い、容易に外すことはできない。
「まずは謝罪をしなければなりませんね。私の部下が失礼をしました、マンションであなたを殺そうとしたでしょう? 私の指示が行き届いていなかった証拠です」
「……今さら謝られても」
「ええ、その通り。ですが……よかった。またお会いできて」
こちらをまじまじ見つめながら、真剣な面持ちのオスカーが告げた。態度が態度ゆえ、不思議に気分が悪い。
「本当にそう思ってる?」
「もちろん。この再会を喜んでいないのはあなただけです」
「どうやってわたしを見つけたの? まさかドライブ中に運よく?」
オスカーは強面の男に「車をそばに」と指示したのち、向き直った。どうにも、視線が合わせづらい。数週ぶりに見る彼の瞳は、未知の鋭さを携えていた。
「殺し屋ソフィアの店に立ち寄ったところまでは容易かった。ですが、そこから先がどうにも、ね。なので、情報だけ搾り取って退場してもらいましたよ」
「なっ……ソフィアになにをしたの!」
「なにをムキになっているんです? 所詮はクライアントと仕事人の関係でしょう。それともなんですか、新しい女だからと既にツバをつけておいでで?」
「なにをしたのかと、聞いてる」
量る必要があった。彼は、その言葉の中でどれほど虚実を入り混じらせているのか。
そのとき、視界の端に映った黒い棒――ザラの脚。彼女の回し蹴りが飛んできて、わたしの腰を適格に打った。思わぬ衝撃に自然と声が漏れ、視界が空に向く。なすすべなく吹っ飛ばされ、道路に投げ出された。
「危ないお嬢!」
オスカーの声。その時、前方より迫って来る黒い車が視界に飛び込んできた。笑うザラ。大きく目を見開くオスカー。腰と背中が痛む。車は止まらない。このままでは、死ぬ。現実に目を向ける恐怖で瞼を閉じてしまう。そして、甲高いブレーキの音が響き渡った。
沈黙。死んだのか。
「ザラ! 貴様、おふざけも大概にしろよ。飼い犬であることを忘れるな」
叱りつけるオスカーは、明らかに激昂していた。その光景が見えていることで、自分が生きているのを実感する。わたしの顔と数センチの距離に、ナンバープレートがあった。
「オスカー様、あの女の態度はひ――」
ザラの弁明など知るかと言わんばかりに、オスカーの鉄拳がザラの腹に叩き込まれた。拳は吸い込まれるようにめりこみ、ザラの顔がみるみる内に蒼白になっていく。きゅう、と鳴き声を上げながら、地面にくずおれた。
「すみませんお嬢、あれはじゃじゃ馬でして」
「……ずいぶん、面白いのを飼ってるのね。原産地はごみ溜めかしら」
「まったくその通りですよ。お嬢、乗ってください」
猛スピードでやって来た死の恐怖に曝されたため、まだ感覚がフラついている。案内されるがままに、わたしは車の後部座席に乗り込んでしまった。
そして、オスカーの手で、左足首にも手錠をかけられた。
――このままでは、いけない。
まだ拘束されたのは片足のみ。自由な右足を振り上げ、彼めがけ足蹴りを放つ。しかし避けられ、右足を掴まれる。伸びて来た彼の親指が、足の切り傷を容赦なく抉った。
「いっ! い、ああああああっ!」
「我慢してください」
気が狂いそうになる痛みと熱が、足から燃え上がって全身に伝播する。顔すらも熱を感じ、眼尻からは涙が溢れだした。声を上げていなければ、どうにかなってしまいそうな激痛。
少しでも抵抗せんと暴れる――が、オスカーの拳がわたしの顎をかすめるように打った。すると、数秒も経たないうちに、身体の力がするすると抜けていく。おそらく、脳震盪だ。
「……クソっ! なんで……なんでなの。クソっ! クソ!」
「暴言は品位を下げますよ。最も、お父上に逆らった時点で、あなたの品位は地の底だ」
身体の自由はなくした。痛みと涙しか感じられない。もう、わたしの負けは確定していた。
「よく逃げて来れましたね、殺し屋の居城から。シュライクと、それからルギッドゥと一緒に居たのでしょう。あのような殺ししか能のない人間に、手柄を取られては元も子もない」
「……は? どういう、意味」
わたしの呼びかけに、オスカーは不思議そうな面持ちに。それから、こちらの目を覗きこんで来た。なにか見透かそうとでもいうのか。
「あの二人は、あなたを守ったでしょう? それは、あなたのお父上による『できる限り生け捕りで』という旨の遂行のためでしょう」
全身の血の気が引いていく感覚。今まで立っていた場所が唐突に崩れ落ちる感覚。すべて嘘であると信じたい想い。
『もう我慢ならねえ。お前のこと守ってやれるほどあたしらは――』
テイラーの言った言葉。わたしが行動に出て遮ってしまったが、あの後彼女はなんと言おうとしたのか。
『どこまでついてきてくれる?』
『……最後まで』
最後とは、結局どこのことを指していたのだろう。
わたしは、ライリー・マクスウェルという女を愛している。愛する女のことは、無条件で信じられる。そういう思考回路が、この頭蓋の中にある脳で働いてくれる。そんな風に、思っていた。
「嘘よ、そんなの。だって、とてもつまらないもの」
半笑いだった。そうじゃないと、やってられなかった。
「人の不幸は蜜の味なんですよ、お嬢」
「じゃあなんだったの。あの一週間は。この数日は。空白のままの六年は。わたしとレイは!」
「あなたがシュライクと会った時点で、すべては終わっていたんです」
虚無が、心に忍び寄るのを感じた。
年月は過ぎ、わたしは人を疑って生きる道をひた走った。そうしなければ、生きていけない世界だった。
いつしかそれは常識となり、わたしの感性――果てに人生にまで、根を下ろすこととなった。
わたしは、レイを愛している。
でも、無条件で信じられるほど、人も愛も甘くない。
わたしはもう、信じたいという祈りだけで、レイを信じられなくなっていた。
窓の外で、にわか雨らしき豪雨が降り注ぎ始めた。
強面男の運転する車に揺られ続ける。その後部座席には、未だ動けずにいるわたしと、不機嫌そうに唇を尖らすザラが乗っていた。外の雨は、一行に弱まりそうにない。窓を打つ雨粒の音は、次第に強さを増していくばかりだ。
同乗者は合計三人。いつのまにか、オスカーはいなくなっていた。どうやら、わたしの身柄はこの二人に委ねられたらしい。
生け捕りにしたいのが父の希望だというが、この二人を相手に命の保証はあるのかと考えてしまう。しかし、考える必要もなかったではないか。この二人は――
「なあお前、レズビアンなんだって?」
ザラの声が、思考を遮った。また、彼女の顔面には嘲笑が浮かんでいる。だからなに、と言ってやりたいが、とりあえず視線を返すだけにした。
「おっ、こっち見た。あの殺し屋女とつがいなんだろ。やべーよなーアレ。一年くらい前かな、一度仕事の跡見たけどよ、すげえ殺しだった。綺麗っつーのかな」
オスカーの言い分を思い出す。彼女の出身はごみ溜め、つまりスラムか。なれば、ザラは多くの汚い暴力や殺しを目にしてきているのだろう。レイの殺しが美しく見えるのは当然と言えた。
最初に対面して以来、こいつは明らかにわたしを下に見ている。動けない身の上ゆえ、仕方ないところはあるが。
「あんなのとヤってんのか、お前? やっぱ腰振るのもマシーンみてえなのかな。殺人マシーンだもんな」
顔が近づいて来る。自分のことを強いと思っている女が、なにやら喋っている。
「ああ、レズセックスは腰振らねえのかな。そこらへん詳しくねえんだわ。レクチャーしてくれねえか、センパイ?」
彼女の醜悪な言葉に耳を傾ける暇はなかった。ここからどうにかして脱する必要がある。思考することをやめてはならない。
「無視はやめてくれよ、さっきは悪かったって」
手錠は、結束バンドのように簡単には外れない。これを外そうという選択肢は自動的に消失。
「でも、感謝してもらいたいなあ。あんたを見つけたのがオスカー様で、あたしにそっちの気がないおかげで、あんたはダッチワイフにならずに済んでるんだ。あっ、あんたにはそっちの気があるんだっけ? エロイ目で見んなよな」
誰がお前なんぞの体に欲情するか。無知な人間は同性愛者と聞くだけで自分もターゲットだと思い込む。同性愛者だって惚れる女と殺したい女は区別するわ。
「あんた、あたしより年上だよな? まさかその年でバージン? チンポの味を知らねえのか」
聞き続ければ耳が腐る猿の言語だ。汚濁まみれの感性から吐き出されたノイズが、感情を汚すべく猛威を振るっているのだ。耳を傾けるな。
「あたしにチンポがついてりゃなあ。レズを矯正してやれんのに」
余計なお世話だ。わたしにはレイがいる。彼女以外を感じるくらいなら、舌を噛み切って死んでやる。
「わかんねえなあ。そんなに最高なのか、女は?」
彼女の手が伸びてくる――振り払いたくても、手は拘束されている。彼女の手が髪をわしづかみにし、近くまで強く引き寄せられた。
「
切れた。なにかが、切れた。
「黙れよ。
やってしまった。思わず言い返してしまった自分を咎めたくなる。
ザラは一瞬目を丸くして、再度嫌みな笑みに表情を戻した。楽しくなってきた、と顔に書いてあるよう。
「言ってろ腐れマンコ。口だけしかない障害者」
「はっ、種付けされることしか能のない出産マシーン。それじゃ男も満足しないだろ?」
口が勝手に喋っている。脳のフィルターを通さず、想ったことをそのまんま吐き出している。
「っ……夜のあたしを知らねえだろうが。今すぐにでもヒーヒー言わせてやろうか?」
「どうせガバマンなんでしょ? ビアンのわたしでも願い下げ! あんたみたいな女、同じ女だと思いたくもない!」
「吠えるじゃねえか欠陥品! レズビアンなんぞこっちから願い下げ!」
「ヒーヒー言わせてくれるんじゃないの? やってみせなさいよレイプでもなんでも」
「お国の人口に貢献できねえクセに調子乗んなよ劣等人種が!」
「ハッ、国のゴミ箱生まれが国を語る? 愛国者気取りのつもり? それでディスってるつもり?」
知識が貧困なら語彙も貧困。ザラはわたしの言い分に言葉を詰まらせる。血走った目がこちらを見据えるが、口が回らなければ何も意味がない。空虚な脅しが効く一線はとうに踏み抜いた。
「欠陥品ってあなたのことよね? 機能不全起こしてヘテロセックスと暴力しか能がないものね!」
「てめえ以外に誰が居るってんだ! てめえは――」
ザラの指がわたしのおでこに触れる。わたしは身体を目いっぱい暴れさせ、ザラから離れようとした。不快指数の高まりを、身を以て実感させられる。
「触るな尻軽! 汚い指で触るなよ。この身体はわたしとレイのものだ」
「ああそうかよ、なら不本意だがやってやんよ。てめえの身体、あたしが直々にぐちゃぐちゃにしてやるァ! おい車止めろ!」
車は都市部を抜けて、広々とした荒涼地帯についていた。この先で州を越えて、父のところを目指すのだろう。だが今は、それどころではなかった。
「汚物みたいな指掲げてなんのつもり? そんな指わたしに入れて満足させられると思ってるの?」
「汚物には汚物入れんのがスジってもんだろが! 抉ってやらあ」
「認めるのね、自分が汚物って」
「お前から見たらそうかもなあ。あたしから見りゃてめえが汚物だ!」
「自分から汚物語るような賞味期限切れよかよっぽど綺麗よわたしのは! いつまで自分が熟れた果実ヅラしてんだこのバーゲン品!」
瞬間、ザラの拳がわたしの頬をぶん殴った。勝った、と思えて、少し嬉しさを感じてしまっているわたしがいた。口の中で、熱と鉄の味が溢れ出す。
「ぶっ殺されてえのか、クソが」
「暴力でなにか片付く? あなたが生きて来た世界ならそうかもね。でも、ここはそうじゃない。周りを見る目はどこに置いて来た? 障害者はそっちでしょうが」
気配が膨張し、顔には青筋が浮かんでいる。おおよそ女が浮かべていい表情ではないが、わたしはこの表情、嫌いじゃない。
ザラの拳が強く握られるのが見えた。また殴られるのを見越して身構える。しかし拳は、予想の何倍も速くわたしの腹に叩き込まれた。鈍い音と衝撃が腹部を貫く――一瞬視界が暗転。
「ぶっ殺されてえならそう言えよ」
言い返す必要がある。なのに、痛みと落ち着かない呼吸が喋ることを許してくれない。
痛みに喘いでいると、ザラの拳は再度頬を打ち抜いた。あまりの威力に、勢いよく吹っ飛んでおでこを窓ガラスに強打。瞬間、上下の感覚がグラついて身体が思うように言うことを聞かない。流れのままにしていると、いつのまにか運転席のイスに寄りかかっていた。
ザラの拳は、本物の暴力だった。女だからといってナメてかかれば即座に殺される。わたしだって、その気になればすぐに消される。その類の力を有していた。
「……ころ、せ、な」
なんとか声が出たが、不明瞭なぼやきしか出てこない。呼吸を繰り返してどうにか頭をクリアに。すると、蓄積した痛みが身体を苦しめた。生あたたかいものが頭から流れている。それでも、これだけは、言う。
「殺、せない。あんたは、わたしを、殺せない」
ザラは舌打ちした。たぶんわたしは、笑っている。
「……なに笑ってんだ、てめえ」
やっぱり、笑っていた。わたしは、この場で喋り続けてこのメス猿をおちょくり続ける限り、勝者だから。わたしを殺したくてたまらないこいつを、おちょくり続ける限り。
「オスカーはなんであなたみたいなの拾い上げたのかしらね? 駄犬をペットにする趣味は持ってなかったと思うけど」
胸倉を掴んで引き寄せられ、腹にパンチを叩き込まれる。鈍痛に合わせて胃液が一気に逆流を開始。しかし、嘔吐はなんとか我慢した。ゲロったら負けな気がして。
小手先だけの暴力で解決が望めるのはごく小さな問題だけだ。それでもこの女は、小手先の暴力でわたしを黙らそうとすることしかできない。なんと滑稽なことか。猿の生態観察を続けることが、今のわたしにできるささやかな戦い――否、ストレス発散だった。
「あなた、オスカーとはヤったの? あのキツネ顔が好き? 駄犬と狐のカップルなんてお似合いよ。動物みたいに地べた這いつくばって息切らして交尾してんのが目に浮かぶわ」
「てめえの脳みそは腐ってる」
「あんたのは腐ってさび付いてる。わたしのは発酵して味わい深くなってる」
強く胸倉を引っ張られ、数センチの距離まで顔が近づいた。キスでもしておちょくるかと考えたが、願い下げと言ったのは事実なのでやめておく。
ザラは殴りたいと思ってる。殴って殴って殴り倒して――それが彼女の最善ゆえ――ストレスを発散したいと思ってる。でも、何度殴ってもわたしがしゃべり続ける。
結局、ストレス発散勝負なのだ。こんなことくだらないと思っているわたしもどこかにいる。だが、火がついて止まらないのだ。わたしだって、もう怒りが噴火してもいい頃合いだ。否、既に燃え盛って業火を成している。
「レズは子供産まねえよな?」
その時、ヒヤリとさせられる彼女の声音が耳をくすぐり、身体を震わせた。なぜ、彼女の言葉がこんなにも力を持ったのか。それは、彼女の拳が答え合わせしてくれた。
炎が燃え盛ったかのような熱が腹部に突如やって来た。それは、ザラが連続して放ったパンチがわたしの腹、子宮の周辺部を狙って幾度となく突き刺さったことによる熱。今わたしはどうなってる。腹に穴が開いたのか。かと思えば、身体全体の感覚が薄らぎ始める。それを知覚すると同時、わたしの口は吐瀉物でいっぱいになっていた。物理的な苦しみに全身で浸からされている――。
嘔吐を終えた瞬間、爽やかな感覚が押し寄せる。だが、刹那の出来事であった。腹部の痛みがもはや筆舌に尽くしがたい塊となって上半身に鎮座していた。
暴力に負ける。暴力は強い。馬鹿にしていたが、こうも連続してやられると、成すすべがなくなる。身体に力は入らず、この身はザラに寄りかかってしまっていた。
「抵抗するからそうなる。黙っときゃいいのによ」
「はっ……き……あ」
「喋んねえほうがいい。痛えだろうからなぁ」
気遣うような言葉。その顔は、勝ち誇ったという優越感で笑みを浮かべていた。
言葉が出てこない。悔しい。こいつは猿の分際でわたしとレイを馬鹿にした。暴力の雨を降らせた程度で勝った気になっている。このままでは、わたしの負けだ。
「車、出していいか?」
運転席の強面男がザラに問うた。そういえば、今まで車は止まったままだ。
「ああ。待たせてすまん」
「ほどほどにしとけよ」
「生け捕りならなんでもいいんだろ。後で怒られりゃそれで済む話さ」
アクセルが踏まれ、車が動き出す。
かに思えた、次の瞬間。
背後のガラスが割れ、運転席が破裂。そして強面男の顔面ド真ん中に大穴が開き、大量の鮮血が噴き出した。ハンドルが、窓ガラスが、計器群が、一瞬にして美しい赤に彩られた。
死体の足が踏むアクセルで、車は進む。が、強面の身体が力なく横たわり、徐々にスピードは緩まっていく。
車が止まるまで、わたしとザラはあ然としていた。予告なしだった銃弾の来訪は、初めて二人に共通の感情、驚きをもたらしていた。
彼らを死へと誘う案内人は、狙撃銃を用いたようだ。ここでうかうか止まっている間に、速足でやってきたのだ。わたしの命を回収し、それ以外を地獄へと送り届けるべく。
「おい、おいどうなってんだよ!」
ザラは震える手でわたしを突き飛ばした。懐に手をやり、ハンドガンを取り出そうとする。しかし、もう遅い。あと数瞬の内に、彼女は死ぬ。頭を撃ち抜かれ、中身をブチ撒けることになる。
その前に、わたしは負けを引き分け、できれば勝ちにまで持ち込んでおきたかった。力を振り絞って、血と吐瀉物の混じったツバを、ザラの顔面めがけぶっかけてやった。
ザラの血走った目と、視線が合う。彼女の目は語る。まだ死ねない。死んでたまるものか。その執念をこっちに引っ張って無為にしてやるのが、地獄行き前のわたしの手土産だ。
「KISS MY ASS!」
「てめえ――」
窓ガラスの破砕――ザラの顔面が膨張し、破裂。真っ赤な血と脳漿が飛び散って、車内もわたしも血みどろに。無地のカットソーは、濃い赤の水玉模様へと悪趣味なアレンジを遂げていた。
頭部の半分ほどを失ったザラの身体は、力なくイスによりかかった。今の今まで暴力の塊であった彼女が、圧倒的な暴力の前に魂なき肉塊と化す。それはたぶん、この世の摂理で。わたしだって、いつこのようになってもおかしくはない。
死臭が漂いだす。地獄を端的に表すなら、この車内こそが適任である気さえした。
血生臭い車内で、呆然とその時を待つ。しとしと降り止まない雨の音は、いつまで続くのか。バックガラスに開いた穴から、雨の雫が垂れ落ちる音も耳に届いていた。
少しすると、バイクの走行音が近づいて来た。すぐそばでブレーキ。ライダーの影が、近づいて来る。死神の来訪。それが誰であるか、知っている。でも、信じられない自分も存在する。
そして、車のドアが、開かれた。頬に触れる外気はひんやりと冷たく、熱を持った身体には嬉しいもので。
「…………リサ」
「レイ、来たんだ」
惨劇を目にするとき、人はこういう目をするものなのか。レイはわたしを見て、目を丸くすると同時に、固まった。
視線が合わさったとき、なにか想いは共有されただろうか。答えは、否だ。わたしは――どれほどかは自分でも掴めていないが――この状況を達観している節があったからだ。
六年という時間が彼女を変えた可能性が、発生してしまったから。
「あたしのせいだ」
「レイのせいじゃない。全部わたしがやったことだから」
「そうじゃない。そうじゃ、ないんだよ……やっと、届いたのに……」
屈強な殺し屋シュライクは、雨の中、過去の女を前に膝から崩れ落ちた。美しい輪郭を雨粒が流れ落ちる。勢いを増して滴るそれは、その実雨粒でなく、彼女の涙。
嗚咽交じりになりながら、レイは取り出したスプリングフィールドXDでわたしの手錠を壊した。
久々に動くようになった四肢。自由の尊さに身体が歓喜しているのがわかる。だが同時に、動くごとに身体に植え付けられた苦痛たちが唸りを上げるのだった。動くことが、とにかくおっくうだ。
車の座席で固まっていると、レイが寄って来た。シートに手をのせ、顔を近づけてくる。泣き顔を見せたくないのか、俯いて喋りはじめた。
「リサは、すぐ遠くに行っちゃうから。あたしはいつも追いかけて、追いかけて」
とりあえず、ザラの遺体が握っているハンドガンを貰い受けておくことにした。取り回しやすい大きさの銃で、わたしでも使いやすいモデルだった。名前はなんだったろうか。
「やっと追いついたと思ったのに。でも、リサは……あたしは……」
「ねえ、レイ」
なに、と顔を上げたその顔に、銃口を向けた。
「わたし、レイを信じたい」
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