Episode3 百舌
「どうして」
「シュライクは、ライリー・マクスウェルだから」
六年前に見たときよりも、ブロンドはくすんでしまっていた。切れ長の双眸はそのまま。そして、表情やまとう雰囲気に、どこか翳りのようなものがつきまとっている。それが逆に、彼女に新たな魅力――それも上等な獣のよう――を付与していた。
わたしがわたしのままでいられなかったように、レイもまた、昔のままではないのだ。
「本当に、本当に……レイなのね」
「何度も聞く必要ある?」
蓋は開かれた。鳴き方を忘れた感情が産声を上げて、くすぶっていた熾火は新たな業火へと変貌を遂げる。これが現実であればとただただ切に願う。わたしはまた、人を愛することができるだろうか。諦めた恋を、追いかけることはできるのだろうか。
一度離れ離れになるしかなかった二人。だが、またここで交錯すると決まっていたのだ。わたしとリサは磁石のような存在。引き合い、くっつくことしかできない。わたしは自然と、レイをきつく抱きしめていた。
「痛いよ」
「レイ……ごめんなさい。ねえ、キス、していい?」
「ダメ。ここは……パブリックな場所だから」
そう言われると、したくなってしまう。だが、ここは抑えねばなるまい。永らく縁がなかった欲求が、この身に宿ろうとしている。この女以外に抱かれたくない。この女以外を抱きたくない。久方ぶりに浴びる情欲の奔流で、この体は歓喜に打ち震えていた。
感極まって、眼尻からこぼれ落ちる涙の雫。すると、レイは涙を指ですくいとってくれた。嬉しさとか感動とかごちゃ混ぜになって、泣き笑いになってしまう。
すると、レイの瞳からも涙がこぼれ落ちた。
「……あれ、なんだこれ」
彼女は、その涙に困惑しているようだった。窓から射し込む光で、輝きをたたえる一滴の涙――そこではたと気付く。今のレイには、光が足りていない。わたしと付き合っていたころ。どこまでも自由に、ひたむきに人生を謳歌していた、ティーンエイジャーのころの光が。
わたしも、裏社会という闇に、身を浸してしまった。瞳からこぼれる涙も、漆黒のごとき闇をたたえていたことだろう。
わたしたちは、どこまでも一緒だった。だから、彼女の頬の涙は、わたしがすくい取りたい。しかし彼女は、モッズコートの袖でぬぐい取ってしまった。
背に回した手を離し、レイとしかと向き合う。だが、彼女はどことなく、わたしの方をちゃんと見ていないような気がした。
「ねえ、どうしてレイが来たの? これは本当に、偶然?」
「……さあ。運命ってやつなんじゃないかな」
沈む彼女の声色。詮索されたくない、という意思が伝わって来るようだった。しかし、知りたい欲求は抑えられない。この六年間がレイにとってのパンドラの箱だったとしても。
「いつ、殺し屋になったの」
「そんなことはいいでしょ。仕事の話を進めないと」
「あなたの顔見たら、仕事どころじゃなくなったの。責任取ってよね」
薄い笑みを浮かべて、わたしから視線を逸らすレイ。数秒の後、やっとのことでこちらを向いてくれた。
「……リサと別れたあと、いいパートナーを見つけたんだ。ほら、あたしって昔から運動神経良かったでしょ? それで」
「それで殺し屋になったっていうの? 危なすぎる!」
瞬間、レイの目に宿る苛烈な意志。やっと彼女の本音が聞ける予感。
「っ、勝手に危ない橋渡ってんのはどっちだよ。人の気も知らないでどこまでも自分勝手に」
「自分勝手って……そりゃ悪かったとは思うけど、すぐどっか行っちゃうあなたもあなたよ」
「はあ? 何様のつもり?」
「少しくらい待っててくれたっていいじゃない!」
「好きな女に別れようって言われてへこまないヤツがいる? あたしはめちゃくちゃにへこんだよ」
「あれから六年間、わたしは恋愛と無縁で生きて来たのよ? あなたが忘れられなくて」
「もうリサの顔なんて見たくもなかった!」
「……あの後、レイと一緒にいるための方法を探したんだよ。でも、本人がいなくなったらどうにもならないじゃない!」
「あたしを置いて、危ないとこに飛び込んでったのはリサだろ!」
収集がつきそうにない口喧嘩。ぶつけあう想いのたけは、正面の相手以外に行きどころがない。
そのとき、タバコの副流煙めいた香りが漂ってきた。何ごとかと視線を後ろに向けると、黒光りするサブマシンガン――UZI短機関銃らしき銃口。その奥に、長身の女が立っていた。緑のエプロンを身に着けているが、似合っていない。
「おい、かわいい喧嘩するのは構わねえが、外でやんな。ケーキが不味くなんだろ」
タバコの煙の方がケーキを不味くするだろと思うが、口には出さずにおく。
「あなた、何者?」
「ここの店主だ。座れ。なにか注文しろ」
「喫煙者の作ったケーキなんて食べたくないわ」
「……リサ、落ち着こう。熱くなりすぎた」
レイの態度は、店主が現れてからというもの、一気にしおらしくなった。有能と紹介されていた殺し屋とは思えない態度だ。頭に血が上っていたわたしは、つい言い返してしまう。
「こんな銃にビビってるの? 殺し屋シュライクさん」
「こんなとこでミンチにされたくないでしょ? ごめん、あたしが悪かった」
どうやら本気らしい。彼女の切迫した態度は、この状況のヤバさを語っていた。冷静になってみると、なんだかヒリついた雰囲気を真後ろから感じ取れる。指示に従って、大人しく席につくことにした。
「……レイ、わたしも熱くなってたみたい。ちゃんと話し合いましょう」
「おら、注文しな」
店主が横やりを入れてくる。渋々なにか注文することにした。
「紅茶。それと同じショートケーキを」
「ウチはコーヒー専門だよ」
吐き捨てるように言って、店主は引っ込んでいった。なんなんだこの店は。横暴が過ぎるというものだろう。店主の心の狭さを鑑みれば、この店の規模が小さいのも頷けてくる。
「レイ、どうしてこの店を選んだの?」
「悪気はなかった。ただ、ここが色々と都合が良かったんだよ。お金はあたし出すから」
「いいよいいよ。依頼人はわたしなんだから。それで、えっと……」
なにから話すべきか、考えあぐねてしまう。六年ぶりに再会した彼女。仕事上の関係。というか、普通の喫茶店で殺し屋とか口走っていいのだろうか。いや、銃が出て来た時点で普通ではないのか。
「あの人はカタギじゃないから大丈夫。……とりあえず、仕事の話からしよっか。それ以外は、ここを出てから」
レイもなにを話すべきか迷っているらしい。言葉の切れ間が長く、探り探りなのが伝わって来る。わたしも、今のレイとどうあるべきか、探っていかねばなるまい。
「カタギじゃない、か。レイの口からさらっとそんな言葉が出てくるんだ」
「そう、だね。リサは昔からカタギじゃなかったから、そういうの普通だったけど」
「その言い方、なんか癪に障る」
「事実言ってるだけだし」
薄い笑み。レイは、本気で笑ってくれない。いや、これが今の彼女の本気かもしれない。過ぎた時間を感じさせるのは、見た目だけではなかった。
「お父さん、殺すんだよね」
「ええ。そのつもり」
「あたしもあの人にいいイメージはないけど。どうして殺すことに?」
「その情報は必要?」
ちょっと恥ずかしいので、まだ言いたくはなかった。
「……それもそうか。なにか希望はある? いつ、どこで、どういう風に殺すか」
依頼した殺し屋がレイでなければ、自由にやってくれと答えたはずだ。わたしはターゲットを殺せればそれでいい。
だが、相手はレイだ。わたしのミスで見えないどこかへ――その実裏社会へ飛び立ってしまった自由な鳥。彼女を自由にさせたくはなかった。できうる限り、近くに置いておきたかった。
「ねえ、依頼が終わったあとレイはどうするの」
「どうって。あたしは殺し屋だから、稼業を続けるだけ。それに、パートナーだっているし」
パートナー。それが、今のレイを殺し屋という場所に縛り付けているものだとしたら。取り除きたい衝動が沸き起こる。マフィアとして生きて来て、障害は問答無用で排除してきたクセゆえか。しかし、レイがそれを望んでいるとは限らない。
「……一週間後の商談。ビルの高層階で行われるんだけど、オスカー……幹部の男とお父様が出席する。そこを狙撃で狙ってほしい。諸々のセッティングは私が済ませるわ」
「あたしはなんでもこなすけど、狙撃専門のプロじゃない。そこは考慮してもらわないといけないんだけど、いい?」
「もちろん。時間は限られてるから、準備は二人で、綿密に話を詰めていった方がいいと思うの。だから……これから一週間、わたしの家で暮らさない?」
レイ、目を大きく見開く。虚を突かれて驚いた証拠だ。
「それは、依頼?」
「依頼じゃなかったら断るの?」
視線が右往左往する。彼女は迷っていた。誰の目にも、それは明らかだろう。殺し屋という仕事上の理で動くか、かつての恋人といることに対し情で動くか。
昔のわたしは、こうして好きな人を試すようなこと、考えもしなかった。いや、無意識の内にはしていたかもしれないが。ともかく、変わり果ててしまった。でも、時が移ろうものであるように、その上で生きるわたしたちも、変わりゆくもの。
しかしレイは、本当に迷っているようだった。わたしとの暮らしは、それほどまでに悩むことなのか。なにが、彼女をここまで悩ませているのか。
レイが返答すべく口を開いた――瞬間、視界の端にうつる黒髪の女。店主だった。
「あい、ご注文の品」
なんとまあタイミングが悪い。しかし、コーヒーが良い香りなので許す。
「で、いい返事を期待していいのかしら」
「いいよ。リサの策に乗っかってあげる」
よっしゃ。心の中でガッツポーズ。
「かの有名なクラリッサ・ローレルの頼みだもんね」
レイの手が、机上のわたしの手に重ねられた。昔より冷たくなった気がするその手が、わたしの手を撫で回す――同時に心まで撫で回されているような気分。なんだか心地よくて、思わずにへらっと笑ってしまう。
「マフィアの女は、感情よりも損得勘定だからね」
「ぷっ、なにそれ」
「あっ、笑った」
ここに来て初めて、レイのちゃんとしたというか、素の笑いを見た気がした。それによって、これまでの態度が硬いものであったことがわかる。
「そんな顔もできるんじゃん」
「……笑うくらいするよ。殺し屋になるのに、普通の生活はちょっと捨てたけど、心までなくしてきたわけじゃない。リサも、全部全部変わっちゃったわけじゃないんだね」
「わたしは……なにも変わってない、つもりだけど。まあ、いつまでも子供じゃいられないってことなんじゃないかな」
「大人ぶっちゃって。いや、大人か」
「バカにしてる?」
「リサじゃなかったら、こんなこと言わない。……なんだか、昔に戻ったみたいな気分だ」
「……昔みたいに、また付き合う?」
渋い表情。レイはそれを望んでいないようだった。是非もない、今現在のわたしの愛など関係ない。彼女を突き放したのは、過去とはいえ、わたし自身なのだから。さっきのキスだって、迷惑だったかもしれない。
「リサ次第、かな」
返答は予想外のものだった。つまり、チャンスはあるということか?
「なにそれ。どういう意味?」
「そのまんまの意味。じゃあリサ、案内してよ。あたしの新しい止まり木にさ」
彼女の放った言葉に謎は残るが、わたしの心にはあたたかな歓喜が宿っていた。運命のいたずらが、またわたしとレイを出会わせてくれて。これが刹那の交錯だったとしても、その刹那を永遠に引き延ばしてやりたい想いに駆られる。
だが、時間は、あまりなかった。
「喜んで。わたしのかわいいシュライク」
今は、そう言うしかない。シュライクという皮を被ったレイと、やっていくしかない。
期限付きの新しい――否、懐かしき幸せの日々へと向かうべく、席を立った。
「おい、注文したものは片づけていけ」
この店員、本当に間が悪い。しかし、ケーキがめちゃくちゃ美味かったので許した。
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